二人目の招待作家は現代川柳の内田真理子である。口語体で一見日常語に近い語り口だが、ここでもやはり定型言語に乗る前の自我は曖昧模糊としたつかみどころのないものである。それがいったん定型性を持ち始めると出処不明の揺らぎを孕み、読み手の言語意識をも巻き込んでいく。
波頭ざぶんと日付変更線
信号が長くて春は遅れます
ありえへん言葉ぽっつり梅の花
これは海これはひまわり口移し
彼方にはこちたくねたく薊咲く
晩夏考まばらに椅子が置いてある
静止画像に取り残されるしろうるり
くじらを森に帰す時間だ鐘が鳴る
神の木を蝕んでゆく神の虫
ひとときによく似た鳥を茹でている
作者の日常とは波頭のざぶんという音、信号が長いと感じたり、その時々の意表をつく言葉、口移しに等しい身近な発語・・と意識の内外を予期せず貫く言い知れない存在感に満ち溢れている。そこから時折意識の表層に降りかかって来る彼方や未来の浮遊する薊や誰が座るのか不明な椅子に混じって、まるで静止画像のようにそこにあったかのように取り残される自我像(=しろうるり)が見え隠れする。その自我像の揺らぎがふと黙示する普遍なる大きな時間の予兆【くじらを森に帰す時間】に次なる自我の在り処を作者は見ている。神の宿る木を蝕む時間の変容をかいま見ながら、すでに虚空に消え去った鳥のようなひとときを密やかに定型言語の記憶として止めようとしている。ことさらに儚いが愛しい至福の光景の手触りの中で作者は世界を俯瞰し続けている。・・《続く》
波頭ざぶんと日付変更線
信号が長くて春は遅れます
ありえへん言葉ぽっつり梅の花
これは海これはひまわり口移し
彼方にはこちたくねたく薊咲く
晩夏考まばらに椅子が置いてある
静止画像に取り残されるしろうるり
くじらを森に帰す時間だ鐘が鳴る
神の木を蝕んでゆく神の虫
ひとときによく似た鳥を茹でている
作者の日常とは波頭のざぶんという音、信号が長いと感じたり、その時々の意表をつく言葉、口移しに等しい身近な発語・・と意識の内外を予期せず貫く言い知れない存在感に満ち溢れている。そこから時折意識の表層に降りかかって来る彼方や未来の浮遊する薊や誰が座るのか不明な椅子に混じって、まるで静止画像のようにそこにあったかのように取り残される自我像(=しろうるり)が見え隠れする。その自我像の揺らぎがふと黙示する普遍なる大きな時間の予兆【くじらを森に帰す時間】に次なる自我の在り処を作者は見ている。神の宿る木を蝕む時間の変容をかいま見ながら、すでに虚空に消え去った鳥のようなひとときを密やかに定型言語の記憶として止めようとしている。ことさらに儚いが愛しい至福の光景の手触りの中で作者は世界を俯瞰し続けている。・・《続く》