素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

『大阪府教委・学テ内申点に採用』に3日間モヤモヤ気分

2015年04月10日 | 日記
 8日(月)の朝刊で『大阪府教委・学テ内申点に採用』の記事を読んでから、鬱陶しい天候にプラスしてモヤモヤ感が倍増した。「もう直接関わることではないから割り切ったらいい」という内なる声もある。その一方で「何で!また?」という疑念や懸念がミックスされた思いがフツフツと湧いてくるのも事実。今日の夕刊に『活用決定』の記事があった。

 自分なりにこのことを整理しておかないとストレスが続くので、とりあえず新聞で「教育長と教育委員計4人のうち3人が賛成し、1人が反対した」とあったので大阪府教育委員は誰なんだ?ということを確かめた。 4人の中で現場経験者は小河さんだけだから反対は小河さんだろうと勝手に決めつけた。4人の中でどんな意見が交わされたのかを公開してほしい。(要望①)多数決で決めるべきことだろうか4人で一致できないことは駄目なんじゃないかなあ?(素朴な疑問①)

 記事に「中学3年の内申点を巡り、大阪市教委が府内の他市町村と異なる評価方法を導入すると決定したため、府教委は統一の基準づくりを迫られていた」とあったので唐突感の目立つ決定には大阪市教委が大きく関与していると思い、大阪市教委のホームページを見ると、次のようなメッセージがあった。

中学生・保護者・市民の皆様へ 大阪市教育委員会からのメッセージ      平成27年3月24日
高等学校入学者選抜の調査書(内申書)の公平性を確保するために 
           大阪市教育委員会委員長 大森 不二雄
 来春の高等学校入学者選抜から、調査書(内申書)に記載される評定(内申点)を「相対評価」から「いわゆる絶対評価」に変更することを大阪府教育委員会が明らかにしています。大阪市教育委員会は、内申書が公平・公正なものになるよう、「平成28年度大阪府公立高等学校入学者選抜における調査書に記載する評定等に関する方針」を決定いたしました。

 内申書の問題は、教育の専門家でないとわからない複雑なものと思われがちですが、つきつめれば、「入試は公平でなければならない」という単純かつ切実な問題なのです。そして、「いわゆる絶対評価」による内申書は、共通の評価尺度や統一ルールを設けない限り、中学校間・市町村間で学力を反映したものとは考えられない内申点のばらつきが生じ、高校入試に欠くことのできない公平性・公正性が確保できなくなることがわかっています。

 大阪市教育委員会は、大阪府教育委員会に対し、平成24年以来、何度も繰り返し、内申書の公平性を担保するための府内統一ルールを設けるようお願いしてきましたが、最も重要な中学3年生の内申点について府内統一ルールが設けられないまま、今日に至りました。

 そこで、大阪市教育委員会は、4月からの3年生の成績評価が目前に迫る今、大阪市内だけでもすべての中学校が参加するテストという共通の評価尺度を活用して公平・公正な「真の絶対評価」を実施することを決めました。
大阪市統一テストの活用によって、相対評価の欠点(学校内の順位だけで成績が決まること)は解消されますし、市内の全中学校に統一ルールを示すことによって不公平が生じないようにします。また、大阪市統一テストだけで内申点が決まるわけではなく、中学校での日常の学習の成績も内申点につながる仕組みです。
 
 大阪市が独自のルールを作れば、府内に2つのルールができてしまい混乱が生じるとの主張がありますが、他の市町村にどのようなルールがあるかはともかく、府内統一ルールが設けられていないことこそ混乱の原因です。各市町村内の中学校における成績評価の公平性の確保は、各市町村教育委員会の責務にゆだねられています。大阪市の方針は、その責務を果たすためのものであり、府内統一ルールの欠如による混乱を最小限に抑えるためのものです。
本来、府内全域で、中学3年生を対象とするテスト等による統一ルールが設けられ、内申書の公平性・公正性が確保されれば、それが最善であることは言うまでもありません。
「調査書に記載する評定等に関する方針」および方針への疑問点にお答えする「Q&A」をぜひ一緒にお読みいただき、ご理解・ご協力くださいますようお願いいたします


