獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』その3

2024-04-20 01:54:43 | 音楽

カーペンターズのことをもっと知りたくなり、こんな本を読んでみました。

レイ・コールマン『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』(福武書店、1995.02)

かいつまんで、引用します。

(もくじ)

□序文(ハーブ・アルパート)
■プロローグ
□第1部 涙と恐れ
□第2部 栄光のアメリカン・ドリーム
□第3部 孤独な心
□第4部 坂道
□第5部 両海岸ブルース

 


プロローグ

(つづきです)

妹の衰弱、そして死、さらにその余波の記憶とともに生きる精神的外傷は、1983年のあの衝撃の日以来リチャード・カーペンターから消えることはない。
達成をともに喜びあった妹を失った彼は、永遠の悲しみと疑問に取り憑かれたままだ。今もなお、彼女の声の質に驚きを覚え、死に至る悲劇的な状況と同時に、ともに過ごしたすばらしいときに思いを馳せるという。
彼と私との評伝についての話し合いは15年ほどにもおよぶ。“今だ”というときがなかったのだ。時期尚早だったり、カーペンターズがロードやスタジオ・ワークで忙しかったり、カレンの身体の具合が悪かったり、リチャードが問題を抱えて自暴自棄になっていたり(1970年代後半、睡眠薬の服み過ぎで危険な時期があったが、なんとか乗り越えた)だった。その後、カレンが死んで、彼には心を落ち着かせ、記憶を正しい相関関係に位置づける時間が必要になった。
1980年代後半になり、私はハリウッドで定期的におこなってきた彼との話し合いの際に、そろそろこの物語をまとめ上げたいので協力を考えてはもらえないかと催促した。新しい世代が彼らの音楽に目を向けはじめていた時代だったので、彼らがもつ対照的な二面――サウンドの創造とカレンの悲劇――の重要性は記録する必要があった。
リチャードは本書の刊行について長い時間迷った。胸の痛むことが多すぎる、と彼は言った。さまざまな問題を抱えた過去への扉をもう一度開ける勇気があるかどうかわからない、と。説得は時間を要したが、最終的には、自分たちの業績に対する誇りが真実を伝えたい願望とあいまって、さらに過去にたいする洞察力もましていたため、ためらう心に打ち勝った。カレンの死が永久に神経性食欲不振症とその患者の治療の指針としてみなされるであろうことも彼はよく承知している。なぜなら有名人だった彼女の問題は公衆の面前にさらされていたからである。もしこの本が患者をひとりでも救うことになれば、それだけでも価値がある、リチャードと私は度重なる会話のなかで何度となく言い合った。
これは、そういうわけで、戒告をこめた物語でもある。リチャードとカレンの物語は典型的アメリカ中産階級の夢の実現だった。コネティカット州に住む兄妹が音楽に恋をし、カリフォルニアへ移り住んで、星に手をのばし、余すところなく望みを達成したのだ。楽しい時期もあった。彼らの物語は喜びに満ちている。お互いの芸術的才能を崇拝したが、ともするとお互いの私生活にまで独占欲を示すことがあった。ふたりはともに行き過ぎた行為の犠牲となる。リチャードは薬物常用の、カレンはダイエットの。
リチャード・カーペンター、その家族、友人、さらに仕事仲間といった人々の話を聞いていくうち、私はなぜ彼が自分たちの物語を懸命に表に出さないようにしていたのかが理解できるようになった。
ショービジネスの世界の頂点への心浮き立つ旅は、鏡に映る自分の姿を憎んだ若い女性が大きな代償を支払って衝撃的な終わりを迎えるのである。
カレンが取り憑かれた強迫観念、頑固さ、内なる葛藤、そしてリチャードがあやうく命を落としかけた睡眠薬常用についての真相を求めて百人近い人々にインタヴューするうち、あまりに衝撃的な早すぎた一生の終わりに怒りの涙を流す人にも出会った。
同時に、比類のない音楽の量と質、カレンの抜群の歌唱力にたいする感嘆の声はいまも残っていた。リチャードが、妹とのコンビにたいする愛着と彼女を失ったことによる激しい落胆とがないまぜになった思いをもって、妹のことを考えない日は一日もないというのもうなずける。
ふたりの歴史であるこの物語と再び対峙することはリチャードにとってしばしば拷問となったが、彼の熱心な協力なくしてこれを書くことは不可能であったろう。彼の辛抱強さ、率直さと、答えにくい質問の数々にどんなときでも答を出そうと試みてくれた姿勢に心からの感謝を捧げたい。本書の巻末には、そのほかアメリカとイギリスとで私の調査を助けてくれた忍耐強いたくさんの人たちの名前を挙げてある。私はいい時期のカレンも悪い時期のカレンも知っていた。彼女の星が輝いたのは瞬く間ではあったが、たしかに輝き、彼女の陽気さ、誠意、生来の歌声は見る者、聴く者すべての心に触れた。彼女は音楽を深く愛してやまなかった。ここ何年来の現象だが、カーペンターズのサウンドは伝説となりつつあり、それにつれてカレンの創造的遺産もふくらんでいる。彼女もそのことをきっと喜んだであろう。

