同人作品は特別作品とレギュラーの10句に分けられる。まず夏木久の『無口な器』(45句)である。
その口が入口春の器への
花器に挿し無口な薔薇にしてしまふ
入口を月にしてより出口なし
裏口の時雨に待てり継走者
器には口のうるさき冬日向
入口を出れば出口や春隣
何より《口》の一語が入った句群が目に止った。タイトルも《無口な器》とやはり《口》が入っている。思うに作者は己のある想いを言葉にして盛る器としての俳句型式を日常の中で自在に使いこなし、発語(詩)との距離感を最初から無きものとすることを夢想している。そのことによって人間と世界とのダイレクトな交感が成立し、反言語(世界)としての定型言語の過渡的な役割は終わる。その成否は「湯豆腐をつつく空席」を悔やみながら「裏口の時雨」の止むのを待つ他ない。継走者とはもとより俳句の奥深く在り続けている作者自身なのだから。
特別作品の二人目は新参加の宮崎干呂の『凍るよコール』(22句)である。自己紹介で《世界の壊れ具合》と《ヒトの心の冷え》に思いを馳せ、字数と音数の一致した和語を超えた自由な音数律による新たな表現媒体を講想する。
ジェラルミンに映して角出すなめくじら
泉浚いし小人らのシャベルにバーコード
森と泉に囲まれて廃址よ猛きベクレル
聖霊や木枕たたかれ戦みち
エボラの結界破りしに冬未曾有
宮城は護憲のとりで霜をふむ
ジェラルミン、バーコード、ベクレル、エボラ、護憲・・と《うつつ》なるものの残滓が遂に何ものも果たし得なかった無念を発散する。しかしそのどうにもならない沈黙の渦中にあっても俳句型式はやさしい。これらも俳句以外の何ものでもあり得ない。まるでわたしたちの存在の根から吹き上がるひとときの生の熱気を表徴しているかのようだ。
夢一俵うつつよりマシか落葉つむ
その口が入口春の器への
花器に挿し無口な薔薇にしてしまふ
入口を月にしてより出口なし
裏口の時雨に待てり継走者
器には口のうるさき冬日向
入口を出れば出口や春隣
何より《口》の一語が入った句群が目に止った。タイトルも《無口な器》とやはり《口》が入っている。思うに作者は己のある想いを言葉にして盛る器としての俳句型式を日常の中で自在に使いこなし、発語(詩)との距離感を最初から無きものとすることを夢想している。そのことによって人間と世界とのダイレクトな交感が成立し、反言語(世界)としての定型言語の過渡的な役割は終わる。その成否は「湯豆腐をつつく空席」を悔やみながら「裏口の時雨」の止むのを待つ他ない。継走者とはもとより俳句の奥深く在り続けている作者自身なのだから。
特別作品の二人目は新参加の宮崎干呂の『凍るよコール』(22句)である。自己紹介で《世界の壊れ具合》と《ヒトの心の冷え》に思いを馳せ、字数と音数の一致した和語を超えた自由な音数律による新たな表現媒体を講想する。
ジェラルミンに映して角出すなめくじら
泉浚いし小人らのシャベルにバーコード
森と泉に囲まれて廃址よ猛きベクレル
聖霊や木枕たたかれ戦みち
エボラの結界破りしに冬未曾有
宮城は護憲のとりで霜をふむ
ジェラルミン、バーコード、ベクレル、エボラ、護憲・・と《うつつ》なるものの残滓が遂に何ものも果たし得なかった無念を発散する。しかしそのどうにもならない沈黙の渦中にあっても俳句型式はやさしい。これらも俳句以外の何ものでもあり得ない。まるでわたしたちの存在の根から吹き上がるひとときの生の熱気を表徴しているかのようだ。
夢一俵うつつよりマシか落葉つむ