 相対評価を絶対評価にするとかなり前に発表した時、京都府で行われた取り組みを紹介して、基準づくりが大変だと指摘した。府教委の「大阪府公立高等学校入学者選抜制度改善方針」も読んだが、本当の意味での絶対評価になっていないように思う。大阪市教委の苛立ちは理解できた。指摘の内容ももっともだと思う。

 大阪市教委の実力行使に土俵際に追い込まれた府教委が泥縄式に「学テ」にすがった。というのが今回の決定の構図じゃないかな(独断①)

 目的の違う「学テ」を使うのは、人のふんどしで相撲を取るのと同じで恥ずかしくないのかなあ(素朴な疑問②)

 入試は個人の問題である。それに学校の平均点が関わってくるとややこしい問題がいっぱい生じてくると思う。それらをシュミレーションして検討したのかな?あれば公開して欲しい(要望②)

 新聞によれば、「大阪市教委は府教委の基準に従う方針。」とあるが、市教委のメッセージにある「入試は公平でなければならない」という単純かつ切実な問題がクリアされたと思っているのだろうか。(素朴な疑問③)

 考えれば考えるほど問題点が増えてくる。ならば、絶対評価導入を凍結して検討を継続する。それまでは現行のままにする。というのが妥当なところだと考える(独断②)

 疲れたので今日はこれまで。また機会があればである。現場の人に聞きたいことはたくさんあるが、今はそれどころではないだろう。
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大阪府立むらの高等支援学校 校歌

2015年04月09日 | 日記
 7日の夜、村野中学校2期生代表幹事さんから携帯にメールが入った。同窓会のことかなと思ったら件名に「大阪府立むらの高等支援学校 校歌」とあり((´・ェ・`))ゥゥン?となった。
 
 メールの中身はこういうことである。村野中学校跡地に建設された《大阪府立むらの高等支援学校》の初代校長になられた可知さんが、自分が作詞した校歌の作曲を村野中学校に関係した人にしてもらいたいという思いがあった。そこで旧知の間柄である代表幹事さんに誰か適当な人がいないかという相談があったという。

 代表幹事さんは同期の林(旧姓)さんに打診して話がまとまった。林さんは中学の時からピアノが堪能で文化祭でも活躍し高校、大学とその道を極めた方で、先の同窓会でも校歌を歌う時に伴奏をしてもらった。打って付けの人選だったと思う。

 7日の開校式に「村野中学校2期生代表幹事」「校歌の作曲者」としておふたりは招待され、校歌の御披露目に立ち会ったのである。その映像をYou Tubeに限定公開したので見てもらいたいとURLを知らせてくれた。

 その2番と3番の間奏にさりげなく村野中学校の校歌のメロディーの1節が組み込まれているとのこと。また可知校長先生の歌詞にも村野中学の校歌の1,2番の出だし『交野が原』と『天の川面』が組み込まれているので歌詞のデータも添付してくれた。

 しかしである。我が携帯は時代遅れの簡単携帯、YouTubeも添付データにも対応が出来ず。昨日、代表幹事さんにパソコンのほうに再送信してもらい、ようやく動画と歌詞を見ることができた。

大阪府立むらの高等支援学校 校歌
 
 

 村野中学校の校歌を作詞された初代の南清秀校長先生には公私にわたってお世話になった。大東市で長く勤められてきたが、最後の3年間を枚方市という教育風土の異なる、しかも新設校での学校づくりに邁進された。ベテランと若手の二極化の中苦労も多かったと思うがおおらかにかつ要所を締めて自由に教育実践をさせてもらった。また、職場で知り合った私たちの仲人を快く引き受けてもらった。偶然だが、教頭だった岸先生が仲人第1号で私が第12号。「これで最後やな」と大笑いされた。また、妻の実家から玄米が届くと、今のようにコイン精米機のない時代、田畑も持っていた先生のお宅には簡易精米機がありつかせてもらった。大量に精米できないので30kを付くには半日はかかった。その間、先生の居間でいろいろな話を聞くことができた。そのことが目に見えない力となった。

