森岡 周のブログ

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下山と助演の意識の胸中

2011年12月30日 10時46分49秒 | 脳講座
昨日のTwitterに利己的から利他的な思考・感情へということを述べました。
人間の欲求を示すものとして、マズロウの欲求というものがあります。
下層の生理的な欲求から、自己実現の欲求まで、
もともとは5つの階層で示されています。
まさに生誕の生きぬくという欲求から、
20歳を超え、社会人として承認され、
自己の目的を成就するように生きるといった、
ヒトの動物的なものから、
人間らしさまでを階層で表現したものです。

最近になって、自己実現の上あるいは横の考えとして、
コミュニティの発展の欲求、つまり利他性の意識が付け加えられています。

生き抜く、たくましく生き抜く、安全に生き抜く、
他人に認められたい、自分を成功に導きたい、
こうした欲求は自己に向けたものであり、
どちらかといえば、利己的なものです。
利己的でなければ、自分の命は守れないし、
種も保存できない。
この欲求を持たない生物学的な人間はいないはずです。
この手の欲求を押し殺すのは、むしろ精神衛生上よくないわけで、
成功しない言い訳に利他的主義を用いれば、
それは偽善者になります。
そのものの脳はねたみの活動(前帯状回など)が無意識にみられているはずです。

生理学的に生き延びる、安全に生きる、
どこかに所属し、だれかあるいは社会の承認を受けたい、
そして、自己実現したい、そうした山を目指し、
登山をし続ける人間は、
自己を成長させ、高める意識を持っています。
彼ら、彼女らの背中を追いかける次の登山者(若者)がいていいのです。
それは憧れる存在になるでしょう。

一方、社会的立場、年齢、そしてある程度実現した者たちの目指すのは、
コミュニティの発展にシフトするはずです。
この発展の欲求はそもそも人間あるいはゴリラの類いしか存在しない、
おすそわけの精神の延長です。

自分が得た知識、技術というのを他人の発展のために利用する。
他人が発展することで、社会がよくなるという図式のもと、
すすめていきます。

しかし、これも自己実現の半ばだと葛藤が生じるでしょう。
その葛藤は年齢、立場、体力、そして何よりも「死」を意識し始めたころから、
生まれるのではないでしょうか。
「死ぬための生き方」というべきか、
死をどのような形で迎えるかがよいのかを考えるときです。
若いときには「死」を意識したことは私自身もありません。
一方、40歳を境に、命は永遠でないことを実感しはじめました。
これは何もネガティブなことではなく、
自分のこれからの生き方を想像することにとても大事な「とき」なのです。

五木寛之氏の「下山の思想」がありますが、
まさにその下山をどのようなルートで行うかが大切だと思い始めました。
「風に吹かれて」動くのもよしだけど、
「緊張感」なくして山を下りると命を落としかねません。
そのルートはいくつもあります。
第2の人生というべきか、そのルートを選択できる自分は、
とても幸せなことだと思います。

話は変わりますが、政界再編というなのもと、
今の政治家を思うと、コミュニティ発展よりも
いやいや自己実現よりも、所属、安全、生理的な欲求でしかないと思うのも事実です。
けれども、それだけ切実なのでしょう。永田町というところは。
まさに戦国時代の武将のように。
誰しもが人間として、太平の世を願ったはずだけど、
自分の命が保証できないと、他人を追い落としてしまう。
といったものです。
これも欲求の階層から言えばよくわかります。
古い大学の教授選挙もそんな類いでしょう。

話を戻しますが、昨日テレビでみた西田敏行氏の主演より助演がうれしいという表現も下山の意識にあいます。

主演をたてるように自分を演じる、という意識は、
映画全体、つまりコミュニティ発展の意識でしょう。
主演を演じたものでなければその意識はないとも思えますが、
僕はそうとは思いません。
誰しも主演を目指そうという意欲はそもそも持ってるでしょう。
それをむしろ持たないと自己の成長は起こりません。
最初から脇役でいいとは誰もが思わないはずです。
もし思ってたらそこで成長はとまっています。

つまり登山はしなければなりません。
けれども、その登山のためには環境が必要です。
高い山を目指そうと思えば、仲間、物、そして何よりも天候に左右されます。
天候は自然です。
自然現象はむしろ運ともいえ、
人間は生物である以上、自然の一つです。
だから、タイミングというものに大きく影響されます。

登山はしたものの、高い場所にまでのぼれず、
結果として下山せざるをえなかった。
その下山に緊張感をもたらし、下山を成功させる。
つまり、我が人生幸せであったと死を迎えるときに
思うように下山を成功に導くための計画をたて、
そして、それを実行する。
時には寄り道をするかもしれません。
晴れが起こり、また上を目指そうとするかもしれません。
あるいは道草し、しばらくそこにとどまるかもしれません。

主演を勝ち取れない人生であっても、
下山のなかで助演賞をとれるよう緊張感をもって生きることが大切なように思えます。

人生を尊敬するに値するダンサーの岩田守弘氏の意識はそこにあるから、人に感動を与える助演するダンスになるのではないかと思うのです。

こうした文章を書きつつ、私はまだ登山の途中。
しかし、頂上が視界に見え始めたのも事実です。
それは「生」が永遠でないことを自己の身体から感じ始めてきたからです。
文字から「生」が永遠でないことは子供ころからもちろん知っている訳ですが、
自分の身体―こころから感じるというのは、この1年あたりです。

そして、亜流を生きてきたつもりが、
いつしか本流になりつつあるという社会情勢もです。
私が「標準理学療法学」を編集するとは、
自分の人生設計にはありませんでした。
これに関しては批判も多いにあるでしょう。
自分は標準的ではないと思ってきたからです。

一方、まだ書き始めていない「リハビリテーションのための~入門」の3つ目のシリーズがおそらく今あるすべてを書くことになるでしょう。
前二作は、34歳、35歳に書いた物であり、
まだ勢いというか、荒々しいというか、おれをみてくれというか、
そんな内容です。
けれども、それからあくこと5年、
そこにはどこにも属していない、
何も意図していない、
私そのものが勉強してきて、
重要と思ったものを選択すると思います。
今までもそうしたつもりでしたが、
そうではなかった、誰かの影響を受けているものでした。
今度はそれがなく、むしろ肩の力が抜けた状態で書き始めることができると思います。

早く書いて、頂上をみて、
景色をみてみたい。
そして、どのように下山するか考えてみたいという
欲求が私の中に今あります。
どのような文章になるのか、私自身楽しみです。

早く第3弾を書き始めたいのですが、社会、協調性の意味でまだ放置です。