森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

健康科学研究所シンポジウム終了!

2008年10月22日 22時11分13秒 | 過去ログ
本学のページに記事が掲載されています。

そして聖隷クリストファー大学 大城研究室のトップページに本学健康科学研究所シンポジウムの感想が掲載されています(水池先生ありがとう)。

うちの研究室のページも充実させないといけませんが・・・

第44回日本理学療法学術大会

2008年10月22日 19時22分26秒 | 過去ログ
第44回日本理学療法学術大会

シンポジウム2 5/29 9:00~10:50 第1会場

テーマ 『神経科学とEBPT』

シンポジスト 渡邊 修(首都大学東京)
森岡 周(畿央大学)
金子 文成(札幌医科大学)

ここのシンポジウムの面々では板場英行先生(高知医療学院)が仲人で、森本榮先生(初台リハ)が新郎上司挨拶で、中屋久長先生(高知リハビリテーション学院)が乾杯のご発声であった。



意識の奥深さ

2008年10月21日 08時45分21秒 | 過去ログ
痛みの学術集会では、
柿木先生から触覚伝導路と痛覚伝導路の到達時間の違いが脊髄へ、だけでなく、
その後の大脳皮質へも異なることが示され、
それにより、痛みのgatingは脊髄で起こらず、
大脳皮質で起こることのエビデンスを示された。
その他、大脳皮質のS1に行くlateralの伝達速度よりも、
Medialである前帯状回や島に行く速度が速いことのエビデンスを示され、
痛みの諸問題がなぜ起こるかの仮説がわいてきた。
情動的側面をもう少し重要視するセラピーが必要だし、
慢性痛では認知的側面を重要視するセラピーが必要だと意見交換した。

いずれにしても、科学は進歩している。
それを誰かが臨床に応用し、
その効果のエビデンスを待っていたのでは遅い。
自らの脳で思考し、
現在進行形で治療することが臨床家には求められるであろう。
一方、教育研究者は、その事実を受け止め、
教育、特に教科書を変えないといけない。
とにかく、勉強不足だし、
スピードが遅いと感じる。

学会演題が1500以上にもなっているのに、
なんら進歩がないのは、
大きな問題だと思う。

学会発表は論文のようには歴史として残らない。
歴史として語られ、それを批判的吟味されることが進歩である。

その後、会長、司会者らと懇親し、
業界のことを切に考えた。

翌日(昨日)、奈良に帰り着き、
そのまま教育学部の授業へ。
第3回目の「コミュニケーション心理学」
表情から喜びや不安を垣間見ることができる。
「創造性」とか「個性」とか言っている教育業界のなかで、
大学生自体がそれを求められると困惑してしまうのであれば、
つまり、受身的授業を要求するのであれば、
そのようなものは、今日の教育世界において教員として生き抜いていくことはできないと思う。

自らの精神に自由度を持ってもらいたい。
これは私への自省でもある。
教育とは難しい、ましてや感情というものにどのように向き合うか、
これこそ、一番難しい問題である。

授業を終え、3年生のゼミへ。
この自由度、創造性はここでも感じたが、
1か月進行し、成長を垣間見ることができた。
統制しながら、創造する。
一見矛盾したこのプロセスが、
自らの思考を鍛える。

ホモサピエンスとは「考えるヒト」
考えなければ、それは人間でない。
「これでよいのか」と常に思う。
そして、「これでよいのだ」と時に思う。
このバランスが生きていく上で大切だ。

3年生の授業を終え、
大学院生の中間発表会へ。
前回発表できなかった2名の進捗状況を聴く。
大学院教授・准教授の方々も結構集まっていただいた。
うれしい。
反面、「結構」という面に、いろんな思いが錯綜する。

院生と話し、学部生の研究を確認し、
しばらくぶりの家にたどりつく。

最近、老いを感じることがしばしばある。
これは現在の激務からか、それとも、肉体的なものなのか、
その真相は自己とは何かの問題にぶちあたり、わからない。
それでも元気だと思う。
自分は結構にタフ・ガイだ。
日々の思考および出張でトレーニングされ、
「イキチ」があがっている。

