songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

松田聖子さん9~絶頂からマンネリ、ラジオの終了~

2007-04-08 21:28:35 | 音楽
「小麦色のマーメイド」は、第2期聖子さんの傑作だと思います。

とにかくサウンドがよい。リゾートの景色が見えてきそうな音の世界に、禅問答のような、凝縮された歌詞。
「うそよ、本気よ」「好きよ、嫌いよ」

これだけで全てを語ってしまう、完成度の高さ。そして、説得力のある歌いっぷり。
これは私の勝手な思い込みですが、「象牙海岸」(竹内まりやさん)を聴いて聖子さんがあこがれたという松本隆さんの世界が、この曲でついに具現されたのではないかと思うのです。

当時大ヒットした割には、「赤いスイートピー」ほどには現在評価されていないのが、私には疑問です。
その後も、松本さんは、数多くのすばらしい詩を提供するのですが…

この曲を超える名作がしばらく出なくなります。「野ばらのエチュード」「秘密の花園」、「天国のキッス」「ガラスの林檎」…どれも聖子さんの声の世界である程度のクオリティを保っていましたが、どうしても、マンネリの感は否めませんでした。

さらに、私を落胆させる出来事がありました。ラジオ番組「夢で逢えたら」「一粒の青春」の終了(83年)です。

特に「夢で逢えたら」の終了はショックでした。
はっきり言って、くだらない内容も多かったし、相変わらず聖子さんの演技は下手だったわけですが、番組としてのエンターテイナー性は、今から考えても相当高かったと思います。
オープニングの名アナウンス「ソニー。ナーイトスクエアー。」に続く、「only my love」、ロボスケとのバカ会話、ちょっとセンスのよい選曲、けっこう聞かせるショートショート、名曲「潮騒」に乗せてのクロージング。

構成がしっかりしており、アイドルらしい、夢を持たせる内容。今放送しても、十分聞き応えのある番組だったと思います。毎週の楽しみでもありました。

ちなみにこの半年ほどあと、聖子さんは新しい番組を違う時間帯で始めましたが、番組の質は、「夢であえたら」には遠く及ばないものでありました。ちなみに「夢であえたら」のあとも、しばらくソニーの番組は続きましたが、やはりどれも、遠く及んでいませんでした。

そんなこともあり、82年後半以降、聖子さんの輝きが、少しずつ失せていくように(少なくとも私には)感じられました。82年と言えば、後半からすごい勢いで中森明菜さんが売れてくるのを筆頭として、アイドルが量産された年です。新しい勢いに押されているようにさえ感じられました。

アルバムはと言えば、あいも変わらず売れっ子ミュージシャン戦略で、マンネリを感じずにはいられませんでした。

無謀な映画出演は続くし、音楽的にもワンパターンが感じられ始めるし、つまらないゴシップに振り回され、ちょっと将来が見えてこなくなった頃でした。聖子さんは、ある聞き慣れない作曲家の歌を好んで歌うようになります。そしてそれは、私の耳にもどうしても残ってしまう、「よい音」のクリエイターのように感じられました。

次の奇跡が待っていたのです。
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松田聖子さん8~誰が名づけたキャンディボイス~

2007-04-07 21:44:39 | 音楽
世間一般ではおそらく松田聖子の最大の名曲と評される「赤いスイートピー」が発売されたのは82年の初めです。いや、私も好きですが。
この頃になると、聖子さんは、自分のかつての声に挑んで「もがく」ということをしなくなったような印象があります。

「白いパラソル」「風立ちぬ」までは、今までの歌と同じく、「歌い上げ」に近いようなところを聴きどころとしていました。だから、ハイトーンのところでは、「出ていた」頃の聖子さんと比べてしまって、どうしても不満が残ってしまいました。しかし、「赤いスイートピー」は、それほど歌い上げないのです。

