80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

ただ、出逢いを求めて。

2017年03月14日 12時35分10秒 | 考える
3月2日(木) どうやら、本格的に風邪を引いたらしい。
この所、一日中、咳が止まらず、身悶える。

ボンドを軟膏と間違え、指につけて大慌てする。 
なんとも・・・言葉もない。

今日3月12日(日) 一向に咳止まらず。
風邪状態を保持しつつ、10日以上になる。
さすがに、これはあまり、いい出逢いとは言えない。
本来、願い下げの出逢いだ。

時計が止まる事があっても、時間は決して止まらない。
私に出逢いが有ろうと無かろうと、
どうであれ、周囲は確実に変わっていく。

所詮、人はそれぞれ、等身大の人生を送っていくしかない。
問題は、その等身大というのが、当人にもはっきりわからないと
いうことなのだ。



大胆にも、「オンリーワン」 を目論んで、これまでやってきた。
理想と、いくらかけ離れていても、まぁ、それはそれで、
「オンリーワン」 であることには違いはないのだが・・・。

しかし、問題なのは、何だかこの頃、他人を信用できなくなってきて
しまったようなこと。
よくよく考えてみると、自分自身も、その 「他人の一人」 なのだ。

今の私、周囲と共に何かやる、という選択肢が見えてこない。

無力感 → 存在感の喪失 → 自分がどれだけ役立たずなのかを知る。
再就職なぞは、夢のまた夢。
生き甲斐を求めて独り、当てもなく、街をさまよう。  

コントロール不能な存在・・・。
私に、「捨て金」、「捨て時間」 なんぞ あろうはずもない。


「出逢い」
うまいコーヒーとの出逢い。 
先日、以前から、ちょっと気になっていたのだが、なかなかチャンスが
なくて入ったことのなかったコーヒー店に入った。

プロの入れるコーヒーと、素人のそれとでは、自ずと違いが出る。
当然のことだが、うまい・・・!!
金を払い、金を取るだけの価値がある。
それが、職業、職人というものなのだろう。

無論、味については、私個人の意見たが。



何でもいいんだ。
ともかく完成品を一つ仕上げること、それが第一歩。
もっとも、それが、うまくいかない。

なぜか?
40年、いや、50年前から、同じこと考え続けてきた。
相も変わらず、その繰り返しだ。
結論が出ない。

映像化の可能な文章を書きたい。
読んでいると、自然に情景が浮かんでくる。
そんな文章を・・・。


まぁ、その前に、私の過去を、一遍の文章としてまとめ上げたい。
それが出発点だと思う。

誰でもが、一口飲んだら、「うまい!!」 と、うなづくコーヒー。
誰でもが、1ページを読んだら、次のページが気になって仕方が無い。

そんな文章が書いてみたい。

すでに70歳も、余すところ、あと4ヶ月ちょっと。
上と下から、憐みの目を向けられて、素知らぬ顔で、図々しく生きていく。

でも、結構気にしてはいるのだ。

まだ、生き続ける。
なら、私の知っていること、私の得意分野とは何か?
これが、この歳になっても、全く、思い浮かばない。

かっこいい人生。
かっこ悪い人生。
いずれにせよ、自分の人生には違いあるまい。


人は、想定外のことが起こると、何でもいい、とにかく理由を考えて、
一旦、納得しようとする。
が、一旦も何も、想定外の連続では納得のしようがない。

私の居場所

2017年03月12日 17時16分45秒 | 考える
自分の居場所は、常に 「ここ」 でしかない。

いつ、いかなる時も、この場に、同時、二人立つことはできない。
そういう場所に私は立つ。

事実、今立っている。


自分が存在するとは、他を排除してその場を占有する。
言ってみれば、そういう事なのだ。


我一人立つ、他の存在をはねのけて。

・・・まぁ、実際には、周囲を見回して、ことさら、はねのける必要も
ない所、楽な所を見つけて、私は立っているというわけなのだろうが。

会社を退職後、自分の居場所が、まるではっきりしない。
足元が見えない。


ライバル、先行者が見えなくなってしまったという事だろうか?

いいや、そんな格好いい事でもない。
だが実際、自分が、今、生きているという実感、緊張感が、本当に
薄れてきてしまっている。


現在、弟と同居中。

しかし、彼との間に、コミュニケーションがない。
いや、無論、彼が悪いというわけではない。
実に、私自身のコミュニケーション能力の問題だ。 

思うに、私は今、どう考えても、ただの間貸し人でしかない。

もっとも、そこからは、わたしの意地。
孤独(?)に耐えてこそ、男と言えるのではないか。
相談しようと、愚痴をこぼそうと、何の解決にもならない
相手はいらない、欲しくない (意地だ!!) ・・・と、思う。

・・・なんてねぇ、恰好つけてみても、全く、決まらない。

本当に、私は、何をやっても様にならぬ男なのだ。
 


いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
  握れば指の間より落つ
         石川啄木


