神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.238 山田盛太郎

2024-07-21 22:47:28 | 先行研究

     
      きょうの西の空

(1)「きょうも少し雨が降ってくれるように」と願っていましたが、きれいに晴れました。
 温暖化や戦争など何も懸念されることがなければ、きれいな夕焼けで、あすに思いを馳せるにうってつけの平穏な夏の夕べというところでした。

(2)しかし、現実は次の通りです。
  平和憲法の下 防衛予算を倍加させ 軍需で成長をいうまでになったニッポン 
 これが、財政学をやってきたものとして訴えたい現実です。
 すでに、川崎重工が、裏金を造って自衛隊員を接待したとして癒着が問題化していますし、一方、自衛隊では、手当の不正受給や、「特定秘密」の管理について不正管理があったとして218人が処分を受ける事態が発生しています。
 いまからでも間に合います。なんとか、安倍政権が閣議決定をした2014年の前の状態に戻せれば、より平和な日本を取り戻すことができます。せめてそこまで、そう願っています。
 きょうは、そんなことを思いながらバイデン〔走るマネ〕をしていると、雲が見えました。

(3)バイデン中だったのせいか、写真の雲が「鮎の塩焼き」のように見えました。
 ちょっとムリがありますか? 
 でも、まあ、食べたいと思えばそう見えますよ。
 ともかく、それは主観の問題ですが、おなかのところを白い雲が貫通しています。
     

  
(4)それからしばらくして、雲の位置の関係で夕焼けが薄くなって、雲が分解しだしました。すると、貫通している白い雲の向こう側が鮮明になりました。
     

(5)それからしばらくして、さらに雲が分解し、夕焼けが戻り、白い雲がより鮮明になりました。 
   

 飛行機雲でもないのに、雲の間を雲が貫通しています。
 不思議ですねぇ、ロマンですねぇ!
  天つ風 雲の通い路ふきとぢよ 鮎〔をとめ〕の姿しばしとどめむ (僧正遍照)

【コレクション 27】
(1)きょうは、「山田盛太郎著作集」です。
    
 
 山田盛太郎さんは、No.233で取り上げた「日本資本主義発達史講座」の編輯者4人のうちの1人で、『日本資本主義分析』や『再生産過程表式分析序論』の著者として、日本経済史や再生産論の分野の先駆者として有名な人です。
 明治30(1897)年1月に愛知県に生まれ、昭和55(1980)年12月83歳でなくなりました。

(2)パンフレットは、B5判大で、表紙とも6㌻です。その体裁は、横長の用紙を3等分して、最初に左から3分の1を谷折りし、次に右から3分の1を谷折りすると出来上がります。  
 構成は、 
  1㌻ 上掲 
  2㌻右半分 肖像〔右写真】 
                       
        岩波書店「刊行のことば」
  2㌻左半分~3㌻ 上3分の2 推薦文
        大塚久雄(東京大学名誉教授) 一時代を画した業績
        置塩信雄(神戸大学教授) 手がたい実証と清冽な論理
        大石嘉一郎(東京大学教授) 日本の社会科学に絶大な示唆
        小倉武一(日本銀行政策委員会委員) 山田盛太郎先生と私
    同 下3分の1 山田盛太郎先生略年譜〔下に掲載〕      
 
  4㌻上3分の2 第1~5巻内容
  同 下3分の1 別巻内容 
          八高時代の集合写真
  六㌻ 右半分 編集にあたって
  同  左半分 講義ノート写真 本著作の特色
 
(3)この著作集の意義は、やはり、ほとんど入手困難になっていた山田さんの著作を読めるようになったことです。
 私が学生だった1970年代初頭には『日本資本主義分析』(岩波書店、定価600円、学生のアルバイト時給250円)がありました。手元ものは昭和46(1971)年9月刊行のものです。その後、1977年9月に岩波文庫版が400円で刊行されました。
 しかし、このほかは、当時はまだコピー普及してなくて、古本屋に出ても高価で手が出せず、図書館で借りてノートを作るより他に方法はありませんでした。

(4)上の年譜にあるように、山田さんは昭和6(1931)年に『再生産過程表式分析序論』(改造社)を書き、その後、それに基づいて昭和9(1934)年に『日本資本主義分析』を書きました。
    

