以前の記事に書いた患者さん、松並さん(仮名)。
徐々に体力の低下が目立ってきて、今までに増して、ご家族がお部屋に滞在する時間が長くなってきました。
松並さんのお部屋に行くと、少し調子がいいときには、担当のご挨拶に行くと、松並さんは、手を振って歓迎してくださります。
嬉しいことに、ご家族にポンを紹介してくださりました。
「六文銭の看護師さん。」
ふぁ~~~~~っ。

私、そないゆうほど、幸村に詳しくないから~~~っ。
ちょっと、たじたじしながら…、私もご家族にご挨拶。
ただ、体力が落ちてくると、記憶や注意力など、認知機能も健常な時に比べて低下してきますので、患者さんの会話はおぼろになります。
ですから、ポンの名字は松並さんには残っておりませんでした…。
松並さん、「六文銭の看護師さん」とご家族に私を紹介してくださったあと、私の名前を考え込んでおられました。
こんな場面、今までに何度も経験しております。
自分の名字を呼んでもらえないことは、ほんの少し、残念ではありますが、顔を覚えてくださっているだけで、それだけで光栄ってもんです。
でも、自分の名前を呼んでもらえることに、多少は嬉しさもあります、本音ではー。
でも、そんなこと、些細なことです。
この場面に遭遇した時には、いつも同じセリフを言ってます、最近。
『あああああ、ええねん、ええねん。大したことでないことは、覚えんでもええねん。私、また来ますからーーーっ。』
患者さんにとっては私の言葉は何の支えにもなってないかもしれません。
だって、患者さんにとって、記憶力が落ちてしまったり、自分の言いたいことがうまく伝えられなかったり、会話がうまくできないことは、とてもつらいことですから。
患者さんが、自分の名前を呼ぼうとして必死に自分のエネルギーを振り絞ってくださっていることは十分にわかっているつもりです。
でも、私には、自分の名前を想起して呼んでもらうよりも、もっともっと大切なものが患者さんにはあるから、自分の存在は二の次やん☆って思うことが多々あります。
患者さんにとっては、想起したいことが想起できないことはとてもつらいことではあると思いますが、それでも、想起しづらい状態にあっても、なんとなくでも、患者さんの記憶からさほど離れることなく、すっかり密着することは無理でも、体力の低下した患者さんとの「可能な」距離を保ちつつ、そばにいれたらいいなと思います。
おかげさんで、幸村自体への所縁よりも、松並さんのおかげで幸村への愛着が増しそうな、今日この頃です。
私は、松並さんの笑顔を見たいとがんばりつつ、松並さんがどんな表情をしていても、どんな状態であっても、松並さんのおそばにいるつもりです。
