獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その35)

2024-07-15 01:28:08 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
■第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第5章 小日本主義

(つづきです)

湛山の『東洋経済新報』での執筆は、ほとんど無署名であった。だが、その中身は普通選挙の実現や武断的帝国主義の排除など、大正デモクラシーの先頭にあった。
そのなかでも『東洋経済新報』の特色ある論陣はその武断的帝国主義が掲げる「軍国主義」、「専制主義」、「国家主義」の「大日本主義」に対して「産業主義」、「自由主義」、「個人主義」の「小日本主義」であった。
鋭いが分かりやすい筆法の湛山は、必ずこれまで『東洋経済新報』を支持してくれてきた読者にも理解してもらえるだろうと思っている。
『東洋経済新報』は経済誌だけに、読者は財界人とか経済に関心のある人に限られていた。この読者限定という『東洋経済新報』の形態が、かなり過激な論陣を張っても、右翼のテロや、軍の攻撃の標的にならずにすんだ、という側面を持っている。
大正元年12月、西園寺公望内閣が陸軍の二個師団増設問題でごたごたした挙げ句に総辞職に追い込まれて、その後に桂太郎内閣が誕生した。ところがこの桂内閣は山県有朋など元老が作り上げた内閣であったから、世論も政友会、国民党ともに「陸軍の陰謀」として非難した。
翌年に入ると2月10日から17日にかけて、東京、大阪、神戸、京都などで相次いで暴動が起きた。政友会の尾崎行雄は議会で桂首相を攻撃した。
「玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて、政敵を倒さんとするものではないか」
有名な弾劾演説である。
暴徒は「桂内閣打倒」を叫び、桂太郎のシンパとみられる新聞社や交番、代議士邸を襲って、破壊したり、焼き打ちしたりした。
「民衆は常に実益を求めるものです。実益とは何か。こうした運動によって自分たちの意見を取り入れてくれる政府を得ることです。つまり、憲政擁護・閥族打倒とは、責任内閣を成立させ、国民の意志によって立ち、国民の意志によって倒れる、そういった政府の建設ではないか、と思うのです」
湛山は、この民衆暴動の本質をずばりと言ってのけた。三浦は、当然だという顔をしていたが、ほかの編集記者たちは驚いて腰を浮かしたほどだった。
「僕は決して無政府主義者でも社会主義者でもありません。しかし、民主政治と自由政治は要求します。アメリカのリンカーンが、人民の人民による人民のための政治を、と叫んだのは一体、何年前のことだったでしょうか。哲学も文学も、いわんや政治も経済もすべて人を幸せにするためにあるのです。『人間として』、これが大前提にないものは駄目です」
三浦には湛山の「人間として」という言葉の意味がよく分かった。それは湛山が「仏門の子」であることを思えば、すぐに理解できる。いわば湛山の宗教的な人間救済の姿勢が政治にも、経済にもあらゆるところで、その根底にあるのだった。
「しかして、民衆が望んでいるものとは何か。これを我々が書くべきだと思うのです」
社内での大演説になっている。
湛山は、民衆の要望はただ一つ「善政」にあると言うのであった。そのためには普通選挙によって選ばれた議会政治こそ大事になる。そういう論法であり、この結論に至って初めて社内の空気が落ち着きを見せた。
「政党はいかにしてこの善政を国民に保証し得るでしょうか。これ、すなわち主義政綱でありましょう」
主義政綱とは、今日的な言葉で言えば「政策論争」であろうか。湛山が大正2年に書いた政治家への警告は、そのまま今日の政治家への警告とも受け取れる。「私利私欲」でなく、「主義政綱」こそが政治家の務めである、というのだ。
湛山は読者の共感を得るために、社説の中に分かりやすい数字を使う方法も取った。例えば普通選挙を求めるためには諸外国(欧米)の有権者数と総人口を割合(人口÷有権者数)で表示した。

       有権者   人口  割合
イギリス(1911) 7,904,165人 45,309,021人  5.7人
フランス(1901) 10,863,421人 39,252,267人  3.6人
ドイツ (1913) 14,236,722人 64,903,423人  4.5人
アメリカ(1900) 20,822,733人 75,994,575人  3.6人
イタリア(1908) 2,930,473人  3,467,000人 11.8人
日本  (1912) 1,543,234人 51,748,600人 33.5人

つまり、アメリカでは3.6人に一票の割合で選挙権が与えられているが、日本では33.5人に一票しか選挙権が与えられていないということを示している。
「石橋君、こういう比較をされると誰でも分かる。女子供でも……、いやそういう意味ではないが、本当に一目瞭然だ。いかに日本の選挙制度がひどいものであるか、お粗末なものであるか」
当時、日本の選挙は、明治22年に公布された衆議院議員選挙法が適用され、選挙有権者は25歳以上の男子で、直接国税を15円以上納める者と決められていた。

(つづく)


解説
三浦には湛山の「人間として」という言葉の意味がよく分かった。それは湛山が「仏門の子」であることを思えば、すぐに理解できる。いわば湛山の宗教的な人間救済の姿勢が政治にも、経済にもあらゆるところで、その根底にあるのだった。

仏法の慈悲の精神を共通の思想的基盤とする公明党の議員には、ここは共鳴できる部分ではないでしょうか。


獅子風蓮



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