ひっそりと聴かせるところを大切にして、リスナーの近くに歩み寄り、語りかけるような歌です。でも、もともとの声のよい人でしたので、聴き心地がよい。もちろんユーミンの曲ですから、クオリティは高い!
ああ、聴いていて苦しくなくなってきたなあ、と感じていたところで発売されたのが、「渚のバルコニー」でした。

これもよい曲でしたが、私はこの曲が流行っていた時に、感動のあまり涙を流しそうになったことがあります。
シングルで録音されている「渚のバルコニー」はGメジャー、いわゆるト長調です。しばらく聖子さんはテレビで、その調のまま歌っていたのですが、あるとき、聖子さんは、これを半音高い調にして、きれいに歌ったのです。

歌い終わったあとの、聖子さんのさわやかな笑顔が今も忘れられません。この笑顔の意味がわかったファンは、きっと私一人ではなかったはずです。

聖子さんが、吹っ切れた瞬間だったのです。私には、「皆さんお待たせしました。声が、出るようになりました!」と報告してくれているように聴こえました。1年以上苦しめられてきた、声との格闘を克服した喜び。
…これが錯覚でなかったことは、この直後に発売されたアルバム「パイナップル」が証明してくれました。数多い聖子さんのアルバムの中でも、私はこれが最も優れたアルバムだと思っております。

このアルバムを聴いた従兄妹が、こんな感想を言いました。
「長時間聴いていても、耳が疲れない。聴き心地がいい。」
「声が涼しい。さわやか。」「声がかわいい。」

それは、私も同じ感想でした。アナログからデジタルに、音楽が変わる時代でもありました。「スコール」「ノースウィンド」はアナログの名作。1作1作は良品なのですが、情熱ゆえか、1枚聴き終わると、多少、疲れが残るのです。
「パイナップル」は、これから日本が向かうべき音楽の方向性を示した意味でも記念碑的なアルバムですが、何よりも、聖子さんの声が軽やかで、鈴を転がすような音色。なによりかわいらしいのです。

デビュー当時の声は、もう戻ることはありませんでした。しかしこの時聖子さんは、全く新しい発声法を自力で開発したのです。現在の聖子さんの声の基盤です。

後にこの声は、誰からともなく「キャンディボイス」と呼ばれるようになりました。直後に発売された「小麦色のマーメイド」を頂点として、聖子さんは第2の黄金期を迎えることとなります。
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松田聖子さん7~声変わりは、芸能人生の致命傷?~

2007-04-02 23:50:42 | 音楽
声が変わるということが、どれほど歌手にとって死活問題であることか。
何人かの例で思い出してみましょう。

1.フィンガー5
誰でも知っているあの大旋風。でも、裏ではずっと言われていたそうです。「あれはアキラの声が出ている間だから」
そのとおりになったわけで、アキラくんの声変わりとともに、実質的な活動は終わってしまいました。

2.安室奈美江さん
いや、今でも立派なシンガーです。ただ、あの当時の飛ぶ鳥を落とす勢いは、やっぱりあの声に支えられていたところが大きいわけで、「can you celeblate」の頃はかなり苦しかったことは、周知の事実。で、やっぱりあの頃が頂点となってしまった。

3.内田有紀さん
前者と比べてはいけないかもしれませんが、この人ほど、あの勢いが、声変わりと共にピタッと止まってしまった人も珍しい。今は、女優としていい活躍をしていらっしゃいますが。

このあたりは、明らかに声変わりが致命的だった人です。
これに対して、例えばELTなどは、よく持ったほうだと思うし、浜崎あゆみさんなどは、既にデビュー時のみずみずしい声「ではなくなった」時にブレイクしたので、何ともいえません。speedも、あの声が出なくなったことが多少は影響していると考えます。

聖子さんの場合、81年、声が出なくなってきたことは、明らかに歌手生命の危機でした。世間ではアイドルとして絶頂期に上りつつあるときでしたから、たとえ歌の質が落ちていったとしても、ある程度は余力で何とかなっていたかもしれません。でもあのままでは、彼女はきっと、「一過性のアイドル」で終わるはずの人でした。

