songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

松田聖子さん6~声が変わる時期と、スタッフ~

2007-04-01 20:03:31 | 音楽
書き忘れていましたが、今回のことは、http://oshiete1.goo.ne.jp/qa873942.htmlのところで述べたことをフォローしようとして、これほど壮大になってきてしまったものです。

君が代の頃よりも、気楽に書けますので。

さて、声が変わってしまった聖子さん。この頃、さらなる試練が待ち受けていました。大滝詠一さんとの出会いです。

それまでの経緯を述べておくと、まず80年は、作詞三浦徳子、作曲小田裕一郎、編曲信田かずおというラインナップが中心でした。ところが81年「チェリーブラッサム」で財津和夫さんを迎えたときから、いわゆる売れっ子ミュージシャンが制作に参入する形を取り始めました。

山下達郎さんと竹内まりやさんの夫婦放談によると、以前から聖子さんは松本隆さん作詞の「象牙海岸」(まりやさんの歌)がお気に入りで、ぜひ作詞してほしいと懇願していた(ありていに言えば駄々をこねていた)らしく、7月発売の「白いパラソル」で、ついにその夢を実現します。以後、長きに渡って、松本さんの歌詞が聖子さんの歌を支えます。

ただ、私は、三浦さんがここで消えたのが大変惜しくも思えます。
三浦さんの最後の曲となった「夏の扉」も名曲です。
そしてこの時に歌った聖子さんの歌い方で、私は度肝を抜かれたことがあります。

前々回、
>>歌とは、上手なだけではだめなのではないか、と、おぼろげながら感じ始めていた
と述べました。
もともとは「風は秋色」での、「泣き虫なのは…」の、色香を感じさせる歌い方の頃から考えていたのですが、「夏の扉」では、
「夏の扉をahaけーてー」と言う歌い方をしているのです。「あ」という、普通ならば母音として発音すべきところを、息だけしか出していない。

それが、ちょっと色っぽくて、かっこよくて、かわいい。

こういう歌い方は、誰かが教えてくれるはずがありません。全て、聖子さんの、表現者としての「勘」によるものでしょう。

…歌は、うまい、下手などと言うものを越えるかどうかが問題なのだと、ようやくわかってきました。
気持ちよくさせてくれるかどうかが、最大の問題なのです。もちろんその土台に確固とした歌唱力が求められるわけですけどね。
また、私の場合は男性なので、自分にとっては、女性歌手に対して、擬似恋愛的要素も加わってきたわけです。

だいぶ、話が飛びました。すみません。
大滝詠一さん。当時同じCBSソニー同志、「A LONG VACATION」が大ヒットしていまして、後々わたしも猛烈にのめりこむことになります。(ただしこれは山下達郎さん経由から)

大滝さんは私の尊敬する、大変すばらしいミュージシャンですが、聖子さんにとっては、出会った時期も、状態も最悪だったと言わざるを得ません。

大滝さんは、もともとスタジオで、徹底的に好みの音を作りこむ、無類の凝り性。
当時はフィル・スペクターサウンドを作っていましたから、これが病的なレベルにまでなります。演奏回数、録音回数が半端じゃない。

「風立ちぬ」はシングルですが、その時期、アルバム「風立ちぬ(同タイトル)」に入れる曲も半分は大滝さんの曲だったわけです。思うように声の出ない聖子さんにとって、81年後半は、どれほど厳しい時期であったか、想像するだけで恐ろしい。これが南野陽子さんだったら、大喧嘩していただろうな、と勝手に想像してしまいます。

とにかくこの時期の聖子さんは、見ているだけで胸が締め付けられるほど、つらい時期でした。
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松田聖子さん5~迷走の81、2年~

2007-04-01 16:55:38 | 音楽
サンミュージック所属ですから、山口百恵さんとは違うのですが、レコード会社が同じだったこと、ちょうど百恵さんが引退する時期であったことなどから、聖子さんはいつしか、「ポスト百恵」と呼ばれるようになりました。(そのほか、三原じゅん子さんなどもそう呼ばれた時期があったと思います。)桜田淳子さんを抱えていた所属事務所なのだから、皮肉なものですね。

私はそんなことには全く興味はなかったのですが、プロダクションなど、制作サイドは相当必死だったのでしょう。サンミュージックの相沢社長が昔、聖子さんについて、本の中で語っていたことを思い出します。

もともと聖子さんは80年当初、プロダクションとしては売り出したい歌手の2,3番手だったらしい。つまり、「イチオシ」扱いはされていなかったということですね。歌声はいいが、一番手ではない。聖子さん本人も、そういう扱いでデビューしていたのですから、心中はいかほどだったでしょう。その聖子さんは、社長に対して、「会社のためにがんばります。」と挨拶したのが第1声らしい。相沢さんは、「自分のことを主張するのではなく、会社のことから話し始める、非常に珍しい子だ」という印象を持たれたそうです。

でもその、同じ子が、「聖子さんとよしえ(柏原よしえ)ちゃんは、新人賞などでみんなが並ぶときには、こっそりと他の人を押しのけて真ん中に立っている。(笑)そのとき押しのけられるのは、たいてい(河合)奈保子さんと、私」(前述の三原じゅん子さん談)という、強引な目立ちたがり、よく言えば営業熱心な面も持っているから、デビュー当時から、身近な人たちにとっても、相当な存在感があったのではないかと想像されます。ちなみに、三原さんのお話は、大変に信憑性を感じます。三原さんや奈保子さんは、芸能人独特の強引さや、あくの強さを全く感じさせません。

で、聖子さんはラジオ2本(夢であえたら、一粒の青春)、グリコのCMなど、多くのところで百恵さんの後を引き継ぎました。

81年に渡る超過密スケジュールは、おそらく半年前には、想像もしていなかった事態だったことでしょう。全盛期の百恵さんと同じような、いや、それを上回るテレビでの露出が始まります。
その中で、最大の誤算が生じました。「映画出演」です。

私は聖子さんの音楽には猛烈に引き込まれていきましたが、一方で非常にさめた目も持っていました。「演技はやめたほうがいいんじゃないかな…。」
案の定、演技はとっても下手でした。そして、この時期聖子さんは、致命的な事態に陥ります。

声が出なくなったのです。81年4月から5月にかけてのことだと思います。

歌っていた曲は、「チェリーブラッサム」から「夏の扉」の時期。ベストテン番組には、ロケで、映画の撮影所から歌っていました。始めの1,2回は、「撮影で疲れているから、こういうこともあるだろう」と思っていましたが、いつまでたっても声が戻らない。ついに聖子さんの声は、この時を境に、二度とデビュー当時のパワフルな声を取り戻すことなく、現在に至ります。

私の悲嘆は、恨みにも近いものでした。日本の芸能界の、歌手の声を全く重視しないやくざな営業方針について、どこに怒鳴り込んだらよいのかわからないような猛烈な怒りを感じていました。でも、そんなこと、私が誰に話したって、わかってもらえるような話ではありませんでした。

だれか、聖子さんの声を返してくれ、と、いつも心の中で叫んでいた時期です。
ここから82年の5月ごろまでが、聖子さんの「迷走期」です。長くなりましたので、ページを移して語ります。
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