友達、あるいは仲間の指の間から、さらさらと滑り落ちるのは私自身。

私の言葉は、いつだって、多分に先人の言葉のアレンジでしかない。


思いは思いとして、そのままそこに置いておく。
そのうえで考えると、相手のいないことを実感する。 

さらに考えてみる。
何故なのか?
最近の私の文章は、どうにも破壊的すぎやしないだろうか?
そんな気がしてきた。


文章は書き手を写すと言う。
言ってみれば、最近の私は多分に投げやり、破壊的に過ぎる。
そろそろ建設的な文章を作成しないといけないのではないか。
 

パソコンを睨んでいて、そんなことを考えた。

うん、 「反省」 とは、意外にいい方法かも知れない。  
反省は、成功の素材のひとつだ。

が、反省だけで成功を築き上げることは不可能だろう。


まずは、土地があり、その上に土台が固められ、しっかりと土台の
固まる時間を経て、始めて、集められた素材を用いて、思い描かれ
た建造物へと組み立てが始まるのだ。
 

他人と関わる。
他人と関係を構築する。

私の行為を、追認してくれる存在が欲しい。

今、居場所、そして行く場所を見失った男が一人。

広場の古ぼけたベンチに所在なさそうに、腰掛けている。
背もたれに体を押しつけるようにして、空を見上げてみる。


よくよく考えてみると、やることがないわけじゃない。
やることがありすぎて、どれから手をつけたらいいのか迷っていると
いうのが、本当のところなのだろう。


本当に進歩のない男だ。
 

醜男 (「ぶおとこ」と読んでください) や 格好つけても 相手なく

2017年03月09日 19時14分57秒 | 考える
ずっと、何かになりたかった。

それが何だったのか?
このところ、ずっと考えている。

私は母の、そして兄の想いに答えられるだろうか?

コミック 「BAR レモンハート」 を読んでいて、ふと思った。 
「酒飲み」も悪くはない。
少なくとも、夢を見続けられそうだ。 

夢見つつ、取りあえず、今日1日を、後一月を、さらには1年、
そして10年を生きていく。 
その後は・・・? 
まぁ、それは、またその時に考えよう。


我、人の世を彷徨い歩く、何を求めて。

人は気まぐれ、我が身とて、望むようには動かない。
ましてや、他人の思うようには。


喫茶店にて・・・。
前から気になっていた喫茶店に入る。

壁の飾り皿が、すごくいい感じだ。 ・・・ !!
家でも、真似してみたいと思う。

それにしても、いつもの事なのだが、向かいの席に、人影は無し。 
・・・まぁ (ため息)。
この状態は、何ともわびしいかぎりだ。


弟、・・・誘っても付いて来ないだろう。
もう、大人同士なのだから、と言えば言えるが、
これまた、考えてみれば、悲しい兄弟関係だ。


しかし、仮に彼が誘いに乗って、付いてきたとして、その後は・・・?
と言うと、何とも心もとない。
どうにも、その後の展開が、全く読めない。

我ながら、何とも駄目人間だと思う。

結果、ただ独り、喫茶店で、コーヒーを飲もうとする。
腕が思うように動かず、危うく、カップを取り落とすところだった。
何とも、やばい兆候だ・・・!!

私の体はどうなってしまったのか?
今後、どうなっていくのか・・・、


不安 !!


半身・・・、いや、「全身不随」の前兆だろうか?

と同時に、ここ数日間、一向に、咳が止まらない。

そのうえ、とうとう、弟まで、巻き込んでしまったらしい。 

兄弟揃って、咳の競演。


う~ん、何とかせねば・・・。

さりとて、それを相談する相手も、愚痴をこぼす相手もいない。

そう、今、何か、誰かと無性に話がしたい。
静かに、向き合って、語り合える相手が欲しい。
出来れば、にこやかな女性が希望・・・などと。

急募、求む恋人、もしくは茶飲み相手・・・取りあえず「仮想」でも可。


もっとも、よくよく考えてみれば、それが実現したとしても、
その時、一体何を話せばいいのか・・・?

