https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180830-00057296-gendaibiz-bus_all
治療対象となる病気は7000種類以上
ヒト受精卵に最新鋭のゲノム編集技術を施し、深刻な遺伝性疾患の原因を除去することに中国の研究チームが成功した。
https://www.cell.com/molecular-therapy-family/molecular-therapy/fulltext/S1525-0016(18)30378-2
これは子供が生まれてくる前に、病気の芽を摘んでしまうことを意味する。こうした治療法がいずれ実用化されれば、人類を苦しめてきた数多くの遺伝病を撲滅できると期待されている。
今回の実験(基礎研究)を行ったのは、広州医科大学と上海科技大学の共同研究チーム。彼らは体外受精(IVF)によって得られたヒト受精卵をゲノム編集し、「マルファン症候群」の原因となる遺伝子変異を修正することに成功した。
この病気は、ヒトの15番染色体上にあるFBN1遺伝子の変異による難病。全身の結合組織が異常を来たすことで、「大動脈瘤」や「骨格変異」、「自然気胸」など様々な症状が引き起こされる。
このマルファン症候群のように、たった1箇所の遺伝子変異によって引き起こされる遺伝病は、一般に「メンデル性疾患(単一遺伝子疾患)」と呼ばれる。メンデル性疾患には全部で7000種類以上あるが、そのうち約4000種類で病気の原因となる遺伝子変異が特定されている。
米国での実験は評価が定まっていない
こうした遺伝子変異を(ヒト受精卵の段階で)ゲノム編集により修正する試みは、実は今回が初めてではない。2015年頃から(今回と同じく)中国の研究チームによって何度か実施されているが、いずれも失敗に終わっている。
これに世界で初めて成功したのは、オレゴン健康医科大学など米韓中の共同研究チームとされる。彼らは第3世代のゲノム編集技術「クリスパー(・キャス9)」を使って、メンデル性疾患の一種である「肥大型心筋症」の原因となる遺伝子変異を修正する実験を行った。
結果、(実験に使われた)全58個の受精卵のうち42個が狙った通りにゲノム編集され、病気を引き起こす遺伝子変異が修正された。
つまり成功率は72%と完璧ではないが、全部の中から狙い通りにゲノム編集された受精卵だけを選び抜いて子宮に移植すれば、(理論的には)健康な子供が生まれることになる。
この実験結果は昨年8月、英ネイチャー誌に発表され世界的な注目を浴びた。
https://www.nature.com/articles/nature23305
ところが、この直後に米ハーバード大学のジョージ・チャーチ教授ら、一部専門家から異議が唱えられた。それによれば、「この実験を行った(米韓中の)共同研究チームは実験結果を勘違いしており、実際にはヒト受精卵のゲノム編集は為されていない」という。
これに対し共同研究チームの責任者が反論し、この論争は今に至るまで決着していない。つまり「ヒト受精卵のゲノム編集が実際に(米国で)行われた」と立証されたわけではないのだ。
さらに、このときの実験に使われた(第3世代のゲノム編集技術)クリスパー自体に対しても、最近になって、深刻な問題が次々と指摘された。
まず今年6月には、スウェーデンのカロリンスカ研究所とスイスの製薬会社ノバルティスが各々、「クリスパーによるゲノム編集は、細胞の癌化リスクを高める可能性がある」とする論文を発表。
https://www.nature.com/articles/s41591-018-0049-z
https://www.nature.com/articles/s41591-018-0050-6
続いて7月には、英ウエルカム・サンガー研究所が「クリスパーによるゲノム編集は、ゲノム(DNA)に想定外のダメージを与える恐れがある」とする論文を発表した。
https://www.nature.com/articles/nbt.4192
医学への応用は時期尚早か?
これらの論文が言外に示唆しているのは、「クリスパーを(ヒト受精卵のゲノム編集や遺伝性疾患の治療など)医学に応用することは時期尚早ではないか」ということだ。
しかし米国のエディタス・メディシンやインテリア・セラピューティクス、あるいはスイスのクリスパー・セラピューティクスなど、欧米の医療ベンチャー企業は既にそれに着手している(これらベンチャーはいずれも、クリスパー技術を発明した科学者らが創業した企業)。
彼らは「ベータ・サラセミア(地中海貧血)」や「鎌状赤血球貧血」などのメンデル性疾患を、クリスパーで治療する技術を開発。2018年にはその臨床研究を実施することを予定していた(これらはヒト受精卵ではなく、既に病気を発症した患者をゲノム編集で治療する臨床研究だ)。
その矢先に(クリスパーの安全性に疑問符を投げかける)上記3本の論文が発表されたわけだが、これに対し3社は即座に反論。その技術的詳細はあまりに専門的すぎるので割愛するが、要するに「(これらネガティブな論文は)それほど重視するに値しない」と主張している。
実際、クリスパーの安全性に疑義を呈する論文は以前にも何度か発表されているが、それらの信頼性は後に否定されている。
最もよく知られているところでは2017年5月、「クリスパーによるゲノム編集が、(マウスのDNA上で)意図せざる突然変異を多数発生させた」とする論文が英ネイチャー・メソッズに発表された。ところが、この実験結果は後の追試によって否定され、同論文は今年4月に撤回された。
