◇真我覚醒方法について◇
今日は、全体意識(真我)の覚醒方法について書いてみたいと思います。
全体意識の覚醒とは、その通りの意味で、全体意識に目覚めることです。
もう少し具体的に説明すると、私という個の意識が幻であることを実感として理解することです。
「空」の覚醒とも言ったりするんだと思います(間違っていたらごめんなさい、何分業界用語をよく理解しないまま書いてるもので、笑)。
全体意識に覚醒するための経路としては、禅の世界などでよくなされているように、見性を経て全体意識に覚醒するという経路が一番多いのではないかと思います(他の経路のことは今回は省略します)。
その途中に見性があるのは、一気に全体意識に目覚めるのが難しいため、見性によりまずは個の意識を捉えておいて、そこを足がかりに全体意識の覚醒を目指すためです。
また、見性により個の意識が的確に捉えられてないと、自我である自分がつくる考えと自我の区別がつかず、他の考えに紛れてしまい、起きたり消えたりする自我の様子に気づくのが難しいからです。
という訳で、見性により個の意識を捉えられている方は、全体意識の覚醒まであと一歩なのです。
方法は簡単です。
簡単な方法として、おおよそ三つの方法があります。
(他にもいい方法あったらコメ書き等で教えてください、お願いします、m(_ _)m)。
一つは、自覚です。
自覚により、個の意識である「私」に意識の焦点を当て続けるだけでいいのです。
このとき、「わたし、わたし、わたし、・・・」と唱えながら意識を向けるとさらに効果的です。
「私」に意識の焦点を当て続けていくうち、意識の焦点を当てているときと、当ててないときのギャップに気づくときがきます。
必ず来ます。
そしたら、「なーーんだ、そーだったのか」ということになります。
人によっては、私である「個」の意識が解けて無くなりそうになる方もおられると思います(笑)。
そういう方は、そのまま解脱してしまわれるかも知れません(笑)。
もう一つの方法は、無我の状態から自我が起こるときの変化を捉える方法です。
これは禅でよく行われる方法です(聞きかじりですが、笑)。
まず顕在意識の思考がない無我の状態をつくります。
瞑想、呼吸法、ヨガ、何か作業に没頭する、ただボーッとするなど、何でもオッケーです。
見性を得られた方なら、無我の状態は比較的簡単につくれると思います。
そうして無我の状態をつくれたら、何かの切っ掛けで自我が起こるところを捉えるだけです。
自我が起こる切っ掛けは、何かの音に対する感応だったり、突然起こる考えだったり、いろいろだと思います(一般的に音に対する感応が多いようですが)。
ここで少し解説しますと、この無我の状態は全体意識の状態なのです。
つまり、無我の状態にあるときは、「私」という自我は消えているのです。
そこを気づきましょうということなのです。
さらにもう一つの方法は、私がつくっている思考、そして私と思考の関係について徹底的に洞察する方法です。
徹底的に洞察すれば自ずと、実は思考そのものが私という自我(個の意識)なんだということに気づいていきます。
そして、その気づきは即、全体意識の目覚めにつながります。
この洞察の際、「私とは何か」という問いについて追求するのもいい方法だと思います。
ちなみに、私は上の一つ目の方法と三つ目の方法を同時並行的に組み合わせて全体意識に目覚めました。
ぜひ、是非、ゼーヒ!、試してみてくださいな。\(^O^)/
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
<訂正(2014年6月19日)>
上の文章を一部訂正しました。
この記事を書いた当初は、思考と自我と真我の関係に関する理解が不十分で、記載に誤りがあったので、それを訂正しました。
具体的には、上の三つ目の方法に関する記載の中で、当初は「思考そのものが私であり、真我そのものである」旨の記載をしていたのですが、大きな誤りでした。
ごめんなさい。
思考(考え)は真我でなく、自我そのものなのです。
この記事は悟りのワークに関するものなので、誤りを放置するのはどうかと思い、訂正することにしました。
この当時に書いた他の記事も類似の誤りがあることと思いますが、それはそれで私の歩みを示すものであり、そのままでもいいのかと思っています。
<訂正のようなコメント(2019年12月17日)>
久しぶりに読み返して、自分の書いたものながら余りの稚拙さ、吟味不足、適当さに困惑してしまいました。
実はこの記事は、題名が「真我覚醒方法」となっていてセンセーショナルなせいか、ブログ記事の中で最も読まれている記事の一つなのです。
今まで「まあいいか」と放置していたのですが、思い直して訂正することにします。