実際に私が、共有出来ることが何もない。

大方、出てくる話題(?)は、自らの無能についての愚痴ばかりだろう。

マナーも形式も、何もない。

う~ん・・・もしかすると、相手が無くて、良かったのかも知れない。 

恰好つけても、話題とてなく、さらには、こちら、まるでさまにならない醜男。
これじゃぁ、いくら粘ったところで、何も起こるはずもなし。


ただただ虚しいばかり・・・。 

夢・・・、つまりは思い込みに過ぎないということなのだろう。

そうやって、夢想の上に、無意味な一日、また一週間が過ぎていく。

部屋にいて、じっとしていると、咳ばかり。

外に出れば、不思議に咳は止まるが、
私は、ただひたすら黙々と歩き続けるばかりだ。
 

どこにも、私の居るべき場所、あるいは行く場所がない。


などと、いくら愚痴ってみても、何か変わるはずもなく、
ただ、ただ時が過ぎていくばかり。



賽の河原

2017年03月06日 20時40分57秒 | 考える
何かを思いつき、メモを取ろうと、ペンを探している内に、
肝腎の思いつきが、何だったか忘れてしまった。

かなり大切な思いつきだったような気がする。
この所、こんな事が頻繁に起きているような・・・。


ここずっと、薬ばかり飲んでいる。
毒を以て毒を制す。

それにしても、このところ、我が身の、無力、無用感が離れない。

こうして、部屋に一人籠もっていると、「賽の河原」 を思う。


賽の河原で石を積み上げる子供。

この伝承を赤子塚との関係で考え,賽の河原の原形を赤子塚と推定する
説もある。
江戸時代に,むだな努力を〈賽の河原の石積み〉にたとえ,また未婚者が
死ぬと小児と同じように賽の河原に追いやられるということから,独身者
のことを〈賽の河原〉ともいったが,ともに賽の河原信仰によったもので
ある。   「世界大百科事典より」
   

石の山、積んでも積んでも、積んだそばから、鬼が来て取り崩す。
しかし、鬼が風邪をひいて寝込んで、崩しにやってこないとしても、
一体それでどうなる?

何の意味もない石積みが、数千、数万、賽の河原に増えるだけのこと。
役に立たないだけならともかく、かえって邪魔になるばかり。

・・・なるほど !!
だからこそ、鬼が来て取り崩すのか。

鬼と子供の、いたちごっこ。

それでも人は、一生懸命、石を拾って積み上げようとする。


単なる惰性・・・?
そうなのかもしれない。

伸びた枝を切り落とされる街路樹。
枝が電線に触れたら危険だ。
それはよく分かるが、もともと電線の下に植樹した人間が悪い。
枝を伸ばした樹のほうには、何の罪もない。
枝を落とすのは、人の都合、人の勝手な考えの結果でしかない。


ひょっとして、いつか人間自身が、別の何物かに、手足をもぎ取られて
飾り物にされる日が来ないとは言えない。
そう言えば、昔、中国の西太后がそんなことをやったとか、やらなかっ
たとか・・・


思うに人は、力を持つと、何をやらかすか、分かったものではない。

何も無い、何も持っていない自分、本当は、それがいいのかもしれない。


ウィスキーと共に

2017年03月04日 19時05分56秒 | 考える
春近し。

今、自分自身、気持ちが高揚していると思う。
現在、私は無性にどこまでも駆けていきたい気分だ。
これは、おそらく、酒のせいなのだろう。 

他人を、誰一人、喜ばす術を知らない自分の無能さが歯がゆい。
何をやっていても、常に無意味感がつきまとう。


「まずは、自分のために生きる事だ」 と、人は言う。

それが基本。

自分が満足していないのに、他人のためになぞとはおこがましい。
それこそ驕りでしかないと。


・・・そうなのかなぁ・・・?? 

酒を飲む、酔いを求める、その目的は、一体何だろうか? 

現実逃避・・・。

いつまでたっても、自立できない、その目処すら見えてこない、
未熟な、そんな自分に、嫌気がさしてくる。

兄は、そして母は、私に何を求めているのか?
どう生きていけというのか。

目的、目標を設定するのは、あくまで「お前自身」の成すべきことだ。
私が「他人のためと称して」やろうとしてきた事は、総てが
無意味だった気がする。
 (やってきたではなく、あくまでやろうとしてきたことでしかない。)
それは、現在、自分自身の自己満足にすらなってはいない。


ふと、部屋を見回す。
弟と、チョッピリ私の読んだ、読みかけている文庫本が、山のように  
折り重なっている。
見ていると、私も、何か、オリジナルなものを書いて、世に問いたい。
考えてみれば、今の今まで、ずうっとそう思い続けてきたのではなかったか。
しかし、現実・現状は、「思い」から、遠くおいていかれた状態だ。

が、物語でも何でも、ただ書けば終わりというものではない。
何かを書けたとしても、書店に並べてもらう。
これだけ大量の書籍の一角に、1冊の本を潜り込ませるのは、並大抵の事ではない。

さらには、その書籍を手にとって、読んでもらおうなどとは、夢の中の夢の
ように、大変な事なんだと、今、気がついた。 (・・・いまさら・・・!!)

他人はどうあれ、自分として、出来得る限り、今、最高を楽しんで生きるべきだ。
それが、自分の人生と言うべきだろう。


つねに、最高を求めつつ生き、結果、他人を気遣うのは二の次で良い。
とは言え、よくよく考えてみれば、「自分の最高」とは何だろうか?
そこからして、悩むところだ。

人は、独りで生き、独りで死んでいく。 

親兄弟、親友、仲間と言えども、共に、一緒には死んではくれない。

分かり合える友を求めて、人生を彷徨いあるく。
人生のジプシーの如くに。


70歳にして未だ夢を追う。
いつまでも、・・・そして、いつかは・・・。


ウィスキーを懐に、夢を求めて旅をする。 

まずは自立・・・、自分の周辺をを片付ける。
しかし、間違っても、自分自身を片付けてしまわぬようにせねばなるまい。
 

後のことは、それからゆっくりと考えよう。
とは言うものの、この先、あまり時間は無さそうな気もするが。