引きこもりオタク前史に余寒あり 余寒あり摂津幸彦って誰ですか ラストシーンの小倉一郎余寒あり(市川昆監督「股旅」) 稲畑汀子現代を生きて余寒あり サラリーマン川柳もとめ余寒あり 福祉事務所の順番札に余寒あり みちのくの揺れ飛火せる余寒あり 余寒なほ森の時間の屹立す 青春に死は付きものと余寒くる 仏法の子の死に効かぬ余寒かな オタク文化はや50年余寒あり 動物化の極み余寒の続きをり 大根の半額セール余寒あり 歩きつつ空膨張す余寒かな メビウスの輪の解けてなほ余寒かな 深夜2時のヒソヒソ話余寒あり
春巻を揚げぬ暗黒冬を越え 摂津幸彦 摂津は70年安保世代。それに遅れて来た私たちはここにある《暗黒》とさえ無縁な存在であった。ただ冬から春への予定調和の直中に当初から取り残された世代であった。
私は1950年代生まれであり、かのウイキペディアに【プレおたく世代】という称号を授けられた。これは実に名誉なことである。団塊の世代とも言われた70年安保世代と1980年代の前向きな空虚感を伴って生まれた最初の【新人類】世代の一部が漫画アニメやアイドルなどのサブカルチャーの担い手として最初の【おたく世代】となった人々との埋め難い断崖に宙吊りにされた世代だからだ。その人々から忌避され、自身も何ら自己主張する手段を生み出し得なかったからだ。1970年代前半に大学進学のため上京した時、わずかに1967~69年の新左翼・全共闘運動やカウンターカルチャー運動(対抗文化。ロック・ドラッグ・ヒッピー・アングラなどに象徴される反体制文化)の残り火がまだ燻っていた。自ずと授業は欠席しがちで、学生会館(部室や自治会室・食堂など)に屯する毎日が始まった。2~3年ほどで70年直後の先輩たちが卒業してゆき、私たちに継承されることもなく孤立して行った。プレおたく世代とは言わば断崖絶壁に立たされた世代と言える。70年安保世代との間の断層は、その後も大きく口を開いたまま、私たち一人々々が背負い込むことを強いられた。そうこうしているうちに、今度は後輩としてやって来た連中は、私たちと違って70年安保世代と直に接触することがなかっただけに諦めが早かった。どこか決定的に時代の【空虚感】というものと慣れ親しんでいた。1970年代の後半の到来であった。・・・《続く》