80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

世の中は・・・。

2017年06月16日 05時46分31秒 | 考える
目の前を、松葉杖をついたご老人が通り過ぎる。
先方は、気づいていらっしゃるかどうか、この広場でよくお会いする。
見た目は、私より年上に見えるが、はっきり言って、私に他人の歳が読めない。 
同年配にも思える。

私の現状、いささか疲れやすくはなってきたものの、何ら日々の行動に差し支え
るといったほどのものではない。

もっとも、あくまで 「現状は・・・」 なのだが。
明日のことは知らない。
が、今日、取りあえずは、杖を必要としない。 
私としては、まぁ、満足すべき状況なのだろう。


バスで、隣に座った女性から話しかけられた。 
「よくお会いしますね。」
ドキッ・・・!! 
「以前、よくカメラを持って、写真を撮ってらした・・・。」 

ハァ・・・。
ムムッ、 ・・・どうやら、気がつかぬ所で
(一応、目を合わせれば、誰彼なく、挨拶だけは交わすようにしている)
他人様から見られていたらしい。

全く、世の中、油断も隙もない
今後、悪事を働こうとする時には、よくよく準備周到の上、人目を引かぬよう、
より一層の注意をせねばなるまい。


もっともこの所、腰痛がひどく、悪事を働こうにも、いささかキツいものがある。 
・・・などと、万一、悪事露見の場合に供え、一応、「予防線」 を張っておく。

「いえいえ、腰痛の私めでこざいます。 そのような大それたことが、出来ようはずもございませぬ。
 へへぇ~。」


それにしても、世の中は、広いようで、案外狭いものらしい。
注意せねば・・・。 
 

水星が、挫折のあとに望みを叶えてくれます

2017年06月12日 08時16分06秒 | 考える
☆ 水星が、挫折のあとに望みを叶えてくれます。(占星術)・・・プチ「魔法の杖」 

インターフォンの音とともに、神の使者がやってきた。
話を聴くのは嫌いではない。

「あなたは、神を信じますか?」 

人は、神の名の下に、他人に、あるいは、環境に働きかける。
神にすがることで、人間に生まれてきた事、自己の行動、行為への免罪符とする。
人は、自らの 「人としての後ろめたさ」 を、絶対者、神の名の下に包み込む。 

古い話だが、キリストの名における十字軍。
現在の、イスラム教の名におけるテロ行為。
どこがどう違うのか?

いずれにせよ、この世に生きて、実際に行動するのは、神でも仏でもない、
かく言う自分自身なのだ。  

何事にせよ、信じ切ることの恐ろしさ。

ふと気がつけば、応対に開いたドアのこちら側に、誰も、何物をも信じ切れない
私が居た。


そして、黒焦げのパンケーキ ・・・ !! 
火事にならなかったのは、それこそ、神の力なのかもしれない。

私の居場所はどこだ・・・?!

2017年06月11日 16時28分14秒 | 考える
生きるとは、「その場に居切る」事だ。
何度も書いてきた。

私のように、あっちへ行ってみたり、こっちへ戻ったりする生き方ではない。
自分の生き方とは、言い変えれば 「他人との差別化」 だろう。

今の私、何をやってみても、今ひとつ物足りない。

これは、ちょっと違う。
もっと、何かないのか?

俺様の生き方としては、今一・・・・。
それは、逆に、こちらの実力不足でもあるだろう・・・。

人にはそれぞれ容量がある。
いつしか、そう思うようになった。
とは言え、私自身にどれだけの容量があるのか、それが分からない。

確かに自分としては、容量いっぱいに動き、かつ、考えているつもりだ。
しかし、定量に周囲を取り入れた分(取り入れざるを得ない)、当然の結果、
自分自身がはみ出していく。

周囲を気にするあまり、知らず知らずに自分を抑えてしまっている。
そんな気がする。


一個人が、他人を完全に無視して生きていくことは不可能なのかも知れない。
ならば、どこまで、どれだけ周囲を受け入れていくべきか?

家でパソコンに向かっていても、駅前広場のベンチに腰を掛けていても、
常に考えている。

ここではない。
本来、私の生きる場所はここではあり得ない。
私の居場所は、もっと別の場所であるべきだ。


今日もまた、独り・・・彷徨い続ける。

そして、駅前広場のベンチに腰を掛け、ただ、ただ思い続ける。

私の居場所はどこだ・・・?!

