石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
■第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第5章 小日本主義
(つづきです)
仕事では、湛山はこの大正11年頃からルソーの社会契約説を引き合いに出して、「いかなる政治形態でも、主権は国民全体にある」という、大日本帝国憲法のもとでは考えられないような意見を述べた。つまり「天皇主権」ではなく「人民主権」であった。
こうした民主主義、自由主義は後々までも湛山の思想の中心をなすものであった。
この大正5年について、湛山の周辺を表ふうに記すと、1月14日には長女・歌子が誕生し、3月8日には日蓮宗大学(後の立正大学)が火災に遭った。大学長は父の杉田湛誓であった。2日後に火事見舞いに訪れた湛山は、父と、父代わりであった望月日謙に久しぶりの再会を果たした。湛誓はこの火災の責任を負って辞任している。
7月25日、万年筆を丸善で購入する。メーカーは「オノト」で、価格は6円50銭であった。それまで湛山は、すべての執筆を筆で行なっていた。万年筆の柔らかな書き味に湛山は満足した。その足で、湛山は静岡県池田の本覚寺を訪れた。先日、火事見舞いの折りに、母・きん、弟・三郎(後の湛正)、妹・とよの3人が病気で入院していると聞かされたからであった。妹のとよは、8月5日、病没する。15歳であった。
湛山とは縁の薄い肉親の死であった。
11月、豊多摩郡戸塚町に移転。
こうして、多忙な年が暮れていった。
大正6年(1917)には、母校・早稲田大学で未曾有の騒動が発生する。
6月のことであった。早稲田大学の学長秘書が秘かに東洋経済新報社を訪ね、
「学内で、天野学長に代えて高田早苗前学長を復帰させる陰謀が進められています。ぜひ陰謀の阻止に協力を」
と、三浦や湛山をびっくりさせるような話を持ち込んできた。
天野為之は東洋経済新報社にとって重要な人物であったが、三浦らが憤慨したのは、少なくとも高田は大隈内閣の文部大臣に就任するために、学長を辞任して天野に譲ったのに大臣を辞めたからといって、再び自分が「学長」という地位に陰謀をもって戻ろうとするのは許せない、ということであった。
「そのやり方ははなはだ手前勝手すぎるじゃあないか」
「そうです。早稲田大学の私物化としか思えないですね」
その背後には、良質な学生によって大学を維持しようという学者肌の天野学長派と、量的に多くの学生を入れて経営を維持していきたいとする高田前学長派の対立があった。これに、高田派からの露骨な天野攻撃があって、教授陣や評議員まで巻き込んだ紛争に発展した。これらが新聞などで伝わると、学生が絡んでの騒動になった。校友までもが関与して、湛山はそのうちの中心人物に祭り上げられていた。ちょうどロシアでケレンスキーによる革命があったことから、湛山は高田派か「ケレンスキー」と渾名されるほどであった。
湛山の気持ちは、正義感と自分の会社・東洋経済新報社の「中興の祖」である天野への思い入れだけであった。しかし、この騒動は、学生たちの学校占拠事件にまで至って、早稲田廃校が噂されるに及んで、遂に天野派の敗北に終わるのであった。
『人生劇場』の青成瓢吉こと、尾崎士郎がこの早稲田騒動の渦中にいた。
士郎は当時、政治経済科の予科生であったが、友人に誘われるまま「天野派」に属する学生とし運動に参加した。学生の大半が「天野派」だったものの、その内は「文治派」と「武断派」とにわかれていた。文科系と体育会系の違いだったが、武断派が主要な部分を占めていて、文治派はその小使いのような処遇であった。
「だからおまえたち、文治派は手ぬるいんだよ。言論や文章で学生たちが動くものか。組織と団結力、これ以外にあの高田派をやっつけることは出来ないんだ」
武断派は、こんなふうに言って、夏休みを終えて田舎から戻ってきた学生を東京駅や上野駅でつかまえては「連判状」に署名させた。
「しかし、そんなやり方では決して学生たちは本心からこちらには、靡きますまい」
士郎の主張はもっともだったが、熱くなっている武断派には、馬の耳に念仏であった。
「いいか、尾崎。おまえは文治派でも骨があって、根性が見えるから特に重用して電話係をやらせているんだ。近く早稲田劇場で、高田弾劾の演説会が開かれるから、おまえたち文治派も思いっきり気張るんだぞ」
9月11日、劇場の内外は学生で溢れた。
「このような高田派の横暴を我々学生も許すわけにはいかない」
激昂した学生たちは演説から逸脱して、遂に大隅講堂を占拠して、ここを学生たちの本部にしてしまった。
士郎は、この最中に一通の電報を受け取った。
「アニシス スグカエレ」
であった。父の跡を継いだ長兄が公金横領の疑いをかけられたことを苦にして、ピストル自殺を図ったのであった。
これが原因で尾崎家は没落して、一家は上京することになった。後に士郎はこの兄のピストル自殺を『短銃』(『早稲田文学』)などに書いている。『人生劇場』の主人公・青成瓢吉の父親のピストル自殺の場面も、このエピソードから採っている。
この尾崎士郎が早稲田事件で初めて湛山と出会った時の印象をこう書いている。
〈一見して40そこそこの血色のいい顔をしてみた。健康にはちきれさうなかんじが、頭を坊主刈りにしてゐたために一層端正な印象を唆るのである。声にも、ぴいんと張りきつたひびきがこもつて、向ひあつてゐるだけでも、何となく清新なかんじだった〉
実際には湛山はこの時にまだ33歳であったから、士郎の目にはかなり年配に映っていたのであろう。
「石橋さん、玄関に尾崎君という学生が訪ねてきていますが」
小使いさんから告げられて、湛山は「ああ、あの尾崎君か」と咄嗟に顔が思い浮かんだ。 早稲田騒動の、文治派の指導者的な存在だったからである。
「どうした?」
「実は……」
士郎は、兄の自殺とこれからの生き方の相談を湛山に話しに来たのだ、と言った。
「そうか。大変だったなあ。分かった。僕から三浦主筆に話すから、ここで当分アルバイトをやったらどうか」
士郎は最初、湛山が自分を東洋経済新報に入れてくれると言っているとは思わなかった。
「午前中、早稲田に行って、そうだな……午後2時頃に出社すればいい。それなら君にも時間は都合できるだろう?」
「石橋さん、それで私は何をすれば……?」
「うん、外国の雑誌を読んで、その中の雑報や記事を翻訳して、コラムのようなものにしてくれよ。それから……うん、帳簿の整理もできるだろう?」
湛山は、三浦と交渉して士郎の月給を、28円に決めてくれた。
「学校の月謝は2円50銭、下宿料が10円ですから、助かります」
ところがこの頃、士郎は警察から「特別要視察人」に指名されていた。つまり、要注意人物というわけである。
学生社会主義者として新宿署に検挙された士郎を、湛山は身元保証人として身柄引取りに行ったこともあった。湛山には、若い士郎の気持ちが痛いほどよく分かった。自分が『東洋経済新報』に論文を書いているのは、形こそ違え、現在の世の中が理想とはかけ離れすぎているからなのだ。だが、自分は文筆一本で、世の中に対抗している。もし、立場が変わったら、自分もこの尾崎士郎のように検挙されていたかもしれないのだ。
士郎は半年間、東洋経済新報社にいて辞めた。
(つづく)
【解説】
11月、豊多摩郡戸塚町に移転。
こうして、多忙な年が暮れていった。
またまた引っ越しですか。
なかなか落ち着きませんね。
獅子風蓮