というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
■最後の火酒
□後記
最後の火酒
2
「涙って、しばらく泣かないと、眼の裏にたまって、泣きたくなるんじゃないかなあ」
__そんなこと、あるだろうか。
「幸せで、なんにも悲しいことがなくても、何ヵ月も泣かないと、夜、ひとりで歌を聞いていると、涙が勝手に流れてきたりするんだ」
__どこで? あなたの家で?
「うん、自分の部屋で」
__自分の部屋で歌を聞いたりすること、よくあるの?
「あるよ。だって、歌、好きだもん。聞くの大好き。聞いていると、涙が出てくることがあるんだ。とても不思議なんだけど、どんなに好きでも、あれは不思議なんだけど、ダイアナ・ロスの歌じゃ泣かないんだよね」
__いろいろ聞くんだろうけど、誰の歌を聞くの、日本の歌手では。
「クール・ファイブとか八代亜紀さんとか……」
__やっぱり演歌なの?
「うん、そうだね……やっぱり、そういうことになるね」
__クール・ファイブか。藤圭子の歌は?
「聞くよ」
__泣ける?
「うん、初期の頃の歌を聞いているとね。もう、レコードになっていると、ああ、歌手の藤圭子さんが歌っているな、っていう感じになるでしょ。ここがいいとか、ここがよくないとかって、かなり突き放して聞けるから」
__夜、ひとりで音楽を聞いて、泣くんですか。
「胸の奥をさわられたような気がするんだよね。好きな男の人に体をさわられると気持がいいように、ほら、こうやってつねれば痛いって感じるように、歌というのは、心を、さっとさわるんだよね、あたしの胸の中を、ね」
__そんなに、はっきりと感じるの?
「うん、はっきりと。だから、自然と涙が出てくる」
__それは意外ですね。プロの歌手というのは、もう歌なんかに飽き飽きしていて、もっと鈍感になっているのかと思っていた。
「そんなことないよ。このあいだもクール・ファイブを聞いたんだよね。ほんとにすばらしかった」
__クール・ファイブを?
「うん」
__レコードで?
「ううん。日劇のショー」
__ほんと! 前川清の舞台をわざわざ見に行ったわけ? 別れた亭主のショーの会場に?
「うん。すごくよかった。馬鹿ばかしいコントなんかやっていて、まあそれはそれでお客さんと一緒になって笑っていたんだけど後半の歌のときになったら、ジーンとするくらいよかった。ああ、歌って、やっぱりいいもんだなと思った」
__なぜ見に行ったりしたの?
「来ないかって誘われたんだ。あたし前川さんの歌が大好きなの。あんなにうまい人はいないと思ってるんだ。昔も好きだったけど、いまも前川さんの歌は大好き。メドレーの最後の方で〈出船〉っていうのを歌ったんだ。それ聞いていたら、胸が熱くなって涙がこぼれそうになって、ほんと困っちゃったよ。あんなうまい人はいないよ。絶対に日本一だよ」