意識とは実に奥深い。

痛みやかゆみの意識も実に奥深い。

痛みを基礎から臨床まで考える会第12回学術集会

2008年10月19日 08時27分03秒 | 過去ログ
日時
2008年10月19日(日)

講演1 10:00~12:00
テーマ:種々の脳機能イメージング手法を用いた痛覚の脳内認知機構
講師:柿木隆介先生(生理学研究所)

講演2 13:15~15:15
テーマ:痛覚関連脳波計測の臨床応用、痒み認知のメカニズム
講師:柿木隆介先生(生理学研究所)

司会:沖田 実(長崎大学)、森岡 周(畿央大学)

場所:四条畷大学

身体への美意識

2008年10月19日 08時23分01秒 | 過去ログ
火曜日に意識がないように14時間ほど寝た後のブログ更新はできなかった。
水曜日は月曜日の代休であるが、
月曜日(祝日)はそのほとんどが講演であるために、
この代休に補講が入る。
事務サイドの気持ちもわからないでないが、
学生の気持ちになれば、とんでもない。
「心の理論」のせめぎあいでいい方法を導き出したいのだが。
何が何でも15回の授業は確保しなければならないという、
運営サイドの気持ちもわかる。

代休時の補講は2コマで、
教育学部の「コミュニケーション心理学」
私は何でも屋になりつつあるが、
これも自分の「大脳皮質」を使うために、
こういった科目や講演を引き受けるようにしている。
物事をある方向だけでなく、
違った方向、違った分野から考え、
新たな方法を導き出すことが大事だと思っているからだ。
一方向のある角度しか人間を見ることができない医学モデルの教育から、
生活モデルへ、いや人間モデルへだろう。
リハビリテーションは医学モデルを超えるものでなければならない。
他の業界から、この意味をとらえていただき、
逆輸入すればよい。
「人間復権」とは奥が深いし、裾野が広い。

このことは翌日の同級生の吉良先生の特別講義でも感じた。
幸せとは何か? 個人的主観をいかに大事に汲み取るか、
そして、最善の形を想像できるかが、
セラピストの手腕となるであろう。

回復期にいるセラピストはあまり感じ取ることができないのかもしれない。
患者を観るといいながら、所詮、障害を観ているように思えてならない。
所詮とは誤解があるが、
それはできて当たり前である。
それをおろそかにとはいわないが、
それを超越する頭脳集団の構成が望まれる。
在宅リハビリテーションでは結局は、
予防だけにROMをする毎日になろう。
「そんなことをしても、なんにもならない」
「おれは後ろから頭をはたく」
という吉良先生の言葉は、
現場ならではのリアリティが強い。
もちろん、こんなのにエビデンスはないのだが、
いくら数値でエビデンスを言われたとしても、
その現場の経験を大事にするであろう。

「太く短く生きる人生」
「細く長く生きる人生」
どっちを選ぶかの質問に対して、
4年生のほとんどは、前者を選んだ。
少し意外だが、人間の幸せとは何か、
それが如実にあらわれているのだろう。
人生とは長さで決定付けられない。
健康とは、そういう物さしではかることができないのだと。

太く長く生きるためには、
親愛なる他者を築き、
そのもののために生きる。
そして、自分自身の趣味を楽しむということも大事だろう。

アンパンが好きなAさんの血糖値があがっている。
あなたならどのように指導するという質問には、
誰も杓子定規で答えることができなかった。
数値よりも心である。

自分なら、今度のライブに醜い体系で出るわけにはいかないので、
そのために節制したいが、
それ以上に連日の講演後の懇親会のアルコールのおかげで、
醜い身体に拍車がかかっている。
この進行を止めたいが、
時間がない。
というのは駄目で、時間を作る、
その強い意識がひつようなんだと思う。

新年になればそれを誓いたい。

木曜日はその後、学科会議、教授会、大学院委員会、学術振興委員会、紀要編集委員会と20時近くまで行い、
大学院生が4名ほど来室。
それぞれの研究を確認した。

金曜日、岡山に向け出発。
朝日リハでの人間発達学の講義を行う。
ヒトとは何なのか?その進化の特徴を、
ブロードマンエリアから話した。
チンパンジーとの違いがその形態からもよくわかる。
そのヒトをつくる環境因子について、
神経科学の実験、心理学の実験から追加し、
次週からヒトの発達として特徴づけられる各論に入る。

