森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

近日、公開原稿

2008年08月29日 23時56分34秒 | 過去ログ
前倒しして、Temiの原稿(巻頭言)を掲載します。
これを読む方と、会員は重複している方々も多いと思いますが、
どうぞ、発行された後もレイアウトされた原稿を再度目を通してもらえればと思います。

ほんの短い間の、30分ほどの兆速タイプでしたので、
幾分、修正すると思います。


これを読んで頂いている方々に先行ロードショーではなく、
先行掲載です。

原著論文でないからいいでしょう。
著作権も大丈夫ですし。


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信念を持つ自分、そして迷走する自分、それによって生まれる幸福

森岡  周(畿央大学)

人は自分の生きてきた道を肯定する傾向がある。歩んだ道が長ければ長いほどこの心情は強固になる。だれしも、自分の歩んできた道を否定されたくはない。ましてや、自分自身からもその道を否定されてしまえば、自分の経験は何であったのかと自暴自棄になる。だから、誰しも自分が歩んできた道を根本的には否定しない。否定したくはない。人はだれしもが認められたいと思う。これは大人の場合、他人にではなく自分が自分に認められたいという心情である。人は生まれてきてまもなくして、他人と出会う。他人から見られていることを感じる。生まれて間もない赤ちゃんは母の温かい眼差しに喜びを感じる。幼稚園の時に自転車に乗れた瞬間、父の微笑んだ表情に喜びを感じる。いつしか、その人から見られる喜びは、人に認められる喜びに変わる。そして、それは他人に認められるといった外のみを意識するのではなく、いつしかメタ的に自分自身に認められる(自分自身を認める)内への意識(報酬)へと変わる。だから、大人は自分自身の歩んだ生き方まで否定されるとそれは感情的になってしまう。

患者は自らの身体で生きてきた道を突然なる病気によって否定される瞬間に出会ってしまう。その心情は計り知れないし、今健康な身体を持っている私には、その心情を共感できるはずがない。なぜなら、その身体を生きていないからだ。その身体を生きているのは患者自身である。患者自身がベクトルを変え、その身体を全否定せず、その身体でどう感じ、どう生きるかを考える。そこからが人間復権のスタートになろう。

自分の生き方を否定されることは何も患者のみではない。セラピストも同じである。自分が習った事、自分が感じた経験、能動的に学習して生まれた信念、これらは、自分の一人称の経験から生まれたものであり、外の人からは決してすべてを推し量ることができない。他人ばかり気にせず、自分の信念を持つことは、受け売りのセラピーとならず、実にすばらしいことである。我が故郷の英雄である坂本龍馬は「世の人は 我を何とも言はば言へ 我なす事は我のみぞ知る」という言葉を残している。これは、「人がなんと言おうとも他人の意見に左右されてはいけない。自分のする事は、自分のみが知っているのだ。」という意味である。信念を持ち、情熱を持って事に接すれば、他人が何を言おうが関係ない。その信念を貫くだけの情熱と情報(論理的根拠)を更新しながら持ち続けることは、このカオスのようなリハビリテーション業界を生き抜くために必要なのかもしれない。

しかしである。その信念は時として、暴走し、秩序を乱す場合がある。信念は人に生まれる心である。心には物理的な法則などない。その信念のみでそれと違った信念を持つ他人に議論を吹っ掛けても、その相手は自らが生きてきた縄張りを侵されると思い、不快となる。全く知らない最近接領域にもならない用語を連発され、それがどのようなものであるかを予測できないと、反射のみでそれに対応(排除)しようとする。反射は運動のみならず、情動にも起こる。そういう神経メカニズムの知識を持ちえて、認知神経リハビリテーションを実践している人も、そんな自分にいつしか出会っていないであろうか。ここでも坂本龍馬のことば(これは「竜馬がゆく」で司馬遼太郎が着色したものであるが)を紹介しておきたい。「もし議論に勝ったとしても相手の名誉を奪うだけで、人の生き方は変えられない。」「相手を説得する場合には、激しい言葉をつかってはいけない。結局は恨まれるだけで物事は成就できない。」

先日、二年間闘病生活を続けた母親が亡くなった。その闘病時の医療体制において血気盛んな私は異論を唱えた。それは自らが生きてきた道を貫くためだ。三人称ではない母親の闘病は時に私から理性を大いに奪った。しかしながら、それが患者の家族の心情なのだろう。そういう立場になって初めて実感した。祖母の闘病生活にはそれは感じなかった。今振り返ってみると自分の選んだ道は正解なのだろうかと思うときがある。いや、闘病中もいつも自問自答した記憶がる。その激しい感情はネット上に公開し、時に第三者からいさめられることもしばしばあった。心が迷走したのである。本当に自分が選んだ道を母親は喜んだのだろうかと。ここでもくどいようだが、坂本龍馬のことばを引用したい。「『・・・しかない』というものは世の中にはない。人よりも一尺高いところから物事を見れば、道は常に幾通りもある」。事象を多面的、多角的に見る。そして、人の何倍もの書物・文献を読み、水準を変え続ける。迷走する心に出会うことは、時に自らの方向性を修正するためには大切である。一方、母親に対峙し、私に異論を唱えられた医師やセラピストはそのような波紋が生じることによって違った意識に出会えたのではないかと思う。波紋が生じない意識は生きていない。

人は自分が考えている以上に、想像を絶する位に、複雑である。迷う心を持ち続けること、それこそが未来を開拓していく心となるのではないかと思う。「これはこうだ」と決めつけてしまえば、それは科学ではないし、自分の成長を自身でブレーキをかけてしまうことになる。ましてや、教育の場面においては、コピーの生産となり、ファシズム的集団の形成となってしまう。認知神経リハビリテーションに携わっている人も知らぬ間にそれをしているかもしれない。歴史は繰り返されているように感じることもある。それを超える科学や理論に出会ったとき、それを喜ばしくも思う謙虚な精神を持ちえている人間は豊かである。冷静さを失えば、自らによってブレーキを踏み進展を止めてしまう。そのブレーキは自分には見えない。もうひとりの自分を作り、その彼/彼女が教えてあげるか、はたまた仲間が忠告してあげるか、その「ことば」こそが、人が人を幸福にさせる関係性であると思う。

人と人との関係性に物理的な正解はない。だからこそ、人の心は大きく揺らぎ、過去に経験したことのない揺らぎに遭遇してしまうと、予期できないために、不安が生じる。未来が全くもって予期できないからだ。これは患者の心にしかり、セラピストの心にしかり、そして、今の子どもたちにしかりである。豊かな社会、豊かな自分、豊かな未来を少しでも予期(期待)することで、不安は解消される。脳はそのような仕組みになっているのである。

セラピスト自身が未来に生きている自分を感じ、そして思いながら、それを患者に感じさせることができるセラピーはきっと人や社会を幸福にさせるのではないかと思う。

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現在の私の心境でした。

明日になれば変わるかもしれません。

未来に生きる人間。
現在に生きる人間。
過去に生きる人間。

私は未来に生きる「強い」人間でありたいと思う。

チャンチャン・・