 昭和52年に退職されてからも時折お宅にお伺いしていたが、3年後の冬、「ちょと風ひいたみたいや、寒気がする」と帰りがけに聞いた1週間後に急逝された。そのことが一番惜しまれる。村野中学校の校歌の詞には先生の教育者としての魂が込められている。その言葉が新設の支援高等学校の校歌に使われたことは望外の喜びである。

 代表幹事さんのメールを読んだ時、男女の結びつき以上の『縁は異なものあじなもの』を思った。
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今日BSプレミアムの「心旅」で懐かしい横山が

2015年04月08日 | 日記
 ここ6日間連続で雨が降ったと天気予報で言っていた。今日も未明には上がるだろうと思っていたのに回復が遅れ昼近くまで中途半端な降りかたの雨が残った。12:20からのピラティスに間に合わせるために自転車でジムに向かった。明日から造幣局の通り抜けが始まるが、例年だとほぼ同じタイミングで「季節の移ろいを感じる小道」にある八重の里桜も満開近くになっていたのに、ここ2、3日の冷えと雨のためつぼみのままである。
   気の早い花がわずかに開き始めているぐらいだ。来週になると風景が一変するだろう。その代わりに咲き誇っているのがミツバツツジ。
 インストラクターのOさんが東京での研修会に参加するために休まれたり、休館日と重なったりして3週間ぶりの水曜日のピラティスであった。基本からきっちりと鍛えられて背筋がピシッとなった感じである。ピラティスが終わった後、いつもより1時間多く、筋力トレーニングや有酸素運動をして帰宅した。さすがにぐったりと動く気がしなかったので朝、夕の新聞をゆっくり読む。

 BSプレミアムの番組欄の「心旅」《志摩の絶景へ!》が目に留まった。4月から三重県編を放送していることは知っていたが「三重県は南北に長いから」とさほど関心がなかった。しかし、《志摩の絶景へ!》となれば別。「う~ん?どこだろう?」と思いを巡らした。大王崎の灯台と太平洋それとも安乗の灯台、的矢湾、登望山からの英虞湾などなど浮かんだが私だったら横山からの英虞湾だな。しかし、横山という平凡極まりない名前だけにあまりメジャーな観光スポットではない。夜7時が楽しみになった。

 なのに、18時50分過ぎから電話やメールが集中して届いたり、天皇、皇后両陛下の戦没者慰霊のためのパラオ訪問のニュースに見入ったりしていたためウッカリ忘れていた。慌ててBSプレミアムにかえたら坂道をヒーヒー言って上っているシーンだった。「アアこれ横山やな」とすぐにわかった。なにしろ小中学生の頃、庭のように駆けずり回っていたお気に入りの場所だったからだ。あの道を自転車で行くとはと「ご苦労さん」と笑ってしまった。展望台付近はずい分整備されている感じだった。
 左手の鵜方の町並みは随分変わった。田んぼや雑木林だった所に商業施設がたくさんできて入江に迫っている。
 御座、浜島方面の景色は大きく変わっていない。 私にとっても、心のふるさとは横山からの景色かもしれない。


 
 
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2年前の走り感覚をやっと取り戻す

2015年04月07日 | 日記
 寒波が到来したため季節が1ヵ月逆戻りした。花冷えである。「寒い、寒い」が挨拶がわりである。しかし、ランニングにとってはベストの条件。午後に寝屋川公園往復コース10kmを走ることにした。

 走り始めてすぐに足の感覚に変化があると感じた。2年前に左膝を痛めてから回復はしてきたとはいうものの以前のように下り坂でスピードを上げることはできないままであった。どことなく左足に違和感があり思い切って踏み込めないのである。数字で言えば、2年前は1km6分のペースを基準にしてきたが今は1km7分を保つのがやっとの状態である。