教科書に色を塗りながら進める授業方法を今年からとりいれているが、
いいような感じだ。
本は汚すことで、自分の所有となる。
自分の所有となれば、それは知覚の延長であり、愛着をもつ。
本と2人称の関係になれば、もっと勉強も進むであろう。
どのように育てるか、理学療法や作業療法の教育も、
従来のようにムチをいれるだけの方法では難しいと昨今とくに思う。

セラピストが高次脳機能が傷害されているから無理です。
と教育も同じようにバリアをつくってはならない。
高次脳機能障害と捉えたのはこちらの一方向の脳でしかない。

「これはリンゴではない」
「これはパイプではない」

マグリットの絵が身にしみる。

土曜日、早朝に出て、
大学まで。

大学の研究所のシンポジウムの準備をして、
講師の先生方と会食する。
柿木先生とは1年半前に広島大学でシンポジウムがあって以来であるが、
それ以外の、壇先生、荒牧先生とは初対面で、
壇先生の個性、そして荒牧先生の実直さに、
コミュニケーションをとることで、
人の奥行きを知ることができ、
楽しい1日であった。

柿木先生の講演は、
いつものように、ウイットがとんで、
快な状態であった。
講演はその人の心の状態を良くあらわす。
内容は「脳指紋」「顔認知」「痛み」「痒み」に関連する今までの研究成果であった。
多岐にわたる研究内容に、
先生の知りたい欲求の多さを垣間見ることができた。
中央大学の山口真美先生とも一緒にやられているようだ。
知っていたが・・・ 山口先生の研究はいつも面白い。

自分の話題提供も文脈からおとなしいものとした。
先輩方のお顔を拝見しながら。
今は中部学院大学であるが、
運動と脳の著者の松波謙一先生が来られていた。

大学院生のこうむら&かわむら君らと話し、
家で荷物(着替え)を変え、
何をしに帰ったんだと、少し抑うつになり、
そのまま近鉄にのり、大阪まで。

本日の痛みの会のメンバー、講演者の柿木先生と懇親会をする。
先生とは懇親会で話すほうが面白い。
その内容はここではとても紹介できない秘密裏な内容である。

朝おき、自分の顔、身体がニクイ状態である。


定年してから差がつく脳とからだ

2008年10月14日 17時43分20秒 | 過去ログ
金曜日は岡山で講義を19時過ぎまでしたのち、
新幹線に向かい、走り走り、久しぶりの「こだま」に乗り、
西明石まで向かう。
兵庫リハのスタッフと韓国料理店で懇親会をして、
県立広島大学の沖田先生と高知医療学院の高橋先生と、
ホテル近くのロックバーで意見交換を行う。
コースにて教育する方向性について確認する。

翌日、コース開始。
全国からPT、OTが集まる。
理論から基本的な方法論まで。
沖田~人見~高橋~本田先生でバトンタッチしながら進んでいく。
自らの出番がなく、多動症候群のように、
動き回っていたが、しゃべるということが実はすきなんだと実感した。
「俺にしゃべらせろ~」という気持ちがわく。
ライブで「俺に歌わせろ~」という感覚である。
本コースは他の講師の講義を必ず聴き、
自分が何をしゃべるべきか、どのように進めるべきかを
文脈の中から思考し、そしてシミュレーションする。
このプロセスに相当の脳を使う。

脳の情報処理、すなわち認知プロセスの活性化である。
一方向に講演するのではない。
双方向性に情報を処理する。
それが大脳皮質の醍醐味である。
大脳皮質を使うセラピーを教えるセラピストが、
自らが大脳皮質を使わない、当り前のデモを見せるだけの実技であれば、
それは、言っていることとやっていることのかい離になる。
それでは信頼は得られない。