 ところが、『分析』と略称される『日本資本主義分析』は、戦時中の検閲官も手が付けられなかったのではないかと思われるほどの難解のものでした。(『分析』は図書館でご覧ください。)
 私もノートを取りながら読みました。読むと、難解とはいえ、なんとなくはわかったような気がします。しかし、どうもよくわからない。それでまた読み直すと、やはり同じ感想・・・ということを繰り返して、とにかく読んだというのが実情でした。
 これは、皆さん同じようで、たとえば、中村政則(一橋大学)「山田盛太郎先生に学ぶ」(『図書』第411号、岩波書店、1983年11月)を読むと、回顧談も含めていろいろと書いておられます。(この紹介は今できません。図書館でお読みください。)
 それから、山田『分析』について書いたもので、気が付いたものに、次のものがあります。
 不破哲三『『資本論』全3部を読む 第5冊』(新日本出版社、2004年2月)198~208㌻です。(これも図書館でお読みください。)
 そのほか、いろいろの人の苦労談を読み・聴きして、わたしも一応の理解にこぎつけたわけですが、要するに、マルクスが『資本論』第2巻で解明した再生産(生産手段生産部門と消費手段生産部門がどう結びついているか)の「型」が各国の産業資本の確立期に出来上がると、その「型」が各国の資本主義を特徴づけ、その後の発展の制限ともなっていくというものです。
 だいぶ長くなりました。きょうはここまでとし、別の機会にいくらか補いをつけることにします。では。

    
 

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No.237 岩を割る木 

2024-07-20 23:16:44 | 時評
 

(1)きょうのニュースで、魚介類が捕れない、育たない、と報じてました。
 イカの漁獲が以前の16分の1程度、それも格段に小さい。ホヤは、以前は大人の男性の握りこぶしくらいあったが、捕れたのはその3分の2くらいしかない。もどりガツオがもう捕れた。しかも油ののりがもうかなり良い。などなど・・・。
 去年、スーパーで秋刀魚を探したところ、見つかりませんでした。時期なのになぜないのかと思ってよく見たところ、いわしの大きめに見えたのが秋刀魚でした。あまりの小ささに驚いて、かわいそうで買うのをやめました。
 漁師が言ってました。「魚が捕れないから、職を探さなければならない」と。

(2)温暖化で、シベリアの凍土が解けています。氷河・氷山が年々痩せていってます。こういうことが続くと、冷たい水が暖かい水の下に潜り込んで水を攪拌し循環させる機能が低下するので、海水の汚染の原因にもなるそうです。
 こういう例として、日本では、琵琶湖の例が報告されています。
 琵琶湖では、北の山地に降った雪が解けて流入し、それが湖水の下層に潜り込んで湖水の攪拌作用をするため水がきれいに保たれているのだそうです。近年は雪解け水の流入が減少したためにヘドロがたまりやすくなっているとする研究報告番組も見ました。

(3)温暖化にしても、核問題にしても、日本は対応が遅れています。遅れているどころか、2014年の安倍内閣の閣議決定項、ますます防衛予算(軍事費)を増額して、アメリと一体となって戦争をできる国になるように強化されています。
 こういうことは、多くの国民はわかっていて、たとえば、自衛隊員の応募者は2012年には11万4000人いたのが、22年は8万人を割り、23年は7万人を割り込みました。また、隊員数は、定員24万7000人に対して22万3500人ほどで、充足率は90%、10%不足です。ところが、最前線で戦闘する兵士である「士」はもっと少なく、充足率68%で、32%不足です。
 先日も書きましたが、市役所などが高卒者の名簿を自衛隊に渡すなどはこういう事情が背景にあるわけです。そうすると、憲法上ないはずの軍隊ができて、現に予算も倍増化して強化される方向ですから、この先に徴兵がないとは言えません。
 平和憲法を持つ国ですから、日本こそ世界に先駆けて当面の問題の解決に貢献できる国であってほしいと思います。それには、まずそういう人を国民の代表する必要がありますが、日本も、世界も、まずそういうことに最も不適格と思われる人が選ばれているように見えます。ほんとうに悩ましい。