しかし彼女は、この暗闇の時期を、自力で打開していきました。リアルタイムで聖子さんの音楽を聴いてきた自分にとっては、新たな驚きとの出会いとなりました。

82年、松任谷由実さんの参加、「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」「小麦色のマーメイド」3連発と、アルバム「パイナップル」発表です。

詳しくは次回述べますが、転んでもただでは起きない、現在の聖子さんを支える、キャンディーボイスの完成です。
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松田聖子さん6~声が変わる時期と、スタッフ~

2007-04-01 20:03:31 | 音楽
書き忘れていましたが、今回のことは、http://oshiete1.goo.ne.jp/qa873942.htmlのところで述べたことをフォローしようとして、これほど壮大になってきてしまったものです。

君が代の頃よりも、気楽に書けますので。

さて、声が変わってしまった聖子さん。この頃、さらなる試練が待ち受けていました。大滝詠一さんとの出会いです。

それまでの経緯を述べておくと、まず80年は、作詞三浦徳子、作曲小田裕一郎、編曲信田かずおというラインナップが中心でした。ところが81年「チェリーブラッサム」で財津和夫さんを迎えたときから、いわゆる売れっ子ミュージシャンが制作に参入する形を取り始めました。

山下達郎さんと竹内まりやさんの夫婦放談によると、以前から聖子さんは松本隆さん作詞の「象牙海岸」(まりやさんの歌)がお気に入りで、ぜひ作詞してほしいと懇願していた(ありていに言えば駄々をこねていた)らしく、7月発売の「白いパラソル」で、ついにその夢を実現します。以後、長きに渡って、松本さんの歌詞が聖子さんの歌を支えます。

ただ、私は、三浦さんがここで消えたのが大変惜しくも思えます。
三浦さんの最後の曲となった「夏の扉」も名曲です。
そしてこの時に歌った聖子さんの歌い方で、私は度肝を抜かれたことがあります。

前々回、
>>歌とは、上手なだけではだめなのではないか、と、おぼろげながら感じ始めていた
と述べました。
もともとは「風は秋色」での、「泣き虫なのは…」の、色香を感じさせる歌い方の頃から考えていたのですが、「夏の扉」では、
「夏の扉をahaけーてー」と言う歌い方をしているのです。「あ」という、普通ならば母音として発音すべきところを、息だけしか出していない。

それが、ちょっと色っぽくて、かっこよくて、かわいい。

こういう歌い方は、誰かが教えてくれるはずがありません。全て、聖子さんの、表現者としての「勘」によるものでしょう。

…歌は、うまい、下手などと言うものを越えるかどうかが問題なのだと、ようやくわかってきました。
気持ちよくさせてくれるかどうかが、最大の問題なのです。もちろんその土台に確固とした歌唱力が求められるわけですけどね。
また、私の場合は男性なので、自分にとっては、女性歌手に対して、擬似恋愛的要素も加わってきたわけです。

だいぶ、話が飛びました。すみません。
大滝詠一さん。当時同じCBSソニー同志、「A LONG VACATION」が大ヒットしていまして、後々わたしも猛烈にのめりこむことになります。(ただしこれは山下達郎さん経由から)

大滝さんは私の尊敬する、大変すばらしいミュージシャンですが、聖子さんにとっては、出会った時期も、状態も最悪だったと言わざるを得ません。

大滝さんは、もともとスタジオで、徹底的に好みの音を作りこむ、無類の凝り性。
当時はフィル・スペクターサウンドを作っていましたから、これが病的なレベルにまでなります。演奏回数、録音回数が半端じゃない。

「風立ちぬ」はシングルですが、その時期、アルバム「風立ちぬ(同タイトル)」に入れる曲も半分は大滝さんの曲だったわけです。思うように声の出ない聖子さんにとって、81年後半は、どれほど厳しい時期であったか、想像するだけで恐ろしい。これが南野陽子さんだったら、大喧嘩していただろうな、と勝手に想像してしまいます。

