石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
■第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第5章 小日本主義
(つづきです)
二人は本所区錦糸町に新所帯を持った。
「東洋経済新報社までは少し遠いではないですか」
「いや、来年3月まで君は小学校に勤めるんだから、小学校に少しでも近いほうがいいからね」
車大工の家の二階を借りたのであった。二人が大して多くもない所帯道具を持って引っ越してくると、そこにはすでに書棚、長火鉢、茶箪笥、台所用具から下駄箱までの一切が揃えられてあった。
「分かった。会社からだ。三浦さんだよ」
唖然とする梅子に、湛山は嬉しそうに説明した。
「おい、上の新婚さん、一体どうなっちゃっているんだろうか」
「本当にねえ。奥さんが早朝一人で朝食をすませると、かなり遅れて旦那だろ?」
「何でも奥さんは小学校の先生ということだから」
大家の夫婦が首を傾げるほど、湛山たちの新婚生活は変わっていた。
二人分の朝食と弁当は必ず梅子が作った。梅子が出かけた後で湛山は一人起きて、用意された朝食を一人でとって、家を出た。必ず、手には風呂敷に包んだ弁当と、分厚い経済の原書を持っていた。
原書は往復の電車を利用して読んだ。
「漫然と景色を見ていてもつまらないし、人の顔を見ていて文句を言われても損だからね。それに家の瓦斯灯の下で読むよりもずっと電車の中のほうが読みやすい」
湛山は、梅子に車中勉強の好都合を、そんな言い方で説明した。遠くから通うことになった湛山に、梅子がすまないという気持ちを抱いていることが分かっていたからだった。また事実、湛山にとってはこの往復2時間以上の車中勉強が役に立った。
「今日は、どこのページまで読むと決めておいて、読書に取りかかると、意外に原書でも理解できるものなんだ。それに原書だと、翻訳書と違って訳者の余計な思い込みがないから、本質が掴み取れるんだ」
湛山は、梅子の「原書で?」という疑問にはそう答えた。
「もうひとつ」
そう湛山は梅子に言った。
「学問というものは何でもそうだが、ただ本を読み、本の上だけで本質を掴んでもそれはまだ生きた学問とは言えないんだ。いわゆる畳の水練にならないためには、本に書いてあることを絶えず実際の問題に当てはめて考え、自己の思考力を訓練し続けることだと思う。学問は、プラグマティズム哲学同様に実生活に応用する術を習得して、初めて生きた学問になる」
湛山は結びに、いつもの自分の論文のように分かりやすい譬えを使った。
「医者は医学書を読んだだけでは病人を治せない。本を読むとともに実習を要する。経済学もその意味では同じことさ」
この錦糸町での新婚生活は、梅子が松江小学校の教職を辞める大正2年(1913)3月まで続くことになる。
湛山・梅子夫妻には、この年8月に長男の湛一が生まれ、5年(1916)1月に長女の歌子、7年(1918)3月に次男の和彦が誕生する。
(つづく)
【解説】
湛山の仲睦まじい、新婚生活の一場面です。
獅子風蓮