◇判断と連鎖(2)◇
私たちは常に何らかの判断をし、それに基づく感情、衝動、思考等の連鎖の行程を延々と繰り返しています。
判断について何の疑いも生じないのはどうしてでしょう。
あるいは、どうしてそれを疑うことができないのでしょう。
そこに何の違和感も感じないのはどうしてでしょう。
判断について何の疑いも生じないのは、そこにあなたの深い思い込みがあるからではないですか?
疑うことができないのは、そうすることへの恐れがあるからではないですか?
何の違和感も感じないのは、あなたの思い込みが余りにも深く、盲点になってしまっているからではないですか?
あなたは、その判断に基づく連鎖の行程をいつまで続けるつもりですか?
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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私たちは常に何らかの判断をし、それに基づく感情、衝動、思考等の連鎖の行程を延々と繰り返しています。
判断について何の疑いも生じないのはどうしてでしょう。
あるいは、どうしてそれを疑うことができないのでしょう。
そこに何の違和感も感じないのはどうしてでしょう。
判断について何の疑いも生じないのは、そこにあなたの深い思い込みがあるからではないですか?
疑うことができないのは、そうすることへの恐れがあるからではないですか?
何の違和感も感じないのは、あなたの思い込みが余りにも深く、盲点になってしまっているからではないですか?
あなたは、その判断に基づく連鎖の行程をいつまで続けるつもりですか?
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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その私がいない背景(気づき)は努力(集中)
である
収縮(苦しみ)は消えることはない
しかしそれが最終段階でないとわかると
あるがままがもっとも早いとわかり いやされる
(無条件の愛である)
有難う御座います。
そして、過去に私がした発言で失礼が御座いましたらお詫び申し上げます。
こちらこそ、ありがとうございます。
失礼なんてありませんから、ご心配なく。
これこそが真のノンデュアリティ(?たとえば大和田菜穂さんの境地)です
ふつうは
ノンデュアリティの学習者は
いつもある精神統一
に
しなければならない
っ
て
努力して勘違いしてるんですけど
いつもある精神統一があることに気づくだけでいいんです
外側であれ内側であれ勉強であれ
起こるべきことが
ただ起こるんですから
そしてそれも自然におわっていくんです
すべてパーフェクトです
すなわち現実には起きていないかんがえ(リアルではないかんがえ)が
想像されている
ではそれをやめるのはだれか
リアルではないかんがえをやめるのはだれか
神と一体であるキリストだろう
ほかにだれに責任者がいるだろうか
ほかにはありえない
したがって
エゴに責任?があるとか
、(エゴ自身からエゴが生まれたらしいという説明)
まぼろしの心のなかの選択する私
に責任があるとかいうのは
完全にあやまった
責任転嫁なのである。そのように説明するスピリチュアルは
真実を歪曲している
それでは真実の説明とは
一者(神・キリスト)
が現実であり
※遊びと目覚めという夢は現実から自然におこる、オートマチックの夢だったということです
そして現実は変わらない愛(神・キリスト)です
救われることはない(救われているのに気づかない)
エゴをあなたを救うのは愛からくる愛の記憶なのです
しかし
奇跡のコース自体が
私(自我)を想像したのはキリストではないと
自己矛盾におちいったため
癒しは
完全に不可能になっているのである
しかし不可能なのは
奇跡のコースの教説であって
愛による癒しは可能なのです
つまり
神・キリストがした もし? といえない奇跡のコースは
責任をエゴへ転嫁し
したがって癒しを不可能にしているのである
みずからの責任をみとめないことにより
そのもし?をとりけすこともできない
ということ である
これ以上明確な指摘があるだろうか?