第一回論語塾-伊藤仁斎とはだれか、古学(古義学)とは何か
桃山晴衣の梁塵秘抄/南宮の宮には Harue Momoym/ Ryojin-hisho
私は
昔から
社会変革の理論と実践としての
近代社会主義の諸相には
違和感しか感じなかった。
単純に
マルクスの共産党宣言における
品のない
粗野で
暴力革命を唱える文章が
全く私の嗜好と合わない。
また
現実の中南米、アジア、アフリカ
ロシア、ヨーロッパのフェビアン社会主義
社会民主主義、共産主義の国家が
単なる全体主義
独裁国家
文字通り
国家社会主義(ナチズム)そのもので
あったことは
その理論が誤謬命題である証拠である。
日本人は
往々にして
マルクス主義やその修正主義の社会主義を
社会的な弱者救済の福音と
捉えているようだ。
しかし
社会主義は
ユダヤ教やキリスト教の
救済論、終末論、歴史観の
世俗的解釈
神なき社会変革の迷妄に過ぎない。
よって
プロテスタントのキリスト教社会主義
カトリックの解放の神学などという
誤った理論が
神学的に現れるのである。
しかし
社会主義の出現には
人間そのものが
陥りやすい
普遍的な問題が含まれている。
プラトンの哲人国家を
世俗的に解釈した
独裁国家、イルミナティーの世界国家論。
孔孟の聖人国家を
現実に為し遂げようと焦った
一党独裁論の中国。
ユダヤ人のメシア到来を待ちきれずに
勝手に
国家を造ったシオニズム。
神仏の力を信じきれず
神社仏閣を蔑ろにし
聖体とマリア様、公共の祈り(典礼)と私的な祈り(ロザリオ)を軽んじて
ただ
世俗的活動や事業に邁進するものの
中国や韓国に経済は追い越され
人心は荒廃して
国の体を成していない
この国。
すなわち
社会主義とは
近代個人主義による
孤独な群衆を糾合して
共同体をつくり
弱者のアジールを包含する
救いの福音ではない。
社会主義とは
人間の力だけで
良い社会を造りあげることが出来るという
傲慢な近代人間中心主義(ヒューマニズム)の一つである。
そして
その人間の過信と思い上がり
近代の勘違いは
私の人生航路そのものの
過ちでもあり
多くの現代人の過ちでもあろう。
右翼や左翼人の中には
純粋な理想主義者が
わずかながら残存していることは
認める。
しかし
もはや
そのような近代的メンタリティーでは
この世界の窮状には
対応出来ないのである。
個人と集団の意識と無意識から
グラジュアルに
変革の風を吹かせるのが
賢明である。
完
高橋記(研究テーマ:近代の超克論)