 練習用に設定している2つの10kmコース(寝屋川公園往復、打上治水公園往復)とも自分の家がスタートなので、必然的に坂道が多い。下り坂を利用してペースを上げることができないと1時間前後でゴールすることはできない。

 1年前に回復して走りを再開してからでも走り始めてから15分ぐらいは左足の膝付近に突っ張り感があってセーブして走る必要があった。そのためランニングのリズムがつかめず消耗が激しかった。

 今日は、出だしから感じが違った。言葉で表現するのは難しいが左足の存在が気にならず、左右同じように足が運べているのである。ためしに下りの部分で思い切ってスピードを上げてみたが問題がなかった。「この走りの感じ、2年ぶりだ!」と思った。

 先日測定をし直した時に1km毎のポイントを確認してあったのでラップタイムの確認が出来た。5km過ぎまで1km6分できざむことができた。後半のラスト2kmはほとんどが上りなのでそこを粘るだけのスタミナはまだなかったが、1時間6分5秒でゴールできた。平均すれば1km6分36秒となる。走りに関する体の質的な変化を実感できたことは大収穫。

 ジムにあったFREE MAGAZINEで読んだ一節が思い出された

 「「『人は傷ついて、気づいて、築く』。ある知人は、自著でこんな言葉を書いていたが、まさにその通りだと思う。つまずき、傷つき、痛みを背負う。その痛みがおさまり、傷を冷静に観察できるようになると、これまでとは違った視界が得られて、気づきがある。そして、再び同じ傷をつくることがないように、知識と知恵を築いていく。

 転ばないようにすることや傷つかないようにすることが大事なのではなく、傷ついたときにどう、自分を治癒していくか。キャロル・ライトバーガーは『感情地図・心と体を元気にする最高の方法』のなかで、治療と治癒の違いについて『治療は肉体に、治癒は心に焦点をあてる』と語っている。そして、『治癒は病気になる前よりも、もっといい状態になること』とし、『治癒は気づくことから始まり、変わることで終了する』と説く。

 実際は、変わっておしまいというのではなく、そのあとも小さな変化は絶えず続き、そうした積み重ねが私たちの心と体で健康という土台を築くのだろう。そう考えたら、たとえ転んだり、傷をつくったり、病気になったりしても、この世で起こることに無駄なものなんて、ひとつもないと思えてくる。」(LIVE51号・鈴木博子)


 このマガジンから生活のヒントをもらったことが度々あった。この51号で休刊となりリニューアル準備に入るようだ。期待して待とう。
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今日の【風知草】:時代を変えた演説

2015年04月06日 | 日記
 毎週月曜日に掲載されている山田孝男さんの【風知草】は「時代を変えた演説」というタイトルがつけられていた。

 〈局面を変えてしまうスピーチがある。池田勇人首相の浅沼稲次郎社会党委員長に対する追悼演説(1960年)がそうだ。

 浅沼は第1次安保闘争の直後、日比谷公会堂で演説中、右翼テロの凶刃に倒れた(享年61)。国会の追悼演説は反対党に割り振られる。浅沼より一つ年下の池田が買って出た。

 この演説にはインパクトがあった。ここを境に殺伐とした安保騒動の名残は薄れ、高度成長、経済立国へ時代が動いた。

 いまの日本の課題も似ている。安保・沖縄をめぐる国論の分裂をどう埋めていくか。和解の知恵と言葉が問われている。〉


 という書き出しに、久々に心をつかまれた。当時、私は9歳。秋葉英則さんが「子供に知的能力を~社会性の発達こそ その土台~」の中で子どもの発達の節を1歳半ごろ・4歳半ごろ・9,10歳ごろ・13歳ごろ・17歳ごろとしてそれぞれの発達の課題をまとめている。それによれば9,10歳ごろは[書きことばの獲得、抽象的思考の芽ばえ、自律意識の芽ばえ]となっている。その通りだと思う。自分の中に大人の社会への関心が急速に高まってきた覚えがある。加えてテレビが購入され自分の家でニュースが視覚をともなってタイムリーに伝わってきたことも大きな刺激となった。

