◇三つの苦◇
私という存在に起こってくる苦には、大きく分けて三つの苦があります。
但し、その三つが別々の苦という訳ではなく、順番に説明する一つ目と二つ目の苦は、三つ目の苦と同根であり、最後に説明する三つ目の苦を起源として引き起こされるということもできますし、三つ目の苦が態様を変えて表面に出てきたものということもできます。
なお、今回の記事では、苦という言葉ばかりが目につくでしょうが、そこはご辛抱ください(笑)。
一つ目の苦は、普通にただ起こってくる苦であり、受け取るだけの苦です。
私たちに普段何気なく起こっている思考や身体の反応や行動は、この一つ目の苦が起点になっていることが多いです。
具体的には、病苦に代表される痛い、苦しい等の比較的分かりやすいものはもちろん、腹が減ったいう感覚や、おしっこがしたいという感覚など、何かの欲求や衝動を引き起こすものはすべて苦です。
また、何かの音や目に見える景色を認識することも苦です(その音や景色に対する反応が起こりますし、その音や景色のことが気になったときはなどは、まさしく苦となります)。
この苦は、ただ起こってくるだけのものではありますが、雨のようにひっきりなしに起こってくるため、仮にどれかを避けたとしても、必ず別の苦を受けることになり、私という存在がある限り、何らかの苦は必ず受けることになります。
またこの苦は、基本的には、それが起こってきて、それに対する反応や対処があり、流れ去っていくという、ただそれだけのものですが、この苦に関連した握りしめた考え(執着、囚われ)があると、この苦をきっかけとして、次に説明する二つ目の苦が引き起こされることとなります。
二つ目の苦は、握りしめた考え(執着、囚われ)により誘発される苦であり、上記の一つ目の苦をきっかけとして引き起こされます。
この苦は、上記のように、一つ目の苦が起きたとき、その苦に関連した囚われがあると、それをきっかけにして引き起こされます。
例えば、こんな具合です。
ある女性が顔を何かにぶつけて怪我をしたとします。
顔を何かにぶつけたことの認識や、怪我をしたことの認識、それによる痛みの認識等は、一つ目の苦なのです。
そして、起こってきたそれらの一つ目の苦に対する反応や対処の展開は、それはそれで連鎖的に起こっていきます。
その一方、多くの女性は、顔は大事だという囚われも持っていますので、顔を怪我したという認識(一つ目の苦)をきっかけに、顔に対する囚われによる二つ目の苦が引き起こされる訳です。
この苦の元になる囚われの内容や、それにより引き起こされる苦の具体的な態様は本当に様々ですが、典型的には、その囚われの対象に対する満たされない欠乏感や、その対象を失うことに対する恐れや、その対象を失ったときの喪失感などです。
囚われの対象としては、本当にあらゆるものがその対象となり得ます。
典型的には、善し悪し、幸不幸、優劣等の二元的な囚われが多いですが、真理、真我、根源、空、神、悟り、そして「私」なども、その対象となります。
この二つ目の苦は、その握りしめた考えを手放すことにより解消することができます。
しかし現実には、私たちの人生においてこの苦は大変大きなウエイトを占めており、私たちの人生は、常にこの苦で満たされていると言っても過言ではありません。
私たちの人生の活動の多くの部分は、この苦に対する反応であり、この苦を巡る活動なのです。
三つ目の苦は、私という存在の根本にある苦のことです。
これについては、昨日の記事をお読み頂きたいと思います。
この苦と上記の一つ目の苦を特に分ける必要も無いのですが、一つ目の苦と三つ目の苦をひとつに包括した全体の苦のうちの、認識しやすいその表層部分が一つ目の苦に相当しており、認識しにくいその深層部分が三つ目の苦に相当しているという具合です。
こうやって苦について徹底的に書くと、自分でもイヤになります。(^_^;)
しかし、これが私という存在の営みであり、姿なのです。
まさに、私という存在は苦そのものというか、苦の連鎖そのものなのです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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私という存在に起こってくる苦には、大きく分けて三つの苦があります。
