自覚ワークを始めてから3週間が過ぎたころだと思います。
肉体である私の視点とは別に、なんとなくですが、もう一つ私を観ている視点があることが感じられるようになってきたのです。
また、それまでは自覚のワークの中で少し無理をしながら、私の考えや行動を「私」が起こしているんだと自覚していたのですが、それらを「私」が起こしているだということにあまり違和感を感じなくなってきたのです。
そして、自分の考えや行動、そして周りのことも、自然に無理なく観ていられるようになってきたのです。
さらには、なんとなくですが、まさしく「私」が自分の考えや行動を起こしているような気がしてきたのです。
それは、私にとっての大いなる存在の視点の芽生えであり、創造主としての自覚の芽生えだったのでした。
そしてそのとき、私は自分の見性が間近に来ていることをなんとなく感じたのでした。
見性が間近に感じられたと言っても、自分ではまだ手応えがないというか、納得がいってないというか、そんな感じだったのです。
それで、私は自分が何となく感じる大いなる存在の視点や、創造主であることの自覚を確かめたいと思ったのです。
いま一つ、大いなる存在の視点を実感できなかったのです。
そんな中、キャンドルライトのメンバー掲示板で、メンバーのMさんが書かれた自分を愛するワークについての記事を読んだときに、ピーンと来たのです。
大いなる存在の視点を実感するという私の目的に、そのMさんが記事に書かれたイメージが使えることが分かったのです。
そのMさんの記事は、確か「小さな私と大きな私」というタイトルで、大まかには、それまで自分(Mさん)は気づかなかったのだけど、大きな私(大いなる存在)は小さな私(自我の私)のことをずっと見守り、世話してくれてたんだ、という内容だったと思います。
私はコレだと思い、そのMさんが書かれている小さな私と大きな私を自分に当てはめて、早速イメージしてみたのです。
結果は思った通りでした。
私は、小さな私である自我の私と、大きな私である大いなる存在という2つの私をハッキリと実感することができたのです。
Mさんが書かれていた通り、大いなる存在である私は、ずっと私(自我の私)に寄り添い、私を見守っていたのでした。
そして、それが分かった私は、大いなる存在である私とイメージの中で抱き合ったのでした。
そのとき私は、湧き起こる感動と感謝の気持ちの余りの大きさに驚きながら、大いなる存在である私と抱き合ったまま暫くの間泣いておりました。
そのとき、二人の私は一つになっておりました。
これは、確かゲートさんから見性印可を頂く3、4日前のことだったと思います。
その間、創造主であることを自覚するワークの方も、自分なりに考えていろいろやっていました。
それについて少し紹介しますと、例えば、こうなって欲しいという未来の状況を思い浮かべ、私の周りの状況が思い浮かべたように調整されていく様子を確認していました。
但し、未来を思い浮かべるときに自分で難しいと思ってしまうことについては、あまりうまくいきませんでした。
その他のワークとしては、日常の中に変化を与え、そこから創造主である自分を実感するというワークもやっていました。
このワークでは、日常の生活の中で普段なら決してしないような変化を、できるだけ意表を突いたタイミングで起こします。
但し、その変化は実際に起こしてもいいし、起こそうと考えるだけでもいいのです。
例えば、ゲートさんの講話を聴いている最中に、席を立ってビールを買ってきて呑むという空想(考え)を起こし、一人悦に入って楽しんでいました。
他には、ゲートさんに浣腸(そうアレです、男の子が遊びでやるやつ)をする空想なんかもやっていました(笑)。
そうやって私は、自分や周りの状況が自分の意志の影響によって変化するんだということを少しずつ感じられるようになっていきました。
続きは今週金曜日にでも書かせていただきます。
<補足(2014年11月19日)>
私自身の見性のタイミングについて補足したいと思います。
この文章を書いた当初は、私自身の見性のタイミングについてハッキリとした確信がなく、この記事の次の記事に書いたように、ゲートさんから見性印可を頂く直前におきた、すばては考えだという確信的な気づきが見性印可に繋がったかのようか印象があったのですが、それは誤解だったのです。
この誤解に気づいたのは、1年近くも前なのですが、いままで放置してました。
今回そこを補足したいと思います。
私の見性のタイミングは、この記事の中で書いております、自分自身の考えや行動を「私」が起こしているんだという実感が起こったときなんだと思います。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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肉体である私の視点とは別に、なんとなくですが、もう一つ私を観ている視点があることが感じられるようになってきたのです。