終わって、懇親会。
毎週続く激務に10時過ぎには悲鳴をあげ、
先にかえらせていただく。

翌日は川見先生からスタートして、実践に入る。
目に見える運動を分析することの重要性を話すとともに、
目に見えないものをいかに対話から取り出し、
推論をたて、仮説をつくるかのプロセスの重要性を説く。
この両者をつなぐのがセラピストの脳である。
セラピストには脳が存在している。
セラピストは言われたことをコピーするロボットでない。
コピーしながら、内部にある表象を更新することができる。
それがセラピストの学習である。
見よう見まねだが、見まねにおける自らのからだの感覚の違いを取り出し、
情報化することが大事だ。
患者の身体を動かしながらも、その違いを自らの体性感覚でモニターする。
それこそがプロであり、
体性感覚だけでなく、視覚、聴覚を総動員して、
患者の身体、運動、感覚、精神の変化をとらえることができる。
それが専門家の脳と身体である。

ニュートラルな立場からあえてみても、
認知神経リハビリテーションはその重要性を気づかせてくれると思う。

自分の講義では自虐ネタ(ギャグ)を交えながら、
酔っているのではないかと思われるような講義だったが、
脳と身体の科学について出来る限り平易に話した。
物質的知覚を情報化する脳。
それは「道具」を使用するヒトの脳にとってとても重要な機能だ。

懇親会ではじけ、
二次会で、キャロルのビデオを見ながら、飲み、
栄ちゃんとはもり・・・自分の過去を恩師から公開され、
来ている(受講している)セラピストに驚かれ。。
人に歴史あり。
出会いによって志向性が変わる。
出会いによってネガティブ志向をポジティブ思考に変えることができる。

最終日、症例検討して、
子どもの視覚情報処理について助言し、そして行為と言語の学習についてディスカッションして、楽しい時間を過ごした。
その内容は聞いている人はわからなかったかもしれないが、
複雑な思考を持って患者に臨もうとしている人もいるんだと思ってもらえればそれでいい。
人間は自分が思っている以上に複雑である。
複雑に理論を考えている人は科学的思考に基づくセラピストだ。
セラピストは最先端の科学者ではないが、
最前線の科学者であると思う。
臨床の場は、それを提供してくれる。

いずれにしても、
臨床人生の山を自らが低く設定するこの世の中。
紋切り型に人をみず、高くのぼる山を設定する。
60になって振り返れば、高い山にしてよかったと思うと思う。

養老孟司さんと対談した時、
二人が共感した瞬間が2つあった。
ひとつはなんでもかんでもバリアフリー化して、
自分の身体を使わず、考えない世の中に対するNOであったが、

もう一つが、60代が脳の容量に大きく差が出ていることである。
彼は解剖学者であったために、
脳の容積が60代で大きく差が出ることを教えてくれた。
僕の方は姿勢バランスが専門であるため、
2歳から92歳まで1073名のバランス能力のデータを解析した結果、
60代大きくばらつく点を明らかにした。
50代までのばらつきは少ないが、
60代は小学校の時と同じようにばらつくというものである。
小①と小⑥の身体機能は大きく異なることはだれもが知っている。
その6年間と同様に、60代で大きく差が出るというものである。
これは60代の10年で差が出るというのではなく、
それまでの59年間をどのように生きてきたかの経験で差がつくというのである。

脳の機能も、身体の機能も60代で大きく差が出る。
それまではそんなに影響しないが、
どのように生きてきたか(社会に参加し、脳を使い、考え、喜び、泣き、そして動き)、人生を歩んだか、それが大きく影響する。
生理的な老化ではなく、経験的な老化である。
そのことについて先日も本学の国際生理科学連合会長の金子先生が教えてくれた。
心の持ちようである。

いずれにしても、今回は自意識の中でもよいコースだったと思った。
情報の流れがよかった。
つまり、フリーズしなかったのである。
システムとして機能することの重要性についてコースの流れから理解できた。

最終日の月曜日の帰り際にスタッフから神戸ワイン、とお菓子をいただいた。
家に18時過ぎにつき、
そのまま、寝たら、起きたら朝の10時だった。
身体がそろそろ悲鳴をあげている。
週末がない生活が6週続いているということは45日間ほど1日も休んでいないことになる。

そろそろ限界だと思うが、
栄養剤でだましだましやっていこうかとも思うが、
平日になんとか休みをとろうと自省ならず、自制しようとも思いはじめている。
12月の講演を終え、年末までなんとか「快」でいたいものだ。