【コレクション 26】
きょうは、「岩を割る木」です。
    
      青梅市三室山
     〽ま~け~て~なるか~よ くじけちゃならぬ~

 これは、青梅市の三室山で見たものです。No.196で日ノ出山の地図を載せました。三室山はあの地図には載っていませんが、地図のすぐ東〔右〕方向にあります。
 日ノ出山に上って、その帰りに寄るのが都合よいかもしれませんが、この三室山だけを目指すのもおススメです。それには、青梅線の二俣尾駅から入ると、1時間半で上がれます。途中には、「展望台」と名付けられたビュー・ポイント〔見晴らしの良い処〕がありますし、大きな愛宕神社がありますから、そこで少し長めに休んでも、2時間あれば、十分たどることができるでしょう。
 なお、日ノ出山から来た人が三室山へ行くには、わずかに左方向に迂回するように辿ることになります。そのためメンドウと思うのか、あるいは、通る人が少ないために道が細くなるので、下を通り過ぎてしまう人が多いようです。所要時間はゆっくりでも5~10分くらいのものです。ぜひどうぞ。
 きょうはこの辺で。

    

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No.236 アンナ

2024-07-20 00:49:55 | 追憶

    北桔橋門脇

(1)きょうは宮内公文書館へ閲覧に行ってきました。
 この間、『例規録』という御料局(のち帝室林野局)内の制度・職員規定・会計手続きなどに関する文書の閲覧をしてきましたが、きょうようやく一覧し終りました。
 『御料局測量課長 神足勝記日記』(J-FIC)にも書きましたが、皇室財産というのは(ここでは宮殿とか離宮などのことでなく、御料地・御料林といわれている収益用の財産のことですが)、「皇室費の不足を補うために当時の官有財産・官有地から編入・設定されたもの」です。ですから、私は皇室財産のことを「皇室費を補完する官有財産」と呼んでいます。これには、のちには有価証券(国債・株券・社債券など)を編入し・買い入れして収益を図ります。つまり、片足は「金融資産による収益」において利殖を図り、もう一方の足は御料地経営に置いて収益を図りました。そして、御料地という場合に、原野や農地などもあり、その一部は貸し付けと払い下げをしましたが、大半は山林経営などで、それは、皇室財産とか宮内省とかいうと、何か国営事業のような印象を持たれるけれども、その実態は、成り立っていればよいという程度の経営ではなく、年々相当額の収益を求められた経営(今いうところの「ものをいう株主」がいる経営のさきがけ)で、しかもほかの一般企業に伍しての資本主義的経営をせざるを得なかったわけですから、その側面を突き詰めてみることが必要なはずです。 
 これについてまだ十分な解明がありませんから、その性格規定は今後の研究と解明によって変わる可能性がありますけれども、ともかく、その経営実態を資本としてを見てみる。御料局(帝室林野局)の事業を資本主義に即応すべく努力している過程とみて解明を図ってみる。これが当面のネライです。
 もちろん、天皇・宮内省という看板を背負っていますから、当時の財閥などとは違う側面を示すことが多々あります。しかし、まずは経営実態を見てみる。周りが資本主義経営をやっているときに、殿様経営では追いつかない・伍していけない、そこに御料局の持つ特殊性が見えてくるはずだ、というのが主眼です。
 その場合に、その特徴がどこに見えて来るかといえば、やはり制度面、これが差し当たりの焦点です。そして、その点についての文書を考えるなら『例規録』は重要な簿冊です。きょう、その一覧が終り、ようやく全体を視野に入れて考える準備作業ができたことになります。 
 民間企業と違う事業分析のネックが押さえられたというわけです。まだまだ、これからですが・・・。
 
【コレクション 25】
 きょうは、アンナです。
   
    アンナ 船越保武作 1970年
    水沢市 高野長英記念館所蔵

 これは、長崎の聖人像などで有名な船越保武氏の作品です。
 岩手県北上市の南西方向に遠谷幅〔とおやはば〕御料地ほかの小さな御料地がありました。
 旧御料地までは鉄道から少し離れているので、夏と冬の2回立ち寄りました。
 このうち、夏はミニサイクルを曳いて山奥の夏油〔げとう〕温泉まで遠足しました。また、冬は、冬も雪の中を途中まで行きましたが途中で止めて、水沢市にある高野長英記念館に行きました。Z項で知られた木村栄記念館や齋藤実記念館にも足を延ばしましたが、お目当ては高野長英でした。
 記念館に入るとすぐのところに上掲の像がありました。なんだろうと見ると、船越保武作とありましたから感動しましたが、高野長英との関わりはよくわからず、少し違和感を覚えながらの観覧となり、高野長英の印象が薄くなってしまいました。

