NPO法人 地域福祉協会

清掃事業  森林事業(植栽・剪定)

近代資本主義の終焉。

2019-11-15 | コラム

近代資本主義の定義は

近代社会特有の

経済システム

 

大量生産、大量消費

金融業の肥大化

多国籍企業の世界支配

帝国主義的な世界戦争(死の商人)と分割統治

 

といった

主に18世紀以降の

世界経済システムの

あり方を示す。

 

 

日本においては

明治の殖産興業以降の経済社会であり

横山源之助がジャーナルした

非人間的な経済のことである。

 

 

今日

日本の大企業は

海外進出だの

国内何百店舗の展開などといった

拡大路線をとるか

 

孫さんの如く

莫大な富を

投資などといった博打、ギャンブルに興じて

悦に入っている。

 

 

孫さんの投資とは

博徒の丁半博打と同様のものであり

早晩

実業に回帰すべきである。

 

 

 

そして

公益財団法人を作り

本会に助成して頂くほうが

よっぽど社会貢献であり

本来の投資となる。

 

 

 

何れにせよ

ヒルファーディングの金融資本や

ラルフ・ミリバンドやコッツ

日本資本主義発達史講座や労農派といった

近代資本主義分析は

一理ある。

 

 

何故かといえば

マルクス主義は

マルクス自身の深奥の意図とは関係なく

 

フリーメイソンリー的な

形而上学と象徴の体系を有する

世俗的世界政府主義者の奥義から

照射、イルミネイトされた

プロトコルであるからだ。

 

 

そして

近代資本主義を脱するには

 

家内手工業

個人商店

八百屋

魚屋

駄菓子屋

大衆食堂を

 

復活させることが

最良の途であり

 

 

そのためには

大店法的な法律を改正し

 

政府、自治体が

産業構造を誘導せねばならぬ。

 

 

 

ハイエクやフリードマン

アダム・スミス

リカードの自由主義は

資本主義の基本綱領であったが

 

神のみ旨に従う経済活動だけが

神の見えざる手による救いをもたらす

という

当たり前の真理に立ち返るべきである。

 

 

アダム・スミスの経済倫理によって

自由放任経済や

民営化や民間主導なる謬説が流布したが

 

結局のところ

笑顔のファシズムと

古代奴隷社会が

顕現しただけである。

 

 

 

すなわち

フリーメイソンリーの形而上学は

古代エジプト王国のそれと同様のものであり

結果的に

現代経済社会は

古代奴隷王国に相似している。

 

 

何となれば

ピラミッドの建築に動員された奴隷と

今日

世界企業のもとで働く人々の奴隷的な労働に 

大差はないからである。

 

 

 

 

 

 

高橋記(研究分野:経済人類学)

 

 

 

 

 

 

 

 


活動の記録。

2019-11-15 | 報告

日時:11月15日

内容:清掃(経田駅前トイレ)。集金・トイレロール補充(経田公民館内・経田地区振興協議会様)。

 

 

感想:

私は

清掃中の黄色い看板を出して

清掃しております。

 

 

その際

一言声掛けをしないで用を足そうとする人や

足している人に

「ば、何しとらんよ。声掛けま」

ていったような文句を言うことがあります。

 

 

それは

清掃員に対する礼儀の必要を説くものであり

職業差別を逐次糾弾していく決意表明であります。

 

 

しかし

皆さんは

ややこしい働くおじさんに辟易し

変な顔で去っていかれます。

 

 

 

おわり

 

 

 

高橋記


Blessed Anne Catherine Emmerich on Purgatory

2019-11-15 | 学術

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The Miracle Of Our Lady Of Fatima (1952) – Blessed Mother's First Appearance

2019-11-15 | 映画

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主権、一般意思、民主政。 -その超克の途-

2019-11-15 | コラム

権力と権威

俗と聖

王座と祭壇に関する

すべてを決定する権利を

主権と定義するなら

 

主権は

教皇座にも

国王にも

国民にも

持たせてはならぬ危険な剣である。

 

 

 

よって

主権国家

国民主権

教皇主権なる概念は

永遠の相の下に捨て去るべきだ。

 

 

 

チェーザルのものはチェーザルに

神のものは神に

という大原則に回帰すべきである。

 

 

聖と俗を分けること

政教分離である。

 

 

ときに

現在の世界において

民主主義という政治哲学が

世界の主流である。

 

 

そして

民衆の多数決原理に過ぎない

一般意思の理論が

 

結果として

ナチズムや戦前の日本を

招来した事実を

忘れている。

 

 

 

ワイマール体制や大正デモクラシーが

その歴史的必然として

全体主義と軍国主義を惹起したし

 

 

今の

多数派世論とデモという数の暴力

一般意思を体現する政党の

専横は

 

全て

民主主義という意思決定システム

一般意思を最高絶対の意思とする

謬説の帰結である。

 

 

人間の知性には

相対的な差異があり

 

東大法学部から

官庁に行かれる天才がいる一方

 

私の如く

富山中部高校に行きながら

天才の圧倒的学力に愕然とし

落ちこぼれて

転落人生劇場となるだらもいる。

 

 

 

つまり

一般大衆は

知的なエリート層に

国の運営を任せ

自らの作業、業務に勤めればよいのだ。

 

 

 

 

政治や行政の素人が

多数決で政治を運営すれば

古代ギリシャの都市国家の

如く衆愚政治となって

滅び去るのである。

 

 

 

プラトンは

君主政、共和政、民主政を

比較して

民主政が一番だめな政体であるとした。

 

 

 

しかし

なぜ

近代に

その一番愚かな政体をチョイスしたのか。

 

 

 

 

それは

前提として

民百姓が

神から離れ

魂と知性に雲りが生じていたからだ。

 

 

世を導かねばならぬ

学者や政治家や官僚

宗教家、経世家

憂国の処士

草莽から崛起するばかものが

いないからだ。

 

 

 

何れにせよ

餅屋は餅屋であり

専門家に任せる必要がある。

 

 

 

その意味で

社会的平等を追求してきた

近代と

 

その政治的システムとしての民主政と

一般意思の理論と

主権という概念は

 

早晩

超克すべきテーマである。

 

 

 

 

 

 

高橋記(新たな草莽崛起論)