というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
■四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記
四杯目の火酒
3
__ぼくはね、あなたに会ってこうやって話を訊きたかったわけだけど、こちらから話したいことが、二つあったんですよ。ひとつは、オルリーで見かけたということ。でも、もうひとつあるんだ。
「どんなこと?」
__そう、どう言ったらいいか……。
「なんか、恐そうな話だね」
__ハハハッ。 恐くなんかないけど……。
「なんか、そんな感じのする、しゃべり方だもん、少し恐いよ、ほんとに……」
__あなたに〈面影平野〉という曲がありましたよね。
「うん」
__阿木燿子が作詞して、宇崎竜童が作曲した。当代随一のコンビが、初めて藤圭子に書き下した曲、という謳い文句で。
「うん」
__いい曲だった。
「うん……」
__ラジオで聞いたとき、ぼくはすごくいいと思った。久しぶり、ほんとに久しぶりに、藤圭子が曲に恵まれたと思ったんだよね。〈面影平野〉が出たのは、2年くらい前のことになるかな。
「うん」
__これはヒットするぞ、と思いましたね。阿木さんの詞がすばらしかった。ここに歌詞カードがあるんだけど、
女一人の住まいにしては 私の部屋には色がない
薄いグレーの絨毯の上 赤いお酒をこぼしてみよか
波紋のように足許に 涙のあとが広がって
酔えないよ 酔えないよ
六畳一間の 面影平野
宇崎さんの曲だって悪くなかった。ヒットする条件はそろっていた。なのに、なぜかヒットしなかった。
「でも、まあまあいったんだよ、あの曲」
__いや、あんな程度のものは、藤圭子にとって、ヒットでもなんでもないはずですよ。〈面影平野〉は、ヒットしなかった。
「うん……」
__どうして〈面影平野〉はヒットしなかったんだろう? 絶対にヒットしてもいいはずだった。ぼくはそう思う。なのに、なぜヒットしなかったのか。
「わかんないよ」
__わからないはずはないさ。
「でも……」
__曲が悪かったの?
「……」
__そんなはずはない。いい曲だった。阿木さんと宇崎さんの曲の中でも、最もいい曲のひとつだと、ぼくは思う。そうじゃないとすれば……。
「……」
__藤圭子のパワーが落ちたから?
「……」
__藤圭子の力が落ちた。だからなのかな?
「……」
__何故あんないい歌をヒットさせられなかったんだろう。
「……」
__藤圭子は、 藤圭子じゃなくなってしまったの?
「……そうさ。 そうだよ。 あたしは……あたしでなくなっちゃった。そうなんだよ」
__……。
「藤圭子の力は落ちた。そうさ、落ちたよ。それは誰よりあたしが知っている。力は落ちた。パワーはなくなった。そうさ、なくなったよ」
__……。
「だからヒットさせられなかった。沢木さんがそう言うなら、そうかもしれない。でも、藤圭子の力が落ちたことと、あの曲がヒットしなかったこととは、あたしには関係ないことだと思えるんだ」
__……。
「あたしにはね、あの歌がそんなにいいとは思えないんだよ」
__えっ?
「いや、みんないいって言うよ。スタッフのみんなも、テレビ局の人とか、歌のよくわかっている人は、ほとんどみんないいって言ってくれた。でも……いいとは思えないんだ、あたしには」
__あなたは、あの曲が好きじゃなかったのか……。
「好きとか嫌いとかいうより、わからないんだよ、あの歌が」
__わからない? あの詞が?
「そうじゃないんだ。すごくいい詞だと思う。やっぱり阿木燿子さんてすごいなって思う。でもね、そのすごいなっていうのは、よく理解できる、書かれている情景はよくわかる、そんな情景をどうしてこんなにうまく描けるんだろう、すごいなっていう感じですごいんだよ。たとえば、三番の歌詞なんて、普通の人には書けないと思う。
最後の夜に吹き荒れてった
いさかいの後の割れガラス
修理もせずに季節がずれた
頬に冷たいすきま風
虫の音さえも身に染みる
思い出ばかり群がって
切ない 切ないよ
六畳一間の 面影平野
特にさ、修理もせずに季節がずれた、なんて、やっぱりすごいよ」
__わからないって、さっきあなたが言ったのは、どういう意味なの?
「心がわからないの」
__心?
「歌の心っていうのかな。その歌が持っている心みたいなものがわからないの、あたしには。あたしの心が熱くなるようなものがないの。だから、曲に乗せて歌っても、人の心の中に入っていける、という自信を持って歌えないんだ。すごい表現力だなっていうことはわかるんだけど、理由もなくズキンとくるものがないの。結局、わからないんだよこの歌が、あたしには、ね」
__なるほど、そういうことか……。
「歌っていても、女としてズキンとしないんだよね」
__あなたにとって、ズキンとする曲だったのは、たとえばどんなものだった?
「たとえば……そう、〈女のブルース〉。
女ですもの 恋をする
女ですもの 夢に酔う
女ですもの ただ一人
女ですもの 生きて行く
この歌はよくわかった。歌詞を見たときからズキンときた。うん、そうだった」
__そうか、〈面影平野〉はあなたの心に引っ掛からなかったのか。
「そうなんだ、引っ掛からなかったの。だから、人の心に引っ掛かるという自信がないままに、歌っていたわけ。それでヒットするわけがないよね」
__それじゃあ、ヒットしないのも仕方がなかったかもしれないね。
「うん」
__仕方ない、うん。
「……」
__あなたに力がなくなったとか、パワーがなくなったとかっていう台詞は、撤回することにしよう。ごめんなさい。
「いや、謝ってくれなくてもいいんだよ、その通りなんだから。ほんとに、力が落ちたんだから、あたし。パワーが落ちたんだから」
__……。
「あの〈面影平野〉がヒットしなかったのは、あたしが詞の心をわからなかったから……だけじゃないんだよ。そう思いたいけど、やっぱり、藤圭子の力が落ちたから、なのかもしれないんだ」
__落ちた? なぜ?
「もう……昔の藤圭子はこの世に存在してないんだよ」
__どういうこと?
「喉を切ってしまったときに、藤圭子は死んでしまったの。いまここにいるのは別人なんだ。別の声を持った、別の歌手になってしまったの……」
__別人になってしまった?
「そう、別人」
__なぜ?
「無知なために……手術をしてしまったから、さ」
__そうか、喉の手術があなたを変えてしまったのか。
「そう……そうなんだ、残念ながら」
【解説】
〈面影平野〉という曲。
阿木燿子が作詞して、宇崎竜童が作曲した。当代随一のコンビが、初めて藤圭子に書き下した曲が、思いのほかヒットしなかった。
その理由を沢木耕太郎さんが藤圭子さんに尋ねます。
藤圭子さんは、喉の手術をしてから「藤圭子は死んでしまったの。いまここにいるのは別人なんだ」というのです。
どういうことでしょうか。
獅子風蓮