但し、その三つが別々の苦という訳ではなく、順番に説明する一つ目と二つ目の苦は、三つ目の苦と同根であり、最後に説明する三つ目の苦を起源として引き起こされるということもできますし、三つ目の苦が態様を変えて表面に出てきたものということもできます。
なお、今回の記事では、苦という言葉ばかりが目につくでしょうが、そこはご辛抱ください(笑)。
一つ目の苦は、普通にただ起こってくる苦であり、受け取るだけの苦です。
私たちに普段何気なく起こっている思考や身体の反応や行動は、この一つ目の苦が起点になっていることが多いです。
具体的には、病苦に代表される痛い、苦しい等の比較的分かりやすいものはもちろん、腹が減ったいう感覚や、おしっこがしたいという感覚など、何かの欲求や衝動を引き起こすものはすべて苦です。
また、何かの音や目に見える景色を認識することも苦です(その音や景色に対する反応が起こりますし、その音や景色のことが気になったときはなどは、まさしく苦となります)。
この苦は、ただ起こってくるだけのものではありますが、雨のようにひっきりなしに起こってくるため、仮にどれかを避けたとしても、必ず別の苦を受けることになり、私という存在がある限り、何らかの苦は必ず受けることになります。
またこの苦は、基本的には、それが起こってきて、それに対する反応や対処があり、流れ去っていくという、ただそれだけのものですが、この苦に関連した握りしめた考え(執着、囚われ)があると、この苦をきっかけとして、次に説明する二つ目の苦が引き起こされることとなります。
二つ目の苦は、握りしめた考え(執着、囚われ)により誘発される苦であり、上記の一つ目の苦をきっかけとして引き起こされます。
この苦は、上記のように、一つ目の苦が起きたとき、その苦に関連した囚われがあると、それをきっかけにして引き起こされます。
例えば、こんな具合です。
ある女性が顔を何かにぶつけて怪我をしたとします。
顔を何かにぶつけたことの認識や、怪我をしたことの認識、それによる痛みの認識等は、一つ目の苦なのです。
そして、起こってきたそれらの一つ目の苦に対する反応や対処の展開は、それはそれで連鎖的に起こっていきます。
その一方、多くの女性は、顔は大事だという囚われも持っていますので、顔を怪我したという認識(一つ目の苦)をきっかけに、顔に対する囚われによる二つ目の苦が引き起こされる訳です。
この苦の元になる囚われの内容や、それにより引き起こされる苦の具体的な態様は本当に様々ですが、典型的には、その囚われの対象に対する満たされない欠乏感や、その対象を失うことに対する恐れや、その対象を失ったときの喪失感などです。
囚われの対象としては、本当にあらゆるものがその対象となり得ます。
典型的には、善し悪し、幸不幸、優劣等の二元的な囚われが多いですが、真理、真我、根源、空、神、悟り、そして「私」なども、その対象となります。
この二つ目の苦は、その握りしめた考えを手放すことにより解消することができます。
しかし現実には、私たちの人生においてこの苦は大変大きなウエイトを占めており、私たちの人生は、常にこの苦で満たされていると言っても過言ではありません。
私たちの人生の活動の多くの部分は、この苦に対する反応であり、この苦を巡る活動なのです。
三つ目の苦は、私という存在の根本にある苦のことです。
これについては、昨日の記事をお読み頂きたいと思います。
この苦と上記の一つ目の苦を特に分ける必要も無いのですが、一つ目の苦と三つ目の苦をひとつに包括した全体の苦のうちの、認識しやすいその表層部分が一つ目の苦に相当しており、認識しにくいその深層部分が三つ目の苦に相当しているという具合です。
こうやって苦について徹底的に書くと、自分でもイヤになります。(^_^;)
しかし、これが私という存在の営みであり、姿なのです。
まさに、私という存在は苦そのものというか、苦の連鎖そのものなのです。
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読んで頂いてありがとうございました。
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