レイ・コールマン

 

 

 


解説
ショービジネスの世界の頂点への心浮き立つ旅は、鏡に映る自分の姿を憎んだ若い女性が大きな代償を支払って衝撃的な終わりを迎えるのである。
カレンが取り憑かれた強迫観念、頑固さ、内なる葛藤、そしてリチャードがあやうく命を落としかけた睡眠薬常用についての真相……

非常に興味深い内容ですが、量的に膨大なので、このシリーズでは割愛します。
興味のある方は、本書をお読みください。


獅子風蓮


『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』その2

2024-04-19 01:51:21 | 音楽

カーペンターズのことをもっと知りたくなり、こんな本を読んでみました。

レイ・コールマン『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』(福武書店、1995.02)

かいつまんで、引用します。

(もくじ)

□序文(ハーブ・アルパート)
■プロローグ
□第1部 涙と恐れ
□第2部 栄光のアメリカン・ドリーム
□第3部 孤独な心
□第4部 坂道
□第5部 両海岸ブルース

 


プロローグ

(つづきです)

彼らは音楽を武器に闘い、勝利を手にした。だが運命のいたずらにより、カーペンターズの名前は同時に悲しみを伴って記憶されることとなった。カレンが、神経性食欲不振症と闘ったのちに命を落とした最初の有名人となったからである。神経性食欲不振症は拒食症とも呼ばれる摂食障害のひとつで、アメリカでは現在およそ800万人の患者がいると見られている。イギリスでは少なくとも6万人が食欲不振症あるいは食欲異常亢進症にかかっていることは判明しているが、実際の数字はおそらくその2倍であろうと推測される。
精力的に仕事のスケジュールをこなしつづけた何年間かのあいだ、彼女は病んだ身体を酷使していたわけだが、驚くべきことにその声にはふらつきひとつなかった。感情豊かな性格ももとのままで、友人たちは彼女のいつもながらの思いやりとユーモアを最後まで愛してやまなかった。亡くなる前の2年半、彼女は結婚していた。母親になりたいと切望していた彼女だったが、結婚生活はたちまち壁にぶつかり、彼女の精神的不安を大きくした。
しかし、彼女に死の願望はなく、将来もずっと音楽をつくっていきたい、さらに自分の才能をエンターテインメントのほかの分野にも広げていきたいと思っていた。彼女は昔ながらのショービジネス界の人間だったのだ。
だとしたら、何がカレン・カーペンターを殺したのか? たんなるダイエットへの行き過ぎた執着だろうか?
注目を集めたいと願う心か? たしかに骸骨のような体形は、目を向けた者の視線をいやおうなく引きつける。
管理について何か言いたいという欲求か? たとえ食欲不振症患者であれ、食べ物をフォークで口に運ぶ行動にかんしてまでは、誰も管理できない。
多くの研究者が理論づけているように、根深い心理学上の問題なのだろうか? すなわち、患者との関係に問題があったかもしれない親にたいしておぼろげながら発せられるシグナルなのだと。
この場合にかぎれば、母親に“より優れている”として扱われる兄と同等の注目を浴びたいという、厄介で致命的な“平等意識”だろうか? しかるに、兄なくしては自分にキャリアなどなかったはずだとカレンは思っていた。
あるいは、カレンがステージに立てるほどの美しさは自分にはそなわっていないと思いこんでいたことを考慮すると、彼女の飢餓状態は自負心の欠落を矯正することを目的としていたのだろうか?
これらはこの評伝のなかで投げかけられる疑問のほんの一部である。カレンの芸術は多くの部分が彼女の魂の産物であったことは間違いなく、インタヴューに答えた人々の多くは彼女の心理について語り、孤独であることを切々と訴えていた声の質について語った。1ダースあまりのアルバムを通し、カーペンターズは何百万もの人々の心に残る作品を数多く世に送りだした。カレンも兄同様に仕事中毒で、成功と名声を享受はしたが、自分たちが永続性のあるアーティストだったことを生きて見届けることはなかった。 たとえば現在のイギリスを見ても、ラジオから彼らの曲が流れてこない日は一日もない。とくに特別な日ではない1993年4月16日、国営第二放送ではカーペンターズの曲を一曲かけたあとでディスク・ジョッキーのサラ・ケネディーがこう言った。「カーペンターズがいなかったら、第二放送はいったいどうしたらいいんでしょうね!」