 ちょっと話が変わりますが、アンナというと、むかし父の蔵書に『ペスタロッチにふさわしき妻アンナ』という本があったのを思い出します。
 父は、玉川大学の通信教育で小学校の教員免許を取得しようしたことがありました。そのために、朝4時起きをして新町駅(現群馬県高崎市)まで自転車を4kmこいで、それから東京の小田急線玉川学園まで通いましたが、その当時はまだSLで、片道4~5時間かけての通学には体がもたなかったのか、諦めたようです。
 しかし、玉川大学の小原国芳の教育理念である「全人教育」に多少共鳴したようで、関係する本が本箱にありました。『ペスタロッチにふさわしき妻アンナ』はその一冊だったのでしょう。不思議なタイトルの本だと思いながら、開いて見た日のことを思い出しした。
 では、ここで。

 
  クコ
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No.235 大塚金之助

2024-07-18 21:34:11 | 文書・文献
 きょうは13時からNHKBSで映画『敦煌』を見ました。壮大なドラマと思いました。
 しかし、中国映画を観たときに感じる「雄大さ」や「時間の長さ」の違い、これは文化の違いからいってある意味で「退屈さ」にもなりかねないものですが、それが感じられず、よくいえばテンポがよい、逆に言えば少し軽いと思われました

【コレクション 24】
(1)さて、きのう果たせなかった「大塚金之助著作集」のパンフレットの紹介にさっそく入ります。次のものです。
   

 これは、ムリすれば「格調高いパンフレット」ということも可能かもしれませんが、ちょっと殺風景ですね。2ページ目に写真がありますから、それを紹介しましょう。
   

 いい写真ですね。これで行けます。
 大塚金之助先生は、No.233で紹介した『日本資本主義発達史講座』の刊行に携わった4人のうちの一人です。その関係でお名前は当時の学生にも知られていました。しかし、先生は、明治25(1892)年5月生まれで、1977年5月に85歳で亡くなられてしまいましたから、1977年に大学院に入学した私は、お会いする機会がありませんでした。
 もっとも、先生があと2~3年長く存命であったなら、直接お会いする機会があったかもしれません。これは、大塚先生が昭和49年から日本・ドイツ民主共和国友好協会の会長をされていて、大塚先生亡き後、恩師の宇佐美誠次郎先生が会長をされましたので、その関係から、私もお会いできる可能性は十分ありました。

(2)パンフレットは、B5判大、表紙とも12㌻です。構成は次のようになっています。
 1・2㌻ 上掲 表紙 写真
 3㌻ 岩波書店 刊行のことば 
 4㌻ 都築忠七 編集にあたって
 5㌻ 増田四郎 一貫して時流におもねぬきびしさ
    杉原四郎 抵抗としての集書と珠玉の文章
 6㌻ 千田是也 人間の生存の土台をきわめる
    長洲一二 真実と人間解放への情熱
 7㌻ 寸描 佐々弘雄 同時代人たち
       伊藤 整 小説「破綻」から
       久保田正文 歌人・大塚金之助
 7~9㌻ 上3分の2に 全10巻の内容
      下3分の1に 大塚金之助先生略年譜
 10㌻ 組見本
 11㌻ 上3分の2に 大塚先生の写真
     下3分の1に 特色
 12㌻ 装丁見本
     刊行案内 四六判 約500㌻ 価格4600~5000円
          1980年5月から隔月配本。
 
(3)上記の推薦者のどれもここに紹介したいほどのものですが、大塚先生の教えを受けたという増田四郎さんの推薦文の一部を紹介します。
「永遠の青年のような純粋さと情熱をもって、学問と思想の自由をまもり、受難の一時期にも屈せず黙々と喪われゆく貴重な資料・文献の蒐集・渉猟につとめられた大塚先生の生き方は、同じ社会科学の研究に従事する私たちにとって、到底追随を許さぬ大きな驚異である。世に問われた著作は、その分量において必ずしも多いとはいえないが、社会思想史や文献解題についての珠玉の業績をはじめ、多方面に亘っての見のがすことのできぬ文章の随所に、にじみ出ている先生の基本的な姿勢は、一貫して時流におもねぬきびしさと、底知れぬ温かいヒューマニズムであったように思われてならない。」

