◇真我に気づく◇
このブログの2014年2月6日に「真我覚醒方法について」という記事があります。
この記事の内容の不味さは当時から分かっていたのですが、えいやっと書いてしまって、その後ずっと放置していました。
気が向いて、その記事に補足のコメントを入れました。
これに伴って、真我の覚醒やその方法について、改めて記事にまとめ直してみることにしました。
まず、真我とは何かについて。
私は、真我とは観照意識であると捉えています。
観照意識とは、六根(五感と意)を通して起こってくるこの世界をただ認識している(ただ観ている、ただ感じている)意識のことです。
観照意識は、悟りの行程がある程度進み、囚われが減り、それに伴って思考が減ってくると、自然に意識の表層部に現れてきます。
真我に覚醒するとは、その観照意識に気づくということです。
では次に、その真我に気づくための方法についてまとめてみたいと思います。
多くの方々は、肉体こそが自分だと思い込み、その肉体を中心に繰り広げられる日常の様々な現象に過剰に反応し、思考や感情に翻弄されます。
それを延々と繰り返します。
どうして、そのようになるのか。
それは、肉体との一体化(執着と言ってもいいです)が強く、私という存在に占める肉体のウエイトが過大になっているからです。
目や耳から入る映像や音、あるいは自己の内面から起こる感情や思考のウエイトが過大であるため、私という存在が肉体そのものであるかのような錯覚が生じてしまうのです。
真我に気づくための方法はあるのか。
私は、その方法としてやはり自覚が一番有効だろうと考えています。
まず最初の段階で、自覚を通じて私に意識を向けることを学びます。
そして、例えば、何か考えや感情が浮かんできたときに、「この考え(感情)は私がつくったんだ」とできるだけ一つずつ丁寧に確認する作業を繰り返すことで、肉体、考えや感情と私との距離感、分離感を養っていきます。
これによって、現象によって思考や感情が湧き起こりそうになったとき、それに翻弄されくくなっていきます。
さらに自覚を進め、起こってくる現象や考え、感情と私とは別のものであるという分離感が確立されてくると、その現象や考えを観ている自分自身に気づけばいいのです。
真我の気づきのポイントは、ここです。
誰がそれを観ているのか。
それを認識しているのは、誰なのか。
ここに気づくようになると、観照意識が段々と確立されていきます。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
ご希望の方は、suiku2013☆yahoo.co.jp(☆を@に替えて下さい)へご連絡ください。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
哲学・思想 ブログランキングへ
このブログの2014年2月6日に「真我覚醒方法について」という記事があります。
この記事の内容の不味さは当時から分かっていたのですが、えいやっと書いてしまって、その後ずっと放置していました。
気が向いて、その記事に補足のコメントを入れました。
これに伴って、真我の覚醒やその方法について、改めて記事にまとめ直してみることにしました。
まず、真我とは何かについて。
私は、真我とは観照意識であると捉えています。
観照意識とは、六根(五感と意)を通して起こってくるこの世界をただ認識している(ただ観ている、ただ感じている)意識のことです。
観照意識は、悟りの行程がある程度進み、囚われが減り、それに伴って思考が減ってくると、自然に意識の表層部に現れてきます。
真我に覚醒するとは、その観照意識に気づくということです。
では次に、その真我に気づくための方法についてまとめてみたいと思います。
多くの方々は、肉体こそが自分だと思い込み、その肉体を中心に繰り広げられる日常の様々な現象に過剰に反応し、思考や感情に翻弄されます。
それを延々と繰り返します。
どうして、そのようになるのか。
それは、肉体との一体化(執着と言ってもいいです)が強く、私という存在に占める肉体のウエイトが過大になっているからです。
目や耳から入る映像や音、あるいは自己の内面から起こる感情や思考のウエイトが過大であるため、私という存在が肉体そのものであるかのような錯覚が生じてしまうのです。
真我に気づくための方法はあるのか。
私は、その方法としてやはり自覚が一番有効だろうと考えています。
まず最初の段階で、自覚を通じて私に意識を向けることを学びます。
そして、例えば、何か考えや感情が浮かんできたときに、「この考え(感情)は私がつくったんだ」とできるだけ一つずつ丁寧に確認する作業を繰り返すことで、肉体、考えや感情と私との距離感、分離感を養っていきます。
これによって、現象によって思考や感情が湧き起こりそうになったとき、それに翻弄されくくなっていきます。
さらに自覚を進め、起こってくる現象や考え、感情と私とは別のものであるという分離感が確立されてくると、その現象や考えを観ている自分自身に気づけばいいのです。
真我の気づきのポイントは、ここです。
誰がそれを観ているのか。
それを認識しているのは、誰なのか。
ここに気づくようになると、観照意識が段々と確立されていきます。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
ご希望の方は、suiku2013☆yahoo.co.jp(☆を@に替えて下さい)へご連絡ください。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
哲学・思想 ブログランキングへ
非常に有益な記事をありがとうございます。楽しく拝見させていただいております。
「※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。」
とありますが有料コースはもうやらないのでしょうか?
