NPO法人 地域福祉協会

清掃事業  森林事業(植栽・剪定)

Secrets of LaSalette

2019-11-05 | 学術

Secrets of LaSalette


性別役割分担と社会秩序の必要性。

2019-11-05 | コラム

むかし

「非行少女の心理」という本があった。

 

 

その中で

非行に走る女子は

女性の伝統的なモデル

女性らしさを

深層心理において希求している

という指摘があった。

 

 

あるいは

暴力や虐待に至る心理として

愛情に飢え

愛情の確認作業とも言える

矛盾したアンビバレントな感情が

潜在している

との指摘があった。

 

 

 

神や親との関係において

愛情を確認出来ない近代人が

 

寂しさを埋めるために

原初的で粗野な攻撃性を

露わにする一方で

伝統的な価値、生きる型を求めているのだ。

 

 

暴力や権力により

人を支配しようとする原始の情動は

 

縦社会の人間関係

長上、年長者、親、父への尊敬と従順という

徳や権威の欠落により顕在した

野蛮な行動原理である。

 

 

つまり

社会秩序と人間の根源的な欲求の実現のために

ジェンダーはフリーであってはならぬし

家父長制の社会は必要なのだ。

 

 

しかし

人間の本質的な平等と

社会的な秩序の存在は

矛盾しない。

 

 

 

あくまで

社会の合理的運用として

父権社会が

合目的的に構成されているだけである。

 

 

 

何れにせよ

性別役割分担は必要であるし

男らしさや

女らしさは

大切な徳目である。

 

 

 

言うまでもなく

これは私説に過ぎないので

政府、自治体の政策

学者、論客

身近ないかなる人々にも

押し付けることはしない。

 

 

 

ただ

表現の不自由展問題以降

 

私的に

自らの信条と思想を露わにすることの

重要性を再確認しただけであり

 

私の説が

現代人の多くから

ウルトラコンサバ

反動保守

超保守主義と映るであろうことは

承知の上である。

 

 

 

 

 

高橋記(ウルトラ・コンサバティブ)


活動の記録。

2019-11-05 | 報告

日時:11月5日

内容:総務的な業務。研究と思索。

 

 

感想:

一見して

だらな主張を繰り返している

このブログの言論活動は

 

東アジアの友好

ユダヤ人の解放

世界平和への一里塚であります。

 

 

 

それは

遠大なる迂直の計であり

諸葛亮以上の

国家の経綸であります。

 

 

おわり

 

 

高橋記(だらなブログ、略してだらブロ)


近代国家の終焉。

2019-11-05 | コラム

近代国家は

徴兵と国軍の常設を常とし

莫大な国家予算による

無意味な民生を行っている。

 

 

しかし

近代とそこから出現した

制度の終末を

予言する私は

 

近代国家と常設の国軍の必要性そのものに

違和感を表明する。

 

 

むかしの封建領主

豪族的な王権の併立という邦

一朝有事の義勇兵であるところの

ボランティア(農民)武士で良い。

 

 

私は

市町村という小教区にとって替わった

世俗的な区画にすら

違和感がある。

 

 

言うまでもなく

国家が

教育を独占する公教育や

大規模な工業プロレタリアを産出する国家独占資本主義や

 

君臨して統治しない王座などには

全くシンパシーが湧かない。

 

 

私は

単純に

往古のフランク王国

古代の推古女帝の栄華を

復活したいのだ。

 

 

国家の経営は

企業や公益法人のそれに準ずればよい。

 

 

何れにせよ

戦後憲法の第9条を改正して

国軍にするといった

それ自身

絶対王制時代のコルベール的な

時代遅れ甚だしい感覚は

 

近代人の発想の

貧困を表すものである。

 

 

 

三島は

自衛隊の覚醒と

国軍化を企図したが

 

楯の会そのものが

軍隊式であり

 

東洋の伝統的な身体

柔らかいそれとは

異なり

 

硬直した近代的な身体であった。

 

 

 

その近代の発想と

行動様式そのものが

歴史に淘汰されるであろう。

 

 

 

おわり

 

 

 

高橋記(中世封建主義思想家)

 

 

 


伝統と世俗的な価値の相剋。-近代の超克論-

2019-11-05 | コラム

近代において

一群の哲学者は

認識主観の専横を許し

 

