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まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

新しい定型詩を生み出すちからー第10回世界俳句コンファレンスに参加して

2019-09-25 03:59:37 | エッセー・評論

俳句を学ぶことは世界を学ぶこと。これまで私の俳句とは、日常の限られた生活空間に押し込められ逼塞したものに過ぎなかった。俳句形式で日々《詩》を書くことの窮屈さからしばし開放され、世界18ヶ国から集った人々の俳句に賭ける言いようの無い熱気に包まれていた。この日、東京御茶ノ水のレトロな佇まいの学士会館で開催された【世界俳句コンファレンス】は、まさに21世紀世界の縮図だった。

その御茶ノ水駅前にある東京ハリストス復活教会(ロシア=ギリシャ正教)の正式信者の知人に、外国人の抱くであろう【俳句】に対するイメージを聞いてみた。彼は板橋生まれの日本人で俳句については全くの門外漢だが、仏語に習熟するなどなかなかの国際派で、以前ルーマニアやモルドバなどの東欧諸国でも俳句は有名であるとの情報を得ていた。この日の大会にもブルガリアとハンガリーから参加者があった。彼らはいったいなぜユーラシア大陸の東の果てにある日本などという島国に発生した【俳句】に特別の関心を持つのだろうか?彼が言うには、西欧やイスラム圏の詩文芸は旧約聖書のダビデなどの時代の預言詩に発する【詩篇】に起源を持ち、現代においてもその影響は甚大であるとのこと。にもかかわらず、日本近世文学の【松尾芭蕉】の一見無媒介で即物的とも映る写実的表現に【神のいない】または、それが不用な未来世界もしくは【キリスト再臨】後の理想社会(「千年王国」)へのある種の渇望があるのではないかということだった。

この画期的な大会に於いていくつかの大きな発見があった。まず、日本と比較的近いアジアの人々に《俳句》と《芭蕉》はどう映ったのか。俳句は江戸時代の半ば近くに、連歌の俳諧の発句《五七五》を独立させ、わずか17音の中で《や・かな・けり》などの切字を駆使して、従来の詩歌の世界に革命を起した。そこに詠まれる内容も、当時世界有数の大都市だった江戸・大阪の世俗事にまで拡大し、武士のみならず庶民にまで愛好された。しかし、その中でも独自の自然の中の人間観を追求した【芭蕉】に対する賞賛の声が会場の隅々にまで湧き起こった。これがいったい何であるかという問いが、私の胸の奥底に生じた。とりわけ、中国の漢字文化圏にあって【漢字】ではない、独自の【民族言語】を持つ内モンゴルの人々の勇壮な短詩(三行型式)の朗詠には背筋が寒くなるほどだった。他にもサンスクリット語を彷彿とさせるネパール語による俳句に対する旺盛な学習意欲には畏敬の念さえ感じた。彼らは今秋、芭蕉生誕の地伊賀をグループで訪れるとのこと。芭蕉の【奥の細道】の枕詞の再生の旅に、自身の21世紀世界の一員としてのあるべき姿を重ねているようだ。欧米の人々は、やはり世代的に【ニューエイジ】の地球自然ガイアのイメージを《芭蕉》と超民族言語としての【世界俳句】に仮託しいるのだろう。それは、私たちが近代俳句の【定型性】の呪縛をあっけなく打ち破る《普遍的自然》の恩寵に満ちた在処を指し示しているのかもしれない。

なぜ今、芭蕉を読むのか。「なぜ芭蕉を読むか」と問うのは、「なぜ息をするのか」と問うのと同じです。生き続けるためというのが、私がたどりついた唯一の答えです。生き抜くために読むのです。 ―スコット・ワトソン

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