https://www.technologyreview.jp/s/81144/crispr-may-not-cause-hundreds-of-rogue-mutations-after-all/
要するにエディタス・メディシンなど欧米ベンチャーにとって、クリスパーを攻撃する論文はよくあること。彼らは「クリスパーは安全な技術」という絶対の自信を持っており、最後には自分たちが勝つと考えているが、いかんせん、その技術開発の当事者であるだけに、そう主張したところで客観性に欠ける。
つまり(今年4月の論文撤回のように)相手が自らの負けを認めるか、あるいは第三者がクリスパーの安全性を改めて証明してくれるまで、同技術を使った臨床研究は待たねばならない。
改良型クリスパーは「DNAを切らずに治す」
そうした中で(本稿冒頭で紹介した)中国チームが今月発表した論文は、(エディタス・メディシンなど)クリスパー陣営にとって久しぶりの朗報となった。
ただし広州医科大学ら共同研究チームが採用したゲノム編集のツールは、同じクリスパーをベースとする技術とは言え、エディタスらが培ってきた従来の技術「クリスパー・キャス9」とは異なる。
中国の共同研究チームが採用したのは、従来型クリスパーの延長線上に開発された「ベース・エディティング(Base Editing)」と呼ばれる技術だ。これは(従来型クリスパー技術の発明者の一人である)米ブロード研究所のフェン・ジャーン博士の同僚、デビッド・リュー博士らが2016年に開発した技術だ。
従来のクリスパー(・キャス9)では、まず「ガイドRNA」と呼ばれる化学物質が(DNAのハサミとも呼ばれる)核酸分解酵素「キャス9」を、DNA上の狙った遺伝子がある場所まで導く(臨床研究など医療に応用される場合、この遺伝子は何らかの病気を引き起こす異常な遺伝子だ)。これをキャス9が切断して破壊し、その場所に正常(健康)な遺伝子を挿入して、そこをつなぎ直す。理論的には、これで病気は治るはずだ。
要するに従来型クリスパーは「DNA(遺伝子)のカット&ペースト」技術と見ることができる。
しかし、このやり方ではキャス9がDNAをカット(切断)する際に、DNA全体に大きな衝撃を与えてしまう。これが「細胞の癌化」や「意図せざる突然変異」、あるいは「(DNAの)想定外のダメージ」を引き起こすと見られている。
これに対し次世代のクリスパー技術である「ベース・エディティング」では、DNA(遺伝子)をカットしない。むしろ(ガイドRNAによって指定された)遺伝子を構成する文字列(実際にはG、A、C、Tという4種類の塩基から成る配列)を直接書き換えてしまうのだ。
つまり「DNAのカット&ペースト」のような荒っぽい作業ではなく、ある種の化学反応によって、GをAに変換したり、CをTに変換することが可能になる。これがベース・エディティングの最大の長所だ。このため「細胞の癌化」や「意図せざる突然変異」など従来の問題を回避できると見られている。
実際、今回の中国チームの実験によって、それが確かめられた。
つまりベース・エディティングによってマルファン症候群の原因遺伝子を修正すると同時に、「DNAへのダメージ」や「意図せざる突然変異」などの問題を未然に防いだのだ。これにより「ゲノム編集医療が、実用化に一歩近づいた」と学会で評価されている。
独走する中国にどう対応するか
しかし欧米や日本の研究者らは、こうした中国の目覚ましい躍進を複雑な思いで見つめている。
前述のように、欧米の一部ベンチャー企業はクリスパーを使った臨床研究の準備を既に進めているが、(米FDAや欧州医薬品庁など)規制当局からなかなか、許可が下りないのである。
これには(前述の)ネガティブ論文が影響していると思われるかもしれないが、実際には、これら3本の論文が発表される遥か以前から臨床研究の申請は提出されており、規制当局はそれに対する許可を出し渋ってきた。つまり(少なくともクリスパーの医療応用に関しては)欧米の規制当局は基本的に保守的なのだ。
一方、日本では厚生労働省からゲノム編集医療に関する明確な指針が示されず、関連法も整備されていないため、科学者にしてみれば臨床研究などがやり難い状況となっている。そうした法的空白地帯が生じているなら、「やっても違法ではない」という考え方もあり得るが、実際問題としては、それは出来ないだろう。
つまり欧米と日本では背景や理由が若干異なるにせよ、結果的に「クリスパーによる臨床研究に踏み切れない」という点では同じだ。
さらにヒト受精卵のゲノム編集に関しては、(人類の未来に与えるインパクトがあまりに大きいため)基礎研究さえ、おいそれと実施できる雰囲気ではない(2017年に米国で行われた実験にも、一部の生命倫理学者や宗教関係者などから批判の声が聞かれた)。
これに対し中国では、政府の規制当局は基本的に関与せず、大学や病院などによる独自の判断でクリスパーを使った臨床研究を実施できる。このため既に各種癌などの患者80人以上に対する臨床研究が実施されている。
またヒト受精卵のゲノム編集についても、(あくまで基礎研究という枠組みの中で)欧米や日本と比べて遥かに精神的ストレスの少ない環境の中で実験に踏み切ることができる。
結果、医療分野におけるゲノム編集、特にクリスパーの導入については、中国が独走する事態を招いているのだ。
容易に結論が出せる事案ではないが、これにどう対処するかが日本や欧米の規制当局に突き付けられた緊急課題となっている。