80年代、早弾きギタリストのテクニックの競争は激化していた。
マイク・ヴァーニーのシュラプネルレーヴェルはその象徴だった。イングヴェイの数多くのフォロワァー達。出すアルバムが飛ぶように売れていった。だがしかし、確実にテクニックだけではない、と思えるギタリストももちろんいた。
ポール・ギルバート、レブ・ビーチ、ヌーノ・ベッテンコート、ヴァーノン・リード、ジェフ・ワトソン、ブラッド・ギルス、スティーヴィー・サラス、トニー・マカパイン、グレック・ハウ、マイケル・リー・ファーキンス、・・・。
彼らが、その情熱を自らの非凡なテクニックで昇華させていた頃、今は巨匠となったスティーブ・ヴァイは(レベッカでも一曲、ソロを弾いている)、アルカトラスからデイブ・リー・ロス・バンドで新たな境地を模索する。その師、サトリアーニはスチュワート・ハムのソロアルバムで新しい方向性を垣間見せていた。
しかし、いつしか早弾きが飽和状態を見せたとき、世界のロックシーンは変化した。ハードな早弾きで美学を追い求めたり、感情を表現するよりも、テクニックを兼ね備えながらあえて必要とされない音楽が好まれるようになった。それは、時代の自然淘汰なのかもしれない。あるいは求められる音楽の好みの趨勢なのだろうか?僕にはわからない。ただ僕も、この頃からハードロックの新譜をあまり手にすることがなくなった。
僕はクラッシック・ギターの親密な生音に魅了された。そうして月日は流れた。
ある日、友人から一枚のCDをプレゼントされた。
それが、「play or die」だ。
初めて音を耳にした瞬間、懐かしい気持ちになった。その超絶テクニックの嵐にはまさに脱帽だ。ギターはこれでもか、というくらいに弾き倒しフレットレス・ベースは低音をしっかり支えながらも平気で高速ユ二ゾンをびしばし決めてくる。トリオのインストバンド。怖いくらいのテクニック。
しかし、一度は離れた音楽。どうしてこんなに新鮮に感じるのだろう?
まるで、忘れ去られた吉野家の牛丼にありつけたかのように・・・。奇妙に惹かれる。耳を奪われてしまうのだ・・・。
今の音楽シーンへの苛立ちがこのおかしな現象を引き起こす。
必要とされなくなったテクニックは、その反動でテクニックがなくても売れる音楽を散布した。まるで、戦後、GHQが撒き散らしたDDTのように・・・。
そうして、誰しもが手軽に出来る作曲や、音楽とはあまり関係のない音楽産業が構築された。必要性があるから売れるのだろう。
だけど僕は嫌だ。
はっきり云う。苦手だ。
そんな時代だからこそ、「play or die」の演奏に吸いつけられた。
ギターの「溝畠 一輝」のソロアルバムが発表されたらしい。
シュラプネルを意識した・・・とのこと。
今、シュプラネルを意識する、と公言するギタリストもすくないのではないか?
もっと聞こえの良さげな、仰又しい文句が出てきそうなもんだ。
でも、そこに自らの「音楽」への自信が垣間見える。
時代に左右されないほどの、御自分の表現方法をお持ちなのだろう。
僕は、まだこのアルバムを耳にしていないので、えらそうなことは本来何もいえない。
でも。
長い時間の流れのなかで
自身の音楽を貫かれてきたであろう、強い意志。
「play or die」の頃と今。
是非、耳にしたい。
そして、こんな方が埋もれている不思議に驚くのだ。
アルバムと購入方法については、このギタリストを僕に教えてくれた、友 人、TOMMYさんのページ、「変態のつぶやき」まで。
もちろん、僕なんかよりも詳しく、愛情をもってこのバンド、ニューアルバムについて書かれています。ぜひ、この文章をみられた方がいらっしゃるなら、足を運んでみてくださいね。
しかし・・・。
驚異的なテクニック。
音楽性。
びっくらこきました。
日本も広いな~・・・。