一人で生きるとは? … ありがとう。

2017年06月09日 07時08分01秒 | 考える
一人で生きるとは?

私の存在とは、他人に、あるいは私自身にとって、
何か意味があったのかも知れない。

年金・・・、金は大切だ。 
いざという時に、金が無ければどうにもならない。

死後はともかく、現在なり、また、ちょっとは先のことも
考えておかねばならない。
取りあえず、死後は「無」だとしても。

平成29年6月7日(水) 曇り空、今日も暑くなる予感。

午前7時15分・・・今日が見えない!!

天候のせいだろうか?
何やら、生きていくのが面倒になってきた。 
が、だからといって、別に死にたいなどというわけでもないらしい。

ただ、何もしない(出来ない)と、イラついてくる。
今まで、ちょっと前までは、他人任せで生きてきた。
他人が「やれ」、あるいは「やろう」と言ったことに、従順に行動しようとしてきた。 

退職して、自立して、自分の行動を、自ら決定せざるを得なくなった時、ふと思った。
「私は何をやればよいのだろうか?」
何も思い付かない。

そう、これまでの人生は、ずっと他人任せで生きてきた。
そのツケが、今頃回ってきたのかも知れない。


他人に合わせよう、合わせよう、他人の喜ぶ顔が見たいと、自分を律してきた。
独りになって、ふと考えてみると、今、自分が何をやりたいのか、何が出来るのかが、
分からなくなってしまっている。


昨日、いつものベンチ、たまたま隣り合わせに座った男性に、お愛想のつもりで、
「暑いですね。」 と声を掛けたら、 「いえ、風がありますから・・・。」 と返された。

ウ~ン・・・。

気がつけば、かなり強い風が吹いている。
どうやら、私は、ただの惰性で、「挨拶らしきもの」 を口にしたようだ。

最近は、こんな事が多くなってきたような・・・。


平成29年6月8日(木)
医者帰り・・・。

老人センターにて思う。  
私、70歳は老人なのだろうか?

「要は、気の持ちようなのさ。」 
そう言う人がいる。
しかし、よくよく考え・・・るまでもない。
やはり、70歳は、一般的に、いや、「確実に」老人なのだ

老人は老人らしくと言う。
が、老人初心者の私には、どうすれば老人らしくなるのかが分からない。

ことさら心を閉ざしているつもりはないが、どうも他人が寄りつかない。 
たまに声を掛けてくれる人もあるが、私がどう反応すればいいのか、迷っている内に
離れていってしまう。

行く当てもなく、ただ独り酒を飲む。  風来居士 (風来孤児とした方がいいのかも) 

70歳、初経験の10ヶ月間だった・・・。 

この頃、時々、右手の指が突っ張る。
右腕、肩から先が、緊張して思うように動かない。
その緊張が、指先に押し出されて、指先が突っ張るらしい。

結果とは、総てを認めざるを得ない現実だ。 
70歳、・・・結果とは、現実とは、目を背けようとしても、
容赦なく体を押し包んでくる。
そう、このところ、徐々に、体が自由に動かなくなっていく恐怖を感じる。

頭の方は、すでに思い通りには動いてくれない。
こちらは、まぁ半分・・・あくまで半分、諦めている。
半分は、まだまだ、何とか彼んとか、いけるだんべぇという色気だ。 

とは言え、現実的にはどうなのか?
このところ、体内エネルギーのコントロールが、うまくいかずに、少々暴走気味、
オーバーラン状態。


同窓会、古い仲間の経験談(?)を思い出すにつれ、自らの、今に至るまでの経過、
期待と現実に目を向けざるを得ない。


最近、考えること、動くことが、何やら面倒になってきている。
そんなことを、ふと考えた。

よくよく考え見ると、このところ、実際に体を動かしたり、頭を使ってものを考えたり
することが、ぐんと減って、ボォーッとしている時間が増えてきているような・・・。
そんな気がしている。


今日、医者から帰ってきたら、弟が、私の友人から電話があったという。
何でも、このところブログの更新がないから、どうしたのか心配になったと言う。

いやいや、本当にありがたいことだ。

まだ、私を心配してくれる友人がある。 
何となく、ほっこりするではないか。
ちょっぴりだが、やる気が出てきそうな気がしてきた。
今のところ、あくまで 「きそうな」 のだが。



取りあえず、仲間(?)へ、そして自身への 「生存確認」。

・・・ありがとう !!