理論屋

2008年10月09日 23時14分16秒 | 過去ログ
火曜日は渾身の力を降り注ぎ、
なんとか学内授業の「人間発達学」の講義をスタートする。
まさに渾身の力であり、
しゃべりながら、言葉を失うときがいくつかあった。

やはり、神奈川で講演した後、すぐさま福岡に移動し、
そして講演するという、時間差攻撃のようなスケジュールは、
疲労を蓄積させる。
どちらかといえば、乗り物による疲労かもしれないが、
やはり、人間と出会うことは、
もっとも意識することであり、
その脳活動が脳は活性化させるが、
同時に疲労をつくるのであろう。

と同時に、講演がなれてきたとはいえ、
シミュレーションはするため、
そのシミュレーションにはエネルギーをそそぐ。
短期集中的に。
だが、これも順応する。
なんだかんだいって、私は結構元気だ。
これも「快」とすれば、
脳は、とたん錯覚を起こしていく。

やりたいこと、つくりたい文章が今は5つはある。
なんとか時間を作り出し、
それをはやくしたい。
それにうえている。
早く勉強したい、調べたい、書きたいという脳は、
もはや中毒する脳であり、
確実に、自分が自分にいじめられるのに、
それが「快」となるのであろう。

作品を産み出すためには、「情報」の構築が不可欠であり、
それをするのがすきなのだろう。
講演、講義はいわば、その構築の産物みたいなものであるため、
それほど、喜びというものは沸かない。
全国を行脚してよいと思うのは、
人とであえることである。
つまり、講演をして、それが成功するか失敗するかのoutputというわけでなく、
知らない人とあって、知ることが楽しいのだろう。
つまり、情報化作業である。

人間発達学の講義を早々に終え、
アクセプトされたClinical Rehabilitationの原著論文の著作権フォームなどを作り、
編集者に送信する。

その後、大学院生たちが研究室に来て、
今後の研究の確認、そして、論文の修正を手伝う。

もちろん、学部生のデータを確認し、
それを統計処理するという、卒論ゼミ生のお手伝いもした。

もっとかまってあげたいが、
まだたよりのないゼミ教授は、
自分の仕事が火の車なのである。
指導しすぎないほうが育つかもしれない、と最近は思い始めているので、
なんとか、自力で目標に向け、進んでもらいたい。
適宜、援助したいと思います。
最近接領域として、援助が必要なときに、
援助するというのが、学習の創発にはつきものだから。

遅い帰宅後、宮田塾のビデオが届いており、
深夜になりながらも見た。
ありがとう、みんな。
ただ、自分のしゃべりがはいっているのが照れくさい。
自分の声、そして話し方はどうも好きになれない。
今まで自分の講義をちゃんとみたこともきいたこともない。

快感を生むのが、A10神経とその神経伝達物質ドーパミンである。
ドーパミンはドーパミンでもこのA10神経と絡むものが、
まさに「快」をうむ。

A10 !

夜中に荷物を整理し、
朝、ラッシュの中近鉄で上本町まで。
伊丹に行き、高知空港へ行き、
いつものようにレンタカーをかり、
営業スタート。

まずは明徳義塾、須崎の海が青い。
青龍寺(四国八十八箇所)を横目にして、
竜キャンパスに。
この寺を用いて、四股名をつくったのが、朝青龍である。

明徳に行き、高知学芸に行き、そして、西、南、土佐塾と。
通りなれた道を意識を顕在化せずに、潜在的に運転した。

今日は、母校の追手前、土佐女子、小津、高知を巡り、
時間が少しあったので高知医療学院に行き、
普段、大学ではあまり議論ができないので、
学習の神経機構の側性化について、仮説を議論したいと思い、
ついつい足が運んだ。
当たり前の論文を読み合わせするよりも、
現象について、今まで得た知識と知識、知恵と知恵、経験と経験をvs.させることが面白い。
どうでもよいことに議論は費やしたくないが、
学術的に、人の行為の現象について、
議論することは実に楽しい。

恩師の2名は日本心理学会で仕事をしてきたらしい。


19歳から議論にはいつも同年代、そして恩師が加わった。
片麻痺の治療をどうするか、という議論はいつも同級生同士バトルになったし、
親としての行き方や子としての生き方、
小説や詩を読み、どの立場にたつべきかの議論にもなったり、
映画や音楽の議論にもなった。
ベルエポックな感じであり、
寮や運動療法室が議論の場であったが、
フランスにたとえると、それはカフェなんだろう。
カフェで議論するように、
うちの大学生も毎日、人生について議論してもらいたいものだ。

答えがないことに、幸せを感じることだ。
わからないことに、夢を持つことだ。

「だったらどうすればよいのか」
この現象にはこの介入をする。
そういう簡単な思考に入れば、
現場における抽象的な問題に対して、
必ずカベにぶつかる。
まじめな橋をわたってきたものには、その対応能力が乏しい。
問題は大きければ大きいほど、ワクワクする。

ワクワクすること。
苦しみのなかに、そのワクワクがある。
苦しみは「楽しむ」ためのスパイスである。

科学すること、それはわからないものをわかろうとするプロセスである。
ノーベル賞の学者たちの理論も、
30年かかってやっと証明された。
それが正しいかどうかは今後もまだまだ冥王星のように証明が続くか、
いずれにしても、答えはすぐに出ない。
右肩上がりなんていう現象・発達はない。
理論の重要性を今回の受賞で気づいたことだろう。
自分の理論をもつ、それがあまりにも私の業界には乏しい。
理論を証明する場が実験であり、臨床である。
基礎と臨床、その意味をまだ知っていない方々が多い。
医学部の基礎と臨床のようには、まだ成熟していない。
「基礎科学」を行い、「理論屋」を作ることが、
理学療法学や作業療法学が科学として残るためには必然と思えるようになってきた。
時に、基礎をしている人というが、
そういう思考がどうも、ネガティブだ。


科学的根拠に基づいた臨床というのならば、
本当の科学とは何かについて、
大学教育で教えるべきであると切に思う。
これだけ大学ができたのならば、
その教育もいるだろう。
なんのために専門学校から大学化したのか、
このまま推移すればよくわからない。

大学の教員とは、コピー生産にやきもきするのではなく、
議論を学生とし、わからないことを自覚し、
学生をライバルと思い、まければ、未来をその学生に託すことだ。

同年代と議論して、未来を意識すると、
それだけで、ポジティブになれる。
未来を自らが意識しないと、
不安ばかりがつのり、
ネガティブになる。
脳は表裏一体な面を持っている。

議論すること、
それは恥ずかしいことではない。
議論をふっかけていく空間、それが最高学府であり、
どこらかしらで議論の花が咲いている、そんな空間がうらやましい。
食堂なんかで。

職をかけて(うしなおうとしても)、自らがやりたいことを貫く人生は
きっと美しいと思う。

システムや、枠組みばかりを気にして、
既存のなかに無理やりぶちこむと、美しさはない。
なぜなら、それは人工であり、自然でないからだ。

病院のシステムや、大学の実習システムなんかもそれに近い。

そんなことばかり仕事でしていると、
私らしさがどんどん失われていきそうだ。

人間は自然である。

宇宙が対称性のくずれから起こったのであれば、
人間の意識も対称性のくずれから生まれる。

すべてが同じ、であれば、意識は生まれない。

そのずれに対して、新しい現象が起こる。
この繰り返しが、自然世界の中ではつづいている。

人間の機能回復のメカニズムもそれにヒントがあるのかもしれない。


明日は岡山で19時半まで講義をしたのち、
そのまま明石に入ります。

今、結構年間のなかでも多忙な時期です。



日本認知運動療法研究会認定 認知運動療法ベーシックコース(神戸)

2008年10月09日 22時31分03秒 | 過去ログ
日本認知運動療法研究会認定 認知運動療法ベーシックコース(神戸)
日程 平成20年10月11日(土)~13日(月・祝)
会場 兵庫県立総合リハビリテーションセンター
〒651-2181  兵庫県神戸市西区曙町1070

担当講義 「認知神経科学と認知運動療法-治療体系の妥当性と可能性をめぐって-」

森岡 周(畿央大学)