 当時の世の中の騒然とした空気は中身は分からないが子ども心にも伝わってきた。教育界では教員の勤務評定制度を徹底させる通達が出され、これに反対する教職員の激しい闘争があり、政治では新安保条約締結をめぐり大論争が繰り広げられた。

 当時の流れをかいつまんでみると
1959年 3月:安保改定阻止国民会議結成
    4月:皇太子結婚式
    11月:安保反対デモ国会構内乱入
1960年 4月:沖縄県祖国復帰協議会結成
    5月21日:社会党、新聞各社、岸内閣総辞職を訴える国会請願デモ 
    6月15日:東大学生樺美智子圧死、全国でデモ・スト参加580万人
    6月19日:新安保条約自然成立
    7月15日:岸内閣総辞職
    10月12日:社会党委員長浅沼稲次郎演説中に刺殺される
となる。ニュースで流れた映像は衝撃的なものであった。とは言ってもまだまだ子ども、事件の重みよりも加害者の山口二矢(おとや)という名前の方がガキ集団の中では話題になった。理由は単純。遊び友達の中に「おとや」という店の息子がいたのである。みんなから「おとや、おとや」と言われずい分迷惑であったことだろう。

 この事件を境にして時代の流れが変わったと山田さんは指摘しているが、確かにそうだったとうなづける。そに池田勇人首相の追悼演説があったことは知らなかった。続けて山田さんは書いている。

 [池田の浅沼追悼演説を書いたのは、西日本新聞記者から池田の秘書官に転じた伊藤昌哉(1917~2002年)だった。伊藤の回想が興味深い。

 池田は60年7月19日、首相就任。10月12日、浅沼刺殺。追悼演説は臨時国会開会の翌日で、浅沼の初七日にあたる18日。池田は「議場がシーンとしてしまうような追悼文を書いてくれ」と言った(伊藤「池田勇人 その生と死」)。

 衆院事務局が草稿を示したが、ありきたりで使えない。伊藤は日経新聞「私の履歴書」の浅沼の回(56年4月)を読み込み、ゼロから書き上げた。]
 として演説のポイントになる部分を抜粋している。

 こうなると俄然全文を読みたくなった。幸い議事録が公開されていた。

議員淺沼稻次君逝去につき院議をもつて弔詞を贈呈することとし、その文案は議長に一任するの件(議長発議)
○議長(清一君) 御報告いたすことがあります。

 議員淺沼稻次君は、去る十月十二日、日比谷公会堂において不幸難にあい、にわかに逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。

 つきましては、同君に対し、院議をもって弔詞を贈呈いたしたいと存じます。なお、この文案は議長に一任せられたいと存じます。これに御異議ございませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(清一君) 御異議なしと認めます。よってさよう決定いたしました。

 つきましては、議長の手元において起草いたしました文案を朗読いたします。
日本社会党中央執行委員長議員淺沼稻次君は不幸兇手にかかり急逝されました。君は初代の議院運営委員長として新国会の運営に努め多年政党幹部の重職にあたり終始民主政治の発達に尽力されましたその功績はまことに偉大であります。衆議院は君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます。
 この弔詞の贈呈方は議長において取り計らいます。

     ――――◇―――――
池田勇人君の故議員淺沼稻次君に対する追悼演説
○議長(清一君) この際、弔意を表するため、池田勇人君から発言を求められております。これを許します。池田勇人君。
〔池田勇人君登壇〕
○池田勇人君 日本社会党中央執行委員長、議員淺沼稻次君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました。

 私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)

 ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります。

 かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、また、あるときは大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があるように思われてなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」、「暴力は民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります。(拍手)

 私は、目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、皆さんとともに、はっきり誓いたいと存じます。(拍手)これこそ、故淺沼稻次君のみたまに供うる唯一の玉ぐしであることを信ずるからであります。(拍手)