(つづく)


解説
何がカレン・カーペンターを殺したのか? たんなるダイエットへの行き過ぎた執着だろうか?

本書では、多くのインタビューをもとに、カレンが拒食症になった理由を、さまざまに考察しています。
その量は膨大なので、この連載ではその部分は割愛します。

関心のあるお方は、ぜひ本書をお読みください。

 

獅子風蓮


『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』その1

2024-04-18 01:46:18 | 音楽

前回カーペンターズのことを紹介しました。

カーペンターズのことをもっと知りたくなり、こんな本を読んでみました。

レイ・コールマン『カレン・カーペンター栄光と悲劇の物語』(福武書店、1995.02)

リチャードとカレンの兄妹によるカーペンターズは、世界的に大人気となった。しかし1983年2月4日、カレンは拒食症(神経性食欲不振症)で突然死亡。このニュースは痩せ衰えたカレンの写真とともに、全世界に大きなショックを与えた。兄リチャードの証言を核に、カーペンターズの栄光の軌跡とその舞台裏、そしてカレンの発病から死にいたるまでの真実が、初めて克明に語られる。

かいつまんで、引用します。

(もくじ)

□序文(ハーブ・アルパート)
■プロローグ
□第1部 涙と恐れ
□第2部 栄光のアメリカン・ドリーム
□第3部 孤独な心
□第4部 坂道
□第5部 両海岸ブルース


プロローグ

これは栄光と悲劇に満ちた物語である。四半世紀前に登場し、いまなおその音楽がポピュラー・ソングの風景の一部として欠かせないカレン・カーペンターとリチャード・カーペンターの、本書ははじめての評伝である。

カーペンターズの黄金のサウンドは、〈遥かなる影〉〈愛のプレリュード〉〈トップ・オブ・ザ・ワールド〉〈イエスタデイ・ワンス・モア〉〈雨の日と月曜日は〉など立て続けのヒットにより猛烈なスピードで世界を駆けめぐった。一時的なヒットでは終わらないことを計算に入れて構築されたサウンドだった。

だが、このおとぎ話にはほろ苦い一面があった。カレン・カーペンターが、当時はまだあまり知られていなかったいわゆる摂食障害との7年間にわたる闘いの末、1983年2月4日に死亡したのである。その間、身内や友人は、カレンが女性の多くがたどる道を忠実にたどって痩せているだけだと思っていた。しかし実際は、カレンはダイエットに取り憑かれて抑えがきかなくなり、治療のかいもなく、女性が抱える大きな問題としてそのころようやく表面化してきた神経性食欲不振症がもたらす心不全により死亡したのである。