神と霊魂の存在論を

なきものにせんとした。

 

 

しかし

一般大衆のスピリチュアル的な嗜好

人生と事業の行き詰まり等の 

リアルな動機に依り

 

近代の認識論と存在論の主流そのものへの

懐疑的な論調が現れた。

 

 

 

ユダヤ人のなかには

伝統的なユダヤ教徒や

世俗的なシオニストや社会主義者が

混在している。

 

 

しかし

世俗的な営爲は

ユダヤ人の救済でなく

桎梏となり

 

ナチズム(国家社会主義)やコミュニズム(ロシア)

シオニズム(国民国家建設)は

ユダヤ同胞の救いには

繋がらなかった。

 

 

少なくとも

ユダヤ教の超保守派や伝統的な価値を堅持している人々の方が

 

世俗的なユダヤ覇道主義の諸形態より

 

ユダヤ人の本質理解と救いに近いはずだ。

 

 

 

そして

同様の事柄が

キリスト教やイスラム教の西アジア的な世界観や

東アジアの中華思想、儒教の中にも見られる。

 

 

伝統派、王道派と

覇道主義、事大主義の

大いなる違いである。

 

 

キリスト教の

超自然的な霊魂の救いが

 

いつの間にか

社会的な階級闘争や革命運動に成り果てるような

解放の神学。

 

 

聖君の顕現と徳治主義であったところの孔子の

思想が

いつしか

法家思想の如き硬直した道徳全体主義や

マルクスの共産主義に救いを求めるという

 

東アジアの転向と堕落。

 

 

静謐なる祈りと学究

素朴な遊牧民的な生活を捨て

石油メジャーと共に莫大な富を得て

 

いつしか宗教的救いを

軍事的なイスラム帝国建設へと

改変したイスラム原理主義の一部の人々。

 

 

そういった流れに

共通するのは

救いと理想実現を焦る

人間の弱さである。

 

 

つまり

いつか

神か神に近い偉大な聖人が現れ

世を救うだろうが

いつになっても神も聖人も現れない

というある種の諦念が

破滅的な世俗主義を出来(しゅったい)したのだ。

 

 

 

しかし

私は思う。

 

 

 

その諦めは

早すぎる。

 

 

そして

もう少し

様子を観る必要があるのだ。

 

 

 

 

 

 

高橋記


個人の自立と共依存の超克。

2019-11-05 | コラム

共依存は

アルコール依存の方を

世話する親御さんが

 

結局

依存者の自立や回復を

無意識に阻害しているという

現実に

端的に表れている。

 

 

 

この関係性は

親子、夫婦、カップル、友人

要支援・要介護者と介護職員といった

関係性の中に

見られる。

 

 

原因は

自らの自己肯定感、自己承認感の

低さに起因するため

 

解決策は

自己肯定感を高め

自己を承認することである。

 

 

そして

一旦

孤独を極めて

真の自立をすることが

肝要である。

 

 

 

よくよく考えれば

私自身も介護や福祉の仕事を選択したり

だめな子供であったり

仕事依存気味であったりしたので

 

やはり

共依存のようである。

 

 

結局

仕事や事業により

親や社会、行政の皆さん方に

誉めて欲しいという

秘められた願望が

自らの中に潜在していた。

 

 

しかし

自らが自らを

肯定し承認して

真の自立をする以外に

解決策はないように

思う。

 

 

 

 

人間は社会的生物なので

誰かと交流していないと

社会性が欠落するという

社会的コミュニケーションの神話がある。

 

 

あるいは

西洋近代個人主義は

孤独を増長させ

社会のまとまりを毀損するという

観念もあるかも知れぬ。

 

 

 

私自身は

プロテスタンティズムや近代哲学の

神学的、哲学的な個人主義には与しないが

 

良い意味での自立、自律的な生き方として

孤独を極め

楽しむ域に達する方が良いと思う。

 

 

 

よって

独り暮らしや

アローン人生を極めてから

適度な距離感をもった

人間関係を持つべきだろう。

 

 

 

何れにせよ

共依存の概念は

ほとんどの人々に

当てはまるものだと思うので

 

研究と思索を

薦める次第である。

 

 

 

おわり

 

 

 

 

高橋記(ケアマネ・介護福祉士)