有料コースはどうも気が乗らないのです。
以前、会場を借りてセッションをやらせてもらっていたときは、会場のレンタル料と自分の交通費程度の料金を頂いていました。
最初の頃、スカイプでも有料で何回かセッションをやらせてもらったことがあるのですが、スカイプは経費が殆ど掛かりませんから、それでお金を頂くのはどうも嫌で、有料コースはやめてしまったんです。
whiteさんは無料だとお嫌ですか?
有料でも無料でも内容は同じですよ。
それに、何度かに分けてお伝えした方がいいと思った方には、3回くらいセッションをさせていただいています。
whiteさんも、もしご希望でしたら遠慮なくご連絡くださいな。
させていただいた愛知のTRです。お久です。
観照意識ってのは、何を聞いても
何を見ても何を感じても、そのまんま
感じ取るということで、全く疑いを起こさない
意識と考えてよろしいでしょうか?
だとすると、浄土真宗の「聞即信」と
いうのは、観照意識に気づいた状態
ではないのか?っと思うのです。
阿弥陀仏がこう言ってるそうです。
”君は大丈夫だ心配いらん、必ず君を救う!”
これを聞いても心は、
”はぁ、さようでございますか、ありがとうございます・・”
などとは、絶対に思わないわけです。
”んな、わけネーダロー””って。
でもですよ、おとぎ話だろうと都市伝説であろうと、
それを聞いて疑いが起こらなければ心は必ず
安心するはずですよね?。
確か私のセッションに愛知から車で来ておられた方ですよね? お久しぶりです。
浄土真宗の「聞即信」のことは、全く知らないのです。すみません。
確かに鑑照意識は、ただ観ている、ただ感じているだけの意識であり、その意識は疑いも起こしません。
しかし、観照意識に気づいていてそれが立っている状態でも、ある程度のレベルで自分の普通の自我意識も残っているというか、併存していますので、その自我意識の部分では相変わらずああでもないこうでもないと考えたり、感じたりしている訳です。
つまり、観照意識が立っている状態でもある程度の思考や感情は残っているのです。
観照意識は、そのような自分の普通の自我要素の動きもただ観ているのです。
また、疑いについて、疑いが無くなればいいという訳ではありません。
むしろ、すべてを疑い吟味することで、疑いの無いものなど一つも無いことを理解すべきなのです。
安心についても同じで、安心することを目標としてもダメなのです。
むしろ、安心できるものなどどこにも無いことを理解すべきでなのです。
すみません。つい熱が入って余計なことまで書いてしまいました。
>確か私のセッションに愛知から車で来ておられた方ですよね?
違います。一緒にFXやったTRです。
>むしろ、すべてを疑い吟味することで、疑いの無
>いものなど一つも無いことを理解すべきなのです。
はい、コレですよ、コレ!!。
これの理解が起こった時が聞即信で、
真宗でいう信心獲得(禅宗だと悟り)なの
ではないかと思うのです。
心が安心するのかそうなのかは??ですがね・・。
TRさん、お久しぶりです。
間違えてすみませんでした。
>これの理解が起こった時が聞即信で、
>真宗でいう信心獲得(禅宗だと悟り)なの
>ではないかと思うのです。
私は仏教を殆ど知らないので、私には分かりません。
>心が安心するのかそうなのかは??ですがね・・。
これについては、安心できるところやものはどこにも無いということを本当に理解できれば、自ずと最も心が安定した状態に落ち着くのです。
>これについては、安心できるところやもの
>はどこにも無いということを本当に理解で
>きれば、自ずと最も心が安定した状態に落ち着くのです。
よーーーくわかりました。納得です。
つまりですよ、
コイツ(=心=自我)というやつは、
ぜーーったいに、「あるがまま」を見れないの
だろうと思うのです。
ところがどっこい、自分に都合の良いものは
しっかり受け入れて、がっつりつかんで離しません。
この理解でよろしいでしょうか?
>ぜーーったいに、「あるがまま」を見れない
「あるがまま」を絶対見れないというのは御幣があります。
それを一時的に体験することはあるのです。
しかし、それも悟りの工程の中の通過点に過ぎないのです。
おおむねわかりました。
いい年した大人が、なぜイエス様や阿弥陀様
を信じるのかが不思議でならなかったのですよ。
それらを信仰する人の中で、極めめて稀な
人が真我に気づくのかも?と思っています。
まぁ、せいぜい1万人に一人でしょうな。
真我について、自分なりに書いてみます。
怒っている時、怒っている自分の思考、怒りで体がこわばっている感覚、怒る自分に後ろめたさを感じる思考、怒りの勢いに流されている様子、相手を殴る感覚(あるいは殴られる感覚)、怒りを鎮めようとする思考、そういったものが意識に浮かびます。
これは一例なので、怒りでなくても良いのですが、それらの感覚や思考をぼーっと見えている感覚(私は見ているという、主体性の感覚はありません)があります。
この時に自覚に取り組むと、自覚する事も感情や思考の動きと同じようにただ見ています。
なんとなく、これが観照意識なのかなとも思いますが、もっと特殊な感覚なんじゃないか?とも考えてしまうところがあります。