獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その30)

2024-07-06 01:54:23 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
■第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第4章 東洋経済新報

(つづきです)

湛山が東洋経済新報社に入社したのは月刊『東洋時論』編集のためであった。この明治40年代の日本というのは思想界の激変期であった。文学界は自然主義の大流行、思想・政治では個人主義、自由主義の思潮が盛んに起こっていた。こうした風潮が、『東洋経済新報』の伸張にも拍車をかけたが、それ以上に植松、三浦の二人は社会評論を主とする新雑誌を創刊したかったのである。
創刊後間もなく『東洋時論』は二度も発売禁止の処分を受けた。
明治44年1月に入社した湛山は、翌明治45年になると筆法鋭く社会問題を指弾した。
『東洋時論』4月号には「問題の社会化」と題して、女性問題を例に引きつつ言論の積極性を訴えた。
〈例えば18世紀の終り頃から19世紀の前半にかけて、男子の自由解放の運動が盛んとなると前後して女権の拡張ということが叫ばれ始めたが、その当時の婦人運動というものは、全くただ我らも男子と同様に人間であるという位の抽象的な主張にすぎなかった。しかるに今はどうかというに、1879年に書かれたというイプセンの『人形の家』でさえも、これがどうして婦人問題を取り扱ったものとして見らるるのかと我々には怪しまれるほど、 時世が変り、 婦人問題の性質も変って来た。世界の思想家が咽をからして、女子というこの世界の半数の人類のために、彼らもまた人である、社会は彼らを人として取り扱わねばならぬなどと叫んでいる間に、実際の社会は彼らの言葉をも待たず、不思議にも用捨なく、これら半数の人類を人として取り扱い行きつつあった。1900年にアメリカ合衆国の婦人の5人中の1人は、毎日その家を棄ててあるいは工場にあるいは市場に男子と肩を並べもしくは男子と競争して、立ち働かねばならぬ婦人であった。1891年に英国の婦人の二割七分は職業を有する婦人であった〉
続く5月号では、徹底的個人主義について述べた。
〈人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためでも何でもない。宗教や文芸、あに独り人を人として生かしむるものであろう。人の形づくり、人の工夫する一切が、人を人として生かしむることを唯一の目的とせるものである〉
〈されば「国民として生きる前に人として生きねばならぬ」という言葉は、私の意味を以てすれば、「国民として生きる前」ばかりでなく、「宗教の中に生きる前」「文芸の中に生きる前」「哲学の中に生きる前」に人は人として生きねばならぬのである。否、生きざるを得ないのである。何となれば、国家も、宗教も、哲学も、文芸も、その他一切の人間の活動も、皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものであるから〉
湛山の筆法は、事例をきちんと研究し、具体的に提示して読者の理解を得やすくするのが特徴であった。この文章の書き方は、後に日本の帝国主義的侵略を批判したり、軍閥のやり方を批判する際にも発揮される。
湛山は実に1年間の『東洋時論』での編集作業を通じて、自分自身の文体を掴み取っていたのであった。

明治天皇が病床についたのは、この年であった。
「もし東洋経済新報社が、あの時論を発行していなかったら、僕が新報社に入社することは絶対になかったね」
「そりゃあそうだ、君は哲学が専門だもの」
「いや、哲学というよりも宗教さ。僕は日蓮宗の家に生まれている。小さな時分に得度も受けている。だから本当は宗教家なんだよ」
「その君が、経済にも手を出すようになるとは……」
湛山は酒も好きだが、好んで口にしたのがすき焼きであった。
「しかし、宗教家の君がすき焼きなどという殺生の料理を好んでいいのかな」
「君ね、嗜好は宗教とは関係がないんだよ。そんなことを言ったら、まるで僕が生臭坊主みたいじゃあないか」
親友たちとの酒席は、いつもすき焼き屋であった。飲むほどに酔うほどに湛山は陽気になった。
「しかし、この頃僕は思うのだが、会社に新報と時論という同じような二つの雑誌があっても仕方がないじゃあないか、って」
「そんなことを言ってもだなあ……」
誰かが酔いにまかせて大きな声を出したときに、
「皆さん、少し不謹慎じゃあありませんか」
後ろから静かに声がかかった。湛山も振り向いた。便所を使うために二階から降りてきて、湛山たちの酒席の大声が気にかかってつい声をかけた、という感じであった。
「今は、天皇陛下がご病床にあらせられる時であります。国民の誰もがそのご快癒を祈っているというのに。酒を飲み、肉を食し、大声を出して騒ぐとは何事ですか」
湛山たちと同じくらいの年回りの青年であった。軍服を着ている。嫌味な言い方ではない。威圧感もあるわけではない。むしろ説得力のある落ち着いたしゃべり方であった。
「分かりました。少し大声を出しすぎたようです。しかし、飲んで騒いでいたというのは当たらない。私の仕事の話を友人たちに聞かせて、意見を求めていたところですから」
湛山が引き取って、穏やかに説明した。
「いや、分かってもらえれば、それでいいのです」
丸い黒縁眼鏡の奥の瞳は、じっと湛山を見つめている。
「おおい、東条。何をしているんだ。もう帰るぞ」
「分かった。すぐに行く」
二階に返事をしてから、再び向き直り冷静な声で、
「いや、お楽しみのところを失礼しました。では……」
東条と呼ばれた青年は湛山に一礼すると、くるりと振り向いて湛山の視界から消えた。
「何だ、あいつ」
「いや、言っていることは間違っていない。天皇陛下が病床にある時に、国民として大騒ぎするのはな」
「しかし、石橋、それは国民の自由だろう?」
「自由だが、敬意を表するのも国民の務めではある」
ストックホルム・オリンピックが開催され、第三次日露協約が調印された明治45年(1912)7月の30日、明治天皇が崩御した。大葬の儀は9月13日に決定した。
「新しい年号は大正とする」
政府が改元を発表した。
主幹の植松の容態が変化して、病没したのは明治天皇の大葬の日であった。
植松の死に衝撃を受けたのは、出獄した片山潜だけではなかった。副主幹格であった三浦の落胆とショックははなはだしいものがあった。
「石橋君、弱った。もう私の能力を超えている。東洋経済新報社最大の危機と言ってもいい。とにかく天野為之博士に援助を求めるつもりだ」
湛山は三浦の慌てているわけがよく分かった。
「三浦さん、僕もそう思います。出来ることなら……」
「君の言いたいことはよく分かっている。『東洋時論』を廃刊して、『東洋経済新報』一本にしろ、ということだろう?」
「はい。この機会に出来ることはそれではないかと?」
湛山の『東洋時論』廃刊論には、天野も賛成した。
「新報の筆陣の充実が問題だな。それから先は、これまでの新報と時論を併せ持った論壇の場にすることだ。三浦君、君ならそれが出来る」
天野は、三浦がそうした調整能力に長けており、しかも年下の社員の人望が厚いことも知っていた。東洋経済新報社は植松の死をきっかけにして、『東洋経済新報』だけで再出発することになった。
湛山にとって、それは経済を中心にした記者人生の再出発と言えた。

 


解説

湛山は、このようにして東洋経済新報社において経済を論じるジャーナリストに育っていくのです。

 

獅子風蓮



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