 淺沼君は、明治三十一年十二月東京都下三宅島に生まれ、東京府立第三中学を経て早稲田大学政経学部に学ばれました。早くから早稲田の北沢新次教授や高校時代の河合栄治氏らの風貌に接し、思想的には社会主義の洗礼を受けられたようであります。

 当時、第一次大戦が終わり、ソビエトの「十月の嵐」が吹いたあとだけに、「人民の中に」の運動が思想界を風靡していました。君は、民人同盟会から建設者同盟と、思想運動の中に身をゆだね、検束と投獄の過程を経て、ごく自然に社会主義運動の戦列に加わったのであります。

 大正十二年母校を卒業するや、日本労働総同盟鉱山部、日本農民組合等に関係して、社会運動の実践に情熱を注ぎ、大正十四年の普選を機会に、政治運動に身を挺したのであります。

 すなわち、同十四年農民労働党の書記長となり、翌十五年日本労働党の中央執行委員となった後は、日労系主流のおもむくところに従い、戦時中のあの政党解消が行なわれるまで、数々の革新政党を巡礼されたのであります。

 君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和十一年の第十九回総選挙に東京第四区から立候補してみごと当選されたときであります。以来、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙を除いて、今日まで当選すること前後九回、在職二十年九カ月の長きに及んでおります。

 戦後、同志とともに、いち早く日本社会党の結成に努力されました。昭和二十二年四月の総選挙において同党が第一党となり、新憲法下の第一回国会が召集されますと、君は衆望をになって初代の本院議運委員長に選ばれました。書記長代理の重責にあって党務に尽瘁するかたわら、君はよく松岡議長を助けて国会の運営に努力されたのであります。幾多の国会関係法規の制定、数々の慣行の確立、あるいは総司令部との交渉等、その活躍ぶりは、与・野党を問わず、ひとしく賛嘆の的となったものであります。

 翌二十三年三月、君は、日本社会党の書記長に当選、自来、十一年間にわたってその職にあり、本年三月には選ばれて中央執行委員長となり、野党第一党の党首として、今後の活躍が期待されていたのであります。

 かくて、君は、戦前戦後の四十年間を通じ、一貫して社会主義政党の発展のために尽力され、君自身が社会党のシンボルとなるまでに成長されたのであります。淺沼君の名はわが国政治史上永久に特筆さるべきものと信じて疑いません。(拍手)

 君がかかる栄誉をになわれるのも、ひっきょう、その人となりに負うものと考えるのであります。

 淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。(拍手)

 君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。
沼は演説百姓よよごれた服にボロカバンきょうは本所の公会堂あすは京都の辻の寺
これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります。委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります。(拍手)

 「演説こそは大衆運動三十年の私の唯一の武器だ。これが私の党に尽くす道である」と生前君が語られたのを思い、七日前の日比谷のできごとを思うとき、君が素志のなみなみならぬを覚えて暗たんたる気持にならざるを得ません。(拍手)

 君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。(拍手)君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。(拍手)

 私どもは、この国会において、各党が互いにその政策を披瀝し、国民の批判を仰ぐ覚悟でありました。君もまたその決意であったと存じます。しかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません。(拍手)

 ここに、淺沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼の言葉にかえたいと存じます。(拍手)


 なるほどと得心した。山田さんはコラムを次のように締めくくっている。

 [浅沼人気は絶大で、連日の追悼デモの矛先は政府に向きかけたが、池田演説はその流れも変えた。政府の経済審議会が所得倍増計画案を答申したのは演説の1週間後だった。

 安保条約改定は直前の首相・岸信介(安倍晋三首相の祖父)の信念だった。岸は強行採決に伴う混乱で引責辞任。池田も親米反共だが、「国のためなら電信柱にも頭を下げる」低姿勢で新時代の扉を開けた。

 ひるがえって安倍。信念が招いた混乱に鈍感では新時代に移れまい。少なくとも、反戦平和の理想を鼻で笑うような高飛車は改めた方がいい。(敬称略)]


 たくさんのことを考えさせられたコラムであった。

 
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