神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.159  次の花

2024-05-03 21:33:05 | 余録
(1)連休の後半ですね。連休でも私の生活は変わりません。もう一昨日になりますが、また多摩川へ行ってきました。
 その前の2回はやや暑くて曇りでしたが、この日は薄手のシャツでは寒いくらいの晴れでした。作業してもあまり汗をかかず、屋外で土工をやるには絶好でした。それに、晴れていると、強い光線が、もう小粒の化石しかなくなってきた地面をよく照らし出してくれて、見極めがラクでした。成果をお見せしましょう。だいぶ少なくなりました。
 ・・・、覚さん、もういいでしょう。
    
    左上の大きめのものは、ただの小石。

(2)成果と言えば、インゲンの支えの竹を取りに来たという80代くらいのジイサンがまた来ました。「また」というのは、2~3日前にも来たのと、その時にいちど化石の話しをしたのに、ソラきかずだったのか、同じ質問をしてきたということです。
 そして、「なにしてるんですか」と、話しかけてきました。
 それで、腰を伸ばしながら、説明すると、ようやくわかったというふうに感心して、
 「うちにも大きな木の化石がある」、「一抱えもある」と言って、両腕を丸くしてみせて説明しだしました。
 それで私が、「部屋で飾ってるんですか。」と訊くと、
 「庭においてある。」、「庭石として飾っている。」と。それで発見場所を訊くと、
 「仕事でインドネシアの方へ行った時に、欲しいといったら、送ってくれた・・・。」

   
   かわいい かわいい

(3)驚きました。外国産の化石が日本で庭石として使われているなどとは思いもよりませんでしたが、私の発見した化石も、鉢のかけらが混ざった花壇用の残土の近くにありましたから、おそらく投棄物だったかもしれません。
 これはまだわかりませんが、もしそうだとすると、犯罪ではないかと思いました。
 つまり、きちんと扱えば、地球や地域の地質や地歴を知る貴重な資料になるものを、個人の思い付きや、場合によっては儲けのために勝手に取り出してきて、挙句の果てに出所不明のものにしてしまい、あげくにゴミとして不法投棄したわけですから、何重にも犯罪です。

(4)と、まあ、あきれてしまいましたが、上を見ると、アカシヤ?がきれいでした。

 
    「さわやか」(八千草薫)

  もう1枚アップで。

  
    う~ん!

(5)この時期の多摩川沿いは、葉桜と共に、背が高いこの花がたくさん咲いて、すがすがしいです。
 連休が終わって葉がしっかりして照り返してくるようになると、いよいよ夏は来ぬ!です。
 今日はここで。
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No.158 棚の本 5

2024-05-03 04:49:39 | 追憶
(1)みなさんは日記をつけていますか。
 神足勝記は明治6年から書き始めて、没年の昭和12年までほとんど続けて書いていました。
 刊行した『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)は、このタイトル(標題)のところに限ってまとめたものですが、割愛した私事の部分や『回顧録』・関係文書などを入れると、3~4倍を超える量になります。それらについては、なんとかご覧いただけるよう、目下、公開の方向で鋭意努力中です。
 人の一生は、短いといえば短いですが、その内容は様々ですし、どの人の一生もそれ相当の長さと価値を持っています。ぜひ、メモ程度でも残してほしいとおもっています。
 なお、私の日記はおそらく中学生くらいからあるはずです。これはまたいつかのこととします。

    
     OK,きれいきれい!

(2)さて、世の中には「日記文学」などというものもあります。その中には発表することを予定して書いたり、あとから脚色したりしたものもありで、あてにならないものもあるようですが、それはおいて、数ある日記の中で私が興味を持って読んだものに、物理学者の朝永振一郎さんの「滞独日記(1938年4月7日~1940年9月8日)」があります。これは、『朝永振一郎著作集 別巻2』(みすず書房 1985年)で読むことができます。

   

 朝永さんはノーベル物理学賞を受賞されましたが、私が興味を持ったのはそのことではなく、最初は、1969年に東京教育大学の露文科を受験したいと思った頃の学長だったからです。実際には私は受験できませんでしたし、そのころ学長は朝永さんから同じ物理学者の宮島龍興さんに交代になっていたと思いますが、その後も、自分とは異なる分野の研究者としてずっと関心を持ち続けてきました。
 
(3)朝永さんの日記は短いもので、事実上日中戦争中の、ドイツのライプツィヒでの滞在日記です。これを読むと、30歳代の朝永さんの生活のようすや研究上の悩みなどがわかりますし、古いライプツィヒのようすがわかります。関連するものとして、森鴎外『独逸日記』もありますが、こちらは「文学」で、いくらか脚色があるようです。
 わたしは、朝永さんの滞在の40年後に約1年をライプツイヒで過ごしましたから、上のことを知って、親近感も一入で、著作集はほとんど読みました。なかでも、随想集「鳥獣戯画」(『朝永振一郎著作集1』)は興味深く、またこの中にも「日記抄」として「滞独日記・帰船日記・目白日記」が収められていますから、ずいぶん読みました。また『回想の朝永振一郎』は、なんと英語版まで買っています。
 朝永さんのものは、著作集だけでなく、編者として名前が付いている『物理学読本』、お父さんの文学者朝永三十郎氏のもの〔目下所在不明〕まで読みました。
 できれば、死ぬまでに朝永さんの『量子物理学』を読みたいと思ってきましたが、だんだん実現が難しくなっているのを感じます。

  

(4)まだ、20代の若いころ、友人を訪ねて中央線の武蔵境駅で降りて、南の方へ向かって住宅街を尋ね尋ね歩いて行ってふと旧家の背の低い門柱を見ると、そこに「朝永振一郎」の表札があり、驚いたことがあります。

(5)「滞独日記」11月22日の項(『鳥獣戯画』272ページ所収)には、先生である仁科芳雄さんから返事のことが書かれていますが、これは、皆さんにも直にお読みいただきたいと思います。私の「座右の銘」でもあります。
 これについては、思うことがありすぎて、なかなか書けません。
 今日はここで。

  
   キンギョソウ
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