__日本一、か。
「うん、すごい歌手だよ、前川さんは」
__それだけ理解しているのに、別れてしまった。
「それとこれとは違うよ」
__そう、それはそうでした。
「前川さんはいい人だよ、それに歌も抜群にうまいよ、あたしはそう思ってる。でも、別れる別れないというのは、それとは違う話だよ」
__そうだね。日劇で歌を聞いて、そのあとで、前川さんと何か話したりしたわけ?
「話したよ」
__どんなこと?
「いろんなこと。あたしはもう歌をやめるつもりだとか……。そのこと、まだ発表してない頃だったから」
__そんなことまでしゃべったの?
「うん」
__そうしたら、彼は何と言った?
「それはよかった、って」
__祝福してくれたわけなのね。
「前川さんはね、以前からやめろといっていたの。おまえは芸能界には向かないからって」
__そうなのか。
「だから早くやめろといったろ、って言われちゃった。でも、あのときはそうはいかなかったんだよ」
__あのとき?
「結婚したとき」
__なるほど、そうか、前川さんは結婚するとき、引退して家庭に入れと言ったのか。
「でも、あのときは家族のこともあったし。そう言ったら、そのくらいのことは男なんだから当然するつもりだった、って。あたしはいやだったんだよね、そんなことをさせるのは。悪くて、そんな、家族のことで前川さんに面倒かけるなんて。ようやく引退しても何とかやっていけそうになったからなんだと言ったら……困ったことがあったら、何でもまずぼくに相談しに来いよと 言ってくれて……嬉しかったな」
__それは、よかったね。
「そのとき、前川さんにね、ぼくと別れてからあまりいいことなかったろ、と言われたから、うんと答えたんだ」
__そんなこと、正直に答えたの。
「だって、本当のことだから仕方ないよ」
__馬鹿正直ですねえ。
「ぼくと別れてからロクな男にぶつからなかったろ、と言うから、それもうんと答えた」
__前川さんの方が、ずっといい男だった?
「うん」
__それがわかったんなら、いまでも遅くないから前川さんと再婚すればいいのに。今度は、あたからプロポーズして。
「違うんだったら、そういうことじゃないって、さっきから言ってるじゃない。前川さんはすごくいい人。嘘ついたり、裏切ったり、傷つけたりは、絶対にしない人。あとから知り合った人たちとは比べようがないほどの人……格が違うんだよ」
__格?
「男としての格が違うと思うの。でも、やっぱり、前川さんは肉親みたいな気がしちゃうんだ。一緒にいると、こんなに心が落着く人はいないんだけど、心がときめかないんだよね。どういうわけか……」
__他の、格下の男には胸がときめくのに?
「そう。いくら周囲の人が、あの人はよくない、悪人だって言っても、あたしの胸がときめいてしまったら、それで終りじゃない。前川さんには初めからそういう感じがなかったんだ」
__そういうことは、ありうるんだろうね。しょうがないのかな、それは。
「しょうがないよね? やっぱり前川さんとは合わなかったんだよ。どこがどうって説明はしにくいんだけど、やっぱり一緒には暮らせなかった」
__にもかかわらず、前川さんは他の男と比べれば、ランクが上なわけだ。
「絶対、上。あたし、きっと、つまらない人と付き合っていたんだね」
__つらいことを言っていますね。
「つらいね。そんなこと聞くのいやだよね」
__いやとは思わないけど……。
「五味康祐っていう人、いるでしょ、占いやる人」
__ハハハッ、占いやる人はないぜ、あの人は作家だよ。
「うん、そうらしいんだけど、手相なんかテレビでよく見てるじゃない」
__うん、やってるね。
「あたしも番組で見てもらったら、とても男運が悪いって言われちゃった」
__男運が悪いって? 結構、当っているじゃないですか。
「信じないよ、そんなの。男運が悪いなんて、信じない。男の運が悪いんじゃない、とあたしは思うんだ。ただ、あたしが悪いだけなんだ。眼がないあたしが悪いだけ」
__そういうのを、男運がないと言うらしいよ、世間では。
「ううん、あたしは運だなんて思いたくないわけ」
__そうか、それならわかる。
「うん、そうなんだ。いままでは、どうしても、芸能界の人しか知り合う機会がなかったけど……」
__これからは、違いそう?
「うん、そう思ってるんだ。大いに希望を持っております、なんてね」
__昨日もあなたの歌を聞いていたんだけど、聞けば聞くほど、やめる必要はない、と思うんだよね。もっと聞きたい、というかな。繰り返しの愚痴になるけど、続ければいいのに。
「あたしが他人だったら、藤圭子にそう言うかもしれない。どうしてやめるんだよ、あなた、贅沢だよ、って」
__贅沢とは思わないけど……。
「でもね、これから先、どんなに続けても、いまのような状況じゃあ、いい歌が歌えるはずないんだよ。いい歌を歌うには、いい舞台が必要なんだ。でも、そんな舞台が作れるのは一年に何度もない。クラブや慰安会に出て、いいバンドもつかず、ひどい照明の中でいつも歌わなくてはならないんだよ」
__そういうことか……。
「テレビだって、そうだよ。コントやったり、ドタバタをやったり、せいぜい特集といって、2、3曲うたわせてもらうのが、精一杯なんだ。昔の、NHKの〈ビッグショー〉みたいな番組は、どんどんなくなっていくばかりだし……。続けていても、仕方がないよ」
__〈ビッグショー〉っていうのは、そんなにいい番組だったの?
「あたしたち歌い手にとっては、ね。だって、45分間、ひとりで歌わせてくれるんだから。それもコマーシャルなしに。 民放だったら一時間番組ということだよね」
__なるほど。
「少しずつ情感が盛り上がってきて、いい歌が歌えるんだ、とても」
__そうだろうね。
「3度、出たのかな。みんなビデオにとってあるけど、自分でも好きな方だよね」
__見直すこと、ある?
「時々ね。3度目に出たときかな、そのとき……これはつまんないことだけど……視聴率がよかったんだって、とても。〈ビッグショー〉って、ひとりの人のものでしょ。だから、視聴率にもピンからキリまであるわけ。ポップス系の人のはあまりよくないらしいんだけど、最低7パーセントから最高15パーセントくらいまで、すごく差があるわけ。そのときのあたしの視聴率は、ピンというのかキリというのか知らないけれど、最高の方の部類だったらしいの」
__かりにヒット曲が出ていなくても、藤圭子という人のファンは多いだろうからね。
「それでね、日劇で前川さんと会ったって、さっき言ったでしょ、そのとき、前川さんが言うんだよね。おまえ、おまえが出た最後の〈ビッグショー〉がとても視聴率がよかったこと、知ってるかって。うん、会社の人に聞いて知ってるよ、って答えたら、ぼく、すごく腹立てたんだよな、そのことで、って言うわけ」
__どうして腹なんか立てたんだろう。
「その年の暮、前川さんがNHKの芸能の人とゴルフしたんだって。その人から、藤圭子の視聴率はよかった、って聞いたらしいの。それで、前川さんが喰ってかかったんだって。それならどうして藤圭子を紅白歌合戦に出さないんだ、他の、まるで下手な歌手を出して、なぜ藤圭子を出さないんだ……そう言ってくれたらしいの」
__前川さんも、別れても、あなたの歌の力は認めてくれているわけだ。紅白なんてどうでもいいだろうけど、でも、それは嬉しかったね。
「うん。へえ……と思ってね。そのNHKの人は、しかしいろいろあってとか、なんだとか言ってるんで、前川さんが腹を立てたらしいんだ」
__そうなのか……。
「6年前か7年前……あたしと離婚して……前川さんが紅白に出られないことがあったんだ。あたしは出ることになっていたんだけど。前川さんが出ない、出られないって聞いて、泣いたことがあるんだ、あたし。そこは事務所で、雑誌社の人なんかもいたんだけど、あんな歌のうまい人が出られないなんて、そんなのはないよ、って」
__それを、今度は、前川さんが言ってくれたわけだ。
「あたし、そのとき、口惜しくて、ワンワン泣いたの。前川さんよりうまい人がどこにいるのって」
__そうか……。
「そういうことがあった」
__しかし、前川さんという人は……いい男だね。
「うん、そうだね」
__それにしても、そういった番組もなくなり、いい舞台もなかなかできず……状況はどんどん悪 くなっていくばかりなのか……。
「年々ひどい状況になってるね。それは確かだなあ。クラブなんて、ひどいんだよね。昨日の店もひどかったなあ、ほんとに。舞台が狭いし、バンドは音が出ないし、照明が悪いときてるんだから。照明が悪いと、客席を動きまわるボーイさんたちが気になって、どうしても集中しないんだよね」
__それは仕方がないんじゃないかな。そういう状況でも頑張るのがプロだという言い方もあるし。とりあえず金をもらっているんだからね。
「いくらお金をもらってもいやだね、ああいうところで歌うのは。でも、他の人たちはみんなやってるんだよね。わがままなのかな、あたし。そうじゃないよ、やっぱり歌が好きなんだよ。歌を歌いたいんだよ、あたしは。ああいうとこは、歌を歌えるような場所じゃないよ、いやだよ」
__いやですか。
「いやです。たまになら、まだいいよ。客が喜んでくれているんだから、我慢して頑張ろうと思うんだけど、そういうのが増えてきてるんだよね。いやなんだ、あたしは。……なんて言うと、なに言ってるんだい、昔はドサまわりして、バンドなしで歌ってたじゃないかと言われるかもしれないけど、やっぱりそのときのあたしとは違ってきてるんだよね。十年前は十年前、いまはいま。いまのあたしは、いまのあたしに合った歌の歌い方しかできないんだよ。それができないんだから、やめる。それでいいと思うんだ」
__最近、そんなひどいクラブで歌うことがあるの?
「歌ってると、酔っ払いが、よろよろと倒れかかってきたりするんだよ。歌えないよね……どうしょうもないんだ」
__そうか……。
「いつだったかな、北陸へ行ったとき、信じられないようなクラブがあってさ。田舎の古いクラブなんだけど、舞台に出ていってびっくりしたの。バンドが4人しかいなくって、マイクがリカちゃん人形の附録みたいなマイクで……」
__ハハハッ、リカちゃん人形のマイクはよかった。
「笑いごとじゃないよ。まったくひどかったんだから。マイクの線は延びないし、照明の設備がないもんだから、勉強机に置いてあるようなスタンドをボーイさんが持って、パチッなんてつけて、舞台の前を走りまわっているの」
__ハハハッ、おかしいね、想像するだけでも……。
「そのスタンドに紙を貼って、色つきの、ほら……」
__セロファン?
「そう、セロファン! セロファン貼ったスタンド持って……忘れられないよ、ほんとに。さあっ、と思って舞台に出ていったら、それだもんね、ちょっといやになるよ」
__それはそうかもしれないね。
「演歌って、どんなひどくても、ショーになっちゃうから、そういうことがありうるんだよね」
__なるほど。
「田舎で歌ったりすることは少しもいやじゃないんだ。一度、田舎の体育館で歌っていて、終ったんで帰ろうとしたら、通路がひとつなんで、お客さんと一緒にゾロゾロと歩いていたの。そうしたら、座布団をかかえたおばあさんが二人、やっぱり藤圭子はいいねえ、とか言いながら、満足そうに前を歩いていたんだ。あたしにはぜんぜん気がつかないで。それは、ああ、歌っていて よかったな、なんて思うよ」
__舞台でほんとにうまく歌えたときって、とっても気持がいいもんなんでしょ?
「それは、もう、気持いいなんて、そんなもんじゃないよ。舞台で歌うのはいいんだ。いいマイクで、いい音響で、そういう舞台でやると、自分の声が聞こえてくるんだ、綺麗に返ってくるんだよ……」
__もう、そんな気持よさを、味わえないんだね、あなたは。
「そう。これから、何を楽しみに生きていけばよいのでありましょう、この子は」
__ほんとだ。
「たとえば、藤圭子が一生懸命うたっているのをビデオで見るとするでしょ。すると、ジーンとするんだよね。あの人を聞いているあたしは別の人間だから、ああ頑張ってるな、声が違っちゃっているのに、雰囲気だけでどうにか歌っているな、つらいだろうに一生懸命やってるな、と思ったりするんだ」
__なるほど。
「いまね、歌っていて、いちばんつらい歌は〈聞いて下さい私の人生〉っていう歌なんだ……」
__どうして?
「その中の歌詞が、どうしても、歌うたびに胸につかえるんだ。
聞いて下さい 私の人生
生れさいはて 北の国
おさな心は やみの中
光もとめて 生きて来た
そんな過去にも くじけずに
苦労 七坂 歌の旅
涙こらえて 今日もまた
女心を ひとすじに
声がかれても つぶれても
根性 根性 ひとすじ演歌道
終わりの方にさ、声がかれても、つぶれても、っていう歌詞があるでしょ」
__ああ、そうか、そうだ。
「曲が好きだから歌うけど、つらいんだ。本当は、これは自分の心とは関係ないんだ、これは曲なんだからって、割り切ればいいんだろうけど、駄目なんだ。声がかれても、つぶれても、歌いつづけ……ないわけだから。あたしが言ってるんじゃない、曲が言ってるんだって、思おうとするけど、つらくて……」
__馬鹿ですね。
「馬鹿だよね。あたしって、いつでもこうなんだ。迷って、迷って、つらくなる。お客さんには、すまないなあ、ごめんなさい、って歌っているんだ」
【解説】
「いまね、歌っていて、いちばんつらい歌は〈聞いて下さい私の人生〉っていう歌なんだ……」
こんなつらい歌詞でも、嫌でも、歌わされていたのですね。
以前のように「歌を殺す(封印する)」こともできずに。
これでは、歌手をやめたくもなりますね。
獅子風蓮