今日やろうかと思ったのですが、寝る時間になってしまったので明日か明後日やります。
昨日の続きです。
まず、真我とは何かについて。
私は、真我とは観照意識であると捉えています。
観照意識とは、六根(五感と意)を通して起こってくるこの世界をただ認識している(ただ観ている、ただ感じている)意識のことです。
観照意識は、悟りの行程がある程度進み、囚われが減り、それに伴って思考が減ってくると、自然に意識の表層部に現れてきます。
真我に覚醒するとは、その観照意識に気づくということです。
上の記事で、真我の覚醒方法についていろいろ書いてますが、どの記載も適切ではありません。
囚われが減っていけば自ずと真我に気づくようになるので、自覚は有効だと思いますが、上の私の説明は余りにお粗末です。
多くの方々は、目や耳から入る映像や音、あるいは自己の内面から起こる感情や思考と余りにも一体化しているため、それらを認識している自分の意識要素がそれらとは別に存在していることに気づけないのです。
起こってくる現象や考え、感情と私とは別のものであるという分離感が確立されてくると、その現象や考えを観ている自分自身に気づくようになります。
真我の気づきのポイントは、ここです。
上で一つ目の方法として挙げられている自覚は、自分が握りしめている囚われに気づくのにとても有効な方法です。
また、自覚を続けていると、六根を通して起こってくる情報(考え)に対して、それらに巻き込まれないよう距離を置くというか、客観視する視点や感覚が養われていくため、真我(観照意識)に気づきやすくなります。
二つ目の方法は、観照意識に対する気づきとは余り関係ありません。
すみませんでした。
二つ目の方法は、何を意図しているのかも不明確でダメダメです。
この文章は無かったことにしたいくらいです(苦笑)。
三つ目の方法も、観照意識に対する気づきとは余り関係ありません。
すみませんでした。
三つ目の方法も、記載が稚拙で吟味が足りておらず、何が言いたいのかとても曖昧です。
三つ目の方法は観照意識に対する気づきに関するものではなく、実は大悟に関するものでした。
これを真我の気づきと一緒に書くのは不適切でした。
三つ目の方法の後に、「私とは何か」に関する追求について言及していますが、これもとても曖昧であり、そこで言及するべきものではありませんでした。
実は「私とは何か」について追求する方法には、二つの段階がありあす。
一つ目の段階は、「私とは何か」を追求することにより、私とは、六根を通して起こってくる事柄ではなく、それを認識する意識(認識主体)であることに気づく段階です。
二つ目の段階は、さらにそこから進み、その認識主体をも手放し、超えていくものであり、これが小悟から大悟へ向かう行程となります。
当時の私は、この辺りのことがらを一緒くたにして書いてしまっていました。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
ご希望の方は、suiku2013☆yahoo.co.jp(☆を@に替えて下さい)へご連絡ください。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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今日は、全体意識(真我)の覚醒方法について書いてみたいと思います。
全体意識の覚醒とは、その通りの意味で、全体意識に目覚めることです。
もう少し具体的に説明すると、私という個の意識が幻であることを実感として理解することです。
「空」の覚醒とも言ったりするんだと思います(間違っていたらごめんなさい、何分業界用語をよく理解しないまま書いてるもので、笑)。
全体意識に覚醒するための経路としては、禅の世界などでよくなされているように、見性を経て全体意識に覚醒するという経路が一番多いのではないかと思います(他の経路のことは今回は省略します)。
その途中に見性があるのは、一気に全体意識に目覚めるのが難しいため、見性によりまずは個の意識を捉えておいて、そこを足がかりに全体意識の覚醒を目指すためです。
また、見性により個の意識が的確に捉えられてないと、自我である自分がつくる考えと自我の区別がつかず、他の考えに紛れてしまい、起きたり消えたりする自我の様子に気づくのが難しいからです。
という訳で、見性により個の意識を捉えられている方は、全体意識の覚醒まであと一歩なのです。
方法は簡単です。
簡単な方法として、おおよそ三つの方法があります。
(他にもいい方法あったらコメ書き等で教えてください、お願いします、m(_ _)m)。
一つは、自覚です。
自覚により、個の意識である「私」に意識の焦点を当て続けるだけでいいのです。
このとき、「わたし、わたし