とにかくこの時期の聖子さんは、見ているだけで胸が締め付けられるほど、つらい時期でした。
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松田聖子さん5~迷走の81、2年~

2007-04-01 16:55:38 | 音楽
サンミュージック所属ですから、山口百恵さんとは違うのですが、レコード会社が同じだったこと、ちょうど百恵さんが引退する時期であったことなどから、聖子さんはいつしか、「ポスト百恵」と呼ばれるようになりました。(そのほか、三原じゅん子さんなどもそう呼ばれた時期があったと思います。)桜田淳子さんを抱えていた所属事務所なのだから、皮肉なものですね。

私はそんなことには全く興味はなかったのですが、プロダクションなど、制作サイドは相当必死だったのでしょう。サンミュージックの相沢社長が昔、聖子さんについて、本の中で語っていたことを思い出します。

もともと聖子さんは80年当初、プロダクションとしては売り出したい歌手の2,3番手だったらしい。つまり、「イチオシ」扱いはされていなかったということですね。歌声はいいが、一番手ではない。聖子さん本人も、そういう扱いでデビューしていたのですから、心中はいかほどだったでしょう。その聖子さんは、社長に対して、「会社のためにがんばります。」と挨拶したのが第1声らしい。相沢さんは、「自分のことを主張するのではなく、会社のことから話し始める、非常に珍しい子だ」という印象を持たれたそうです。

でもその、同じ子が、「聖子さんとよしえ(柏原よしえ)ちゃんは、新人賞などでみんなが並ぶときには、こっそりと他の人を押しのけて真ん中に立っている。(笑)そのとき押しのけられるのは、たいてい(河合)奈保子さんと、私」(前述の三原じゅん子さん談)という、強引な目立ちたがり、よく言えば営業熱心な面も持っているから、デビュー当時から、身近な人たちにとっても、相当な存在感があったのではないかと想像されます。ちなみに、三原さんのお話は、大変に信憑性を感じます。三原さんや奈保子さんは、芸能人独特の強引さや、あくの強さを全く感じさせません。

で、聖子さんはラジオ2本(夢であえたら、一粒の青春)、グリコのCMなど、多くのところで百恵さんの後を引き継ぎました。

81年に渡る超過密スケジュールは、おそらく半年前には、想像もしていなかった事態だったことでしょう。全盛期の百恵さんと同じような、いや、それを上回るテレビでの露出が始まります。
その中で、最大の誤算が生じました。「映画出演」です。

私は聖子さんの音楽には猛烈に引き込まれていきましたが、一方で非常にさめた目も持っていました。「演技はやめたほうがいいんじゃないかな…。」
案の定、演技はとっても下手でした。そして、この時期聖子さんは、致命的な事態に陥ります。

声が出なくなったのです。81年4月から5月にかけてのことだと思います。

歌っていた曲は、「チェリーブラッサム」から「夏の扉」の時期。ベストテン番組には、ロケで、映画の撮影所から歌っていました。始めの1,2回は、「撮影で疲れているから、こういうこともあるだろう」と思っていましたが、いつまでたっても声が戻らない。ついに聖子さんの声は、この時を境に、二度とデビュー当時のパワフルな声を取り戻すことなく、現在に至ります。

私の悲嘆は、恨みにも近いものでした。日本の芸能界の、歌手の声を全く重視しないやくざな営業方針について、どこに怒鳴り込んだらよいのかわからないような猛烈な怒りを感じていました。でも、そんなこと、私が誰に話したって、わかってもらえるような話ではありませんでした。

だれか、聖子さんの声を返してくれ、と、いつも心の中で叫んでいた時期です。
ここから82年の5月ごろまでが、聖子さんの「迷走期」です。長くなりましたので、ページを移して語ります。
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