また、それまでは自覚のワークの中で少し無理をしながら、私の考えや行動を「私」が起こしているんだと自覚していたのですが、それらを「私」が起こしているだということにあまり違和感を感じなくなってきたのです。
そして、自分の考えや行動、そして周りのことも、自然に無理なく観ていられるようになってきたのです。
さらには、なんとなくですが、まさしく「私」が自分の考えや行動を起こしているような気がしてきたのです。
それは、私にとっての大いなる存在の視点の芽生えであり、創造主としての自覚の芽生えだったのでした。
そしてそのとき、私は自分の見性が間近に来ていることをなんとなく感じたのでした。
見性が間近に感じられたと言っても、自分ではまだ手応えがないというか、納得がいってないというか、そんな感じだったのです。
それで、私は自分が何となく感じる大いなる存在の視点や、創造主であることの自覚を確かめたいと思ったのです。
いま一つ、大いなる存在の視点を実感できなかったのです。
そんな中、キャンドルライトのメンバー掲示板で、メンバーのMさんが書かれた自分を愛するワークについての記事を読んだときに、ピーンと来たのです。
大いなる存在の視点を実感するという私の目的に、そのMさんが記事に書かれたイメージが使えることが分かったのです。
そのMさんの記事は、確か「小さな私と大きな私」というタイトルで、大まかには、それまで自分(Mさん)は気づかなかったのだけど、大きな私(大いなる存在)は小さな私(自我の私)のことをずっと見守り、世話してくれてたんだ、という内容だったと思います。
私はコレだと思い、そのMさんが書かれている小さな私と大きな私を自分に当てはめて、早速イメージしてみたのです。
結果は思った通りでした。
私は、小さな私である自我の私と、大きな私である大いなる存在という2つの私をハッキリと実感することができたのです。
Mさんが書かれていた通り、大いなる存在である私は、ずっと私(自我の私)に寄り添い、私を見守っていたのでした。
そして、それが分かった私は、大いなる存在である私とイメージの中で抱き合ったのでした。
そのとき私は、湧き起こる感動と感謝の気持ちの余りの大きさに驚きながら、大いなる存在である私と抱き合ったまま暫くの間泣いておりました。
そのとき、二人の私は一つになっておりました。
これは、確かゲートさんから見性印可を頂く3、4日前のことだったと思います。
その間、創造主であることを自覚するワークの方も、自分なりに考えていろいろやっていました。
それについて少し紹介しますと、例えば、こうなって欲しいという未来の状況を思い浮かべ、私の周りの状況が思い浮かべたように調整されていく様子を確認していました。
但し、未来を思い浮かべるときに自分で難しいと思ってしまうことについては、あまりうまくいきませんでした。
その他のワークとしては、日常の中に変化を与え、そこから創造主である自分を実感するというワークもやっていました。
このワークでは、日常の生活の中で普段なら決してしないような変化を、できるだけ意表を突いたタイミングで起こします。
但し、その変化は実際に起こしてもいいし、起こそうと考えるだけでもいいのです。
例えば、ゲートさんの講話を聴いている最中に、席を立ってビールを買ってきて呑むという空想(考え)を起こし、一人悦に入って楽しんでいました。
他には、ゲートさんに浣腸(そうアレです、男の子が遊びでやるやつ)をする空想なんかもやっていました(笑)。
そうやって私は、自分や周りの状況が自分の意志の影響によって変化するんだということを少しずつ感じられるようになっていきました。
続きは今週金曜日にでも書かせていただきます。
<補足(2014年11月19日)>
私自身の見性のタイミングについて補足したいと思います。
この文章を書いた当初は、私自身の見性のタイミングについてハッキリとした確信がなく、この記事の次の記事に書いたように、ゲートさんから見性印可を頂く直前におきた、すばては考えだという確信的な気づきが見性印可に繋がったかのようか印象があったのですが、それは誤解だったのです。
この誤解に気づいたのは、1年近くも前なのですが、いままで放置してました。
今回そこを補足したいと思います。
私の見性のタイミングは、この記事の中で書いております、自分自身の考えや行動を「私」が起こしているんだという実感が起こったときなんだと思います。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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