 大塚先生は、治安維持法によって13年間の獄中生活を強いられました。そういう不当なことに屈しない強い信念に貫かれていたことはほかの推薦者も多かれ少なかれ述べています。そのことも含めて、大塚先生の人柄については、全10巻の解説者も至る所で述べています。ぜひ、そちらを読んでいただきたいと思います。
 私は、当時のドイツ民主共和国のライプツィヒ市にあったカール・マルクス大学(現ライプツィヒ大学)に留学しましたから、その縁で『大塚金之助著作集』の刊行を待って順々に拝読しました。もう40年前のことになりますが、本当に新鮮でした。

(4)それから、大塚先生のものでは、この著作集の第7巻にあたる『ある社会科学者の遍歴』も単独で出ています。これは比較的知られたものですので、読まれた方も多いと思います。


(5)さらに、本著作集第9巻と重なりますが、大塚先生は歌人で、アララギ派に属して島木赤彦の指導を受けた時期もありました。それに関しての歌集を出版されたことがあるようですが、いま手元に次の歌集があります。これは歌集の箱です。すこしでも読めるように、できるだけ大きくしておきます。
   
     新評論 1979年5月刊。四六判。365㌻。
 
 この中から、2つ紹介しましょう。
 まず、 
    あのやさしい
    天皇の名において
    13年、
    ぼくが追放されたとは
    信じられまい。

 ほんとうにそうです。
 もう一つ、
    鉄窓で見おぼえのある
    秩父連邦の
    斜面にひかる雪はなつかしい。

 どこの辺りが見えたのでしょうか。
 
 このほかの業績として、マーシャルの『経済学原理』4巻(改造社、昭和3(1928)年)などもありますが、こちらは興味ある方はどうぞ。
 きょうはここまでにします。 

    

  
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No.234 中神書林

2024-07-18 00:11:19 | あそび
(1)きょうは、3時まで少し詰めて作業をして、陽が射してきたのでパっと散歩に出ました。行先はやはり多摩川です。
 天気が思わしくないときは、古本屋へ行くのがいちばんいいのですけど、この付近の古本屋はかれこれ10年近く前までは「中神書林」という個性ある店がありましたが、店主の高齢と、客層の少なさなどのため?、国立市の方へ移転してしまいました。
 この店は、最初は中神駅近くにありましたが、店舗がやや広く取れる東中神駅近くに移転して、書籍数も増え、入り易くなり、「くじら・ロード」という商店街の活性化に貢献しているように思われました。実際、「中神書林」の移転の頃から、「くじら・ロード」は、櫛の歯が欠けるように店を閉めるところが目立って、シャッター街になってしまいました。本当の理由はわかりませんが、ともかく私の散歩コースがなくなったことは確かです。
 コロナ蔓延の前までは、「中神書林」と検索してネットに出品されたものを見ていましたが、最近はうすっかり疎遠になってしまいました。もしまだやっていれば、おもしろい本が安く手にはいりますから、ヒマなときに検索してみてください。

(2)多摩川の八高線脇に到着して、川べりに行くと、もう完全に夏草の蔽われていました。でも、残念なことに、陽が陰ってしまい、蒸し暑いばかりになってしまいました。どうもこのころ、私は降られませんでしたが、昭島駅に近い方は一雨あったようです。
 しばらくすると、また西の方が明るくなってきたので、そっちに向かって遡上することにしました。
 拝島橋を越えて、さらに上流の睦橋の方まで行きましたが、ここ1週間ほどの間に、前に咲いていた花は終わり、代わりに、一面にこんもりと夏草が生い茂る中にオレンジ色のユリがところどころに群生してあざやかでした。

(3)どうも今日はパソコンの動きがよくありません。すぐに固まってしまいます。
 ここで予定を変更して、いくらか写真を載せておきますから、ご覧ください。

(4)「藪の中」です。
 1.ユリ
    
 2.ユリ
    
 3.ユウガオ?
    
 4.バッタ
    
 
(4)18時頃、帰りの道で見えた夕陽です。刻々と変わっていくようすを撮っていると、通った女性も立ち止まって見入っていました。
 もう梅雨が明けます。そしたら、どこかまた山に上がる予定です。 
   

(5)付録。
 1.?
    
 2.


 いろいろな姿で咲く「ゆり」を見ますが、少し高い崖のようなところから覆いかぶさるようにして咲く「やまゆり」はいいですね。
 しかし、そんな理想的な咲き方をしているのは、山でいつも見られるわけではありません。 
 20年くらい前、奥多摩から小菅に廻って鶴峠から三頭山に上がった時に見たのが最後です。
 きょうはここで。
 
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