享年32歳、結婚はしていたが幸せではなく、仕事を愛し、大富豪だった。悲しみに痛む胸の内をひしひしと伝えるカレンの声は、音楽ディレクターでありソングライターである兄リチャードとともに、しばしば自伝とも思える挫折した恋やロマンスを扱った一連の曲を歌い上げた。〈青春の輝き〉〈ハーティング・イーチ・アザー〉〈愛にさようならを〉〈ソリテアー〉などである。

カーペンターズの音楽はいつの世にも人気があるばかりか、おそらく永久に不滅であることは間違いないが、成功をおさめるために彼らはいくつもの困難に打ち勝たなければならなかった。デビュー当時の彼らは評論家たちに“めそめそしている”“ご清潔”“性的魅力に欠ける”として無視された。“サッカリン”にたとえられる音楽のみならず退屈な外見が酷評されたのである。
1970年代前半のレッド・ツェッペリン、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、スライ・ストーンといった面々の持ち味や姿勢が支配するロック界の空気、さらにディスコも台頭する時期に、メロディックなポピュラー・ミュージックを歌う、これといった主張もない兄妹は排斥の対象となった。そればかりか、彼らのファンであることを認める者までが“目覚めた社会”のなかにあって黴菌扱いされた。
20年後、彼らをあざけったアーティストの多くが消え失せる一方で、彼らの音楽は本領を発揮するようになる。飛行機のなか、レストラン、本屋やスーパーマーケットで流れ、ラジオからも聞こえてくる。CDの売れ行きも爆発的である。彼らのサウンドを真似、外見も真似たアーティストがアメリカ、イギリス、日本のあらゆる年齢層を対象にカーペンターズのヒットを大入り満員のコンサート・ツアーで演奏しては、彼らの曲を不滅のものとしている。
カレンとリチャード・カーペンターの作品は現在ではオープンに賞賛されている。とりわけ若年層が、声の美しさと曲と編曲の質を認めることを“クール”だとみなしている。
デビューが絶妙なタイミングだったとは言いがたいとしても、1990年代は彼らの魅力が時代を超え 本物だと認識している。
彼らの柔らかで心をなごませる音楽は、ヴェトナムやウォーターゲートといった危機的状況にたいする解毒剤として受け止められた。その時代のドラッグ文化のなかにあって、リチャードとカレンは多くの人々が新たなアメリカン・ドリームと考えるものを縮図として示した感があった。健全で、天賦の才に恵まれ、家族を大切にし、勤労を善とする考えをしっかりともつ彼らはニクソン大統領の賞賛をも受けた。大統領は彼らを“アメリカの輝ける若者”と表現し、ホワイトハウスに呼び寄せて公的な場で演奏をさせたほどである。

彼らには視覚的なインパクトがほとんどなかった。カレンはバンドの前に立ち、観客を楽しませはするものの、視線を釘付けにするほどのこともなく、一方リチャードはピアノの前でまじめくさって演奏する。しかしながら、そのレパートリーはラヴ・ソングであふれ、カレン独特の生来の才能がその魅力を余すところなく伝えた。一度聞いたら忘れられない、どこか寂しげなヴォーカルは完璧な音程と特徴ある音色をそなえており、同時代人の多くが今では彼女を最高の女性シンガーのひとりとみなしているのである。

(つづく)


解説
カーペンターズの音楽はいつの世にも人気があるばかりか、おそらく永久に不滅であることは間違いないが、成功をおさめるために彼らはいくつもの困難に打ち勝たなければならなかった。

アメリカでは、最初からカーペンターズが受け入れられたわけではなかったのですね。


彼らには視覚的なインパクトがほとんどなかった。カレンはバンドの前に立ち、観客を楽しませはするものの、視線を釘付けにするほどのこともなく、一方リチャードはピアノの前でまじめくさって演奏する。

私からみれば、カレンはじゅうぶんきれいなお嬢さんですが、アメリカの芸能界では、それだけでは通用しなかったということでしょうか。
そのことで、拒食症になっていったのでしょうか。

 


獅子風蓮