火曜日は渾身の力を降り注ぎ、
なんとか学内授業の「人間発達学」の講義をスタートする。
まさに渾身の力であり、
しゃべりながら、言葉を失うときがいくつかあった。
やはり、神奈川で講演した後、すぐさま福岡に移動し、
そして講演するという、時間差攻撃のようなスケジュールは、
疲労を蓄積させる。
どちらかといえば、乗り物による疲労かもしれないが、
やはり、人間と出会うことは、
もっとも意識することであり、
その脳活動が脳は活性化させるが、
同時に疲労をつくるのであろう。
と同時に、講演がなれてきたとはいえ、
シミュレーションはするため、
そのシミュレーションにはエネルギーをそそぐ。
短期集中的に。
だが、これも順応する。
なんだかんだいって、私は結構元気だ。
これも「快」とすれば、
脳は、とたん錯覚を起こしていく。
やりたいこと、つくりたい文章が今は5つはある。
なんとか時間を作り出し、
それをはやくしたい。
それにうえている。
早く勉強したい、調べたい、書きたいという脳は、
もはや中毒する脳であり、
確実に、自分が自分にいじめられるのに、
それが「快」となるのであろう。
作品を産み出すためには、「情報」の構築が不可欠であり、
それをするのがすきなのだろう。
講演、講義はいわば、その構築の産物みたいなものであるため、
それほど、喜びというものは沸かない。
全国を行脚してよいと思うのは、
人とであえることである。
つまり、講演をして、それが成功するか失敗するかのoutputというわけでなく、
知らない人とあって、知ることが楽しいのだろう。
つまり、情報化作業である。
人間発達学の講義を早々に終え、
アクセプトされたClinical Rehabilitationの原著論文の著作権フォームなどを作り、
編集者に送信する。
その後、大学院生たちが研究室に来て、
今後の研究の確認、そして、論文の修正を手伝う。
もちろん、学部生のデータを確認し、
それを統計処理するという、卒論ゼミ生のお手伝いもした。
もっとかまってあげたいが、
まだたよりのないゼミ教授は、
自分の仕事が火の車なのである。
指導しすぎないほうが育つかもしれない、と最近は思い始めているので、
なんとか、自力で目標に向け、進んでもらいたい。
適宜、援助したいと思います。
最近接領域として、援助が必要なときに、
援助するというのが、学習の創発にはつきものだから。
遅い帰宅後、宮田塾のビデオが届いており、
深夜になりながらも見た。
ありがとう、みんな。
ただ、自分のしゃべりがはいっているのが照れくさい。
自分の声、そして話し方はどうも好きになれない。
今まで自分の講義をちゃんとみたこともきいたこともない。
快感を生むのが、A10神経とその神経伝達物質ドーパミンである。
ドーパミンはドーパミンでもこのA10神経と絡むものが、
まさに「快」をうむ。
A10 !
夜中に荷物を整理し、
朝、ラッシュの中近鉄で上本町まで。
伊丹に行き、高知空港へ行き、
いつものようにレンタカーをかり、
営業スタート。
まずは明徳義塾、須崎の海が青い。
青龍寺(四国八十八箇所)を横目にして、
竜キャンパスに。
この寺を用いて、四股名をつくったのが、朝青龍である。
明徳に行き、高知学芸に行き、そして、西、南、土佐塾と。
通りなれた道を意識を顕在化せずに、潜在的に運転した。
今日は、母校の追手前、土佐女子、小津、高知を巡り、
時間が少しあったので高知医療学院に行き、
普段、大学ではあまり議論ができないので、
学習の神経機構の側性化について、仮説を議論したいと思い、
ついつい足が運んだ。
当たり前の論文を読み合わせするよりも、
現象について、今まで得た知識と知識、知恵と知恵、経験と経験をvs.させることが面白い。
どうでもよいことに議論は費やしたくないが、
学術的に、人の行為の現象について、
議論することは実に楽しい。
恩師の2名は日本心理学会で仕事をしてきたらしい。
19歳から議論にはいつも同年代、そして恩師が加わった。
片麻痺の治療をどうするか、という議論はいつも同級生同士バトルになったし、
親としての行き方や子としての生き方、
小説や詩を読み、どの立場にたつべきかの議論にもなったり、
映画や音楽の議論にもなった。
ベルエポックな感じであり、
寮や運動療法室が議論の場であったが、
フランスにたとえると、それはカフェなんだろう。
カフェで議論するように、
うちの大学生も毎日、人生について議論してもらいたいものだ。
答えがないことに、幸せを感じることだ。
わからないことに、夢を持つことだ。
「だったらどうすればよいのか」
この現象にはこの介入をする。
そういう簡単な思考に入れば、
現場における抽象的な問題に対して、
必ずカベにぶつかる。
まじめな橋をわたってきたものには、その対応能力が乏しい。
問題は大きければ大きいほど、ワクワクする。
ワクワクすること。
苦しみのなかに、そのワクワクがある。
苦しみは「楽しむ」ためのスパイスである。
科学すること、それはわからないものをわかろうとするプロセスである。
ノーベル賞の学者たちの理論も、
30年かかってやっと証明された。
それが正しいかどうかは今後もまだまだ冥王星のように証明が続くか、
いずれにしても、答えはすぐに出ない。
右肩上がりなんていう現象・発達はない。
理論の重要性を今回の受賞で気づいたことだろう。
自分の理論をもつ、それがあまりにも私の業界には乏しい。
理論を証明する場が実験であり、臨床である。
基礎と臨床、その意味をまだ知っていない方々が多い。
医学部の基礎と臨床のようには、まだ成熟していない。
「基礎科学」を行い、「理論屋」を作ることが、
理学療法学や作業療法学が科学として残るためには必然と思えるようになってきた。
時に、基礎をしている人というが、
そういう思考がどうも、ネガティブだ。
科学的根拠に基づいた臨床というのならば、
本当の科学とは何かについて、
大学教育で教えるべきであると切に思う。
これだけ大学ができたのならば、
その教育もいるだろう。
なんのために専門学校から大学化したのか、
このまま推移すればよくわからない。
大学の教員とは、コピー生産にやきもきするのではなく、
議論を学生とし、わからないことを自覚し、
学生をライバルと思い、まければ、未来をその学生に託すことだ。
同年代と議論して、未来を意識すると、
それだけで、ポジティブになれる。
未来を自らが意識しないと、
不安ばかりがつのり、
ネガティブになる。
脳は表裏一体な面を持っている。
議論すること、
それは恥ずかしいことではない。
議論をふっかけていく空間、それが最高学府であり、
どこらかしらで議論の花が咲いている、そんな空間がうらやましい。
食堂なんかで。
職をかけて(うしなおうとしても)、自らがやりたいことを貫く人生は
きっと美しいと思う。
システムや、枠組みばかりを気にして、
既存のなかに無理やりぶちこむと、美しさはない。
なぜなら、それは人工であり、自然でないからだ。
病院のシステムや、大学の実習システムなんかもそれに近い。
そんなことばかり仕事でしていると、
私らしさがどんどん失われていきそうだ。
人間は自然である。
宇宙が対称性のくずれから起こったのであれば、
人間の意識も対称性のくずれから生まれる。
すべてが同じ、であれば、意識は生まれない。
そのずれに対して、新しい現象が起こる。
この繰り返しが、自然世界の中ではつづいている。
人間の機能回復のメカニズムもそれにヒントがあるのかもしれない。
明日は岡山で19時半まで講義をしたのち、
そのまま明石に入ります。
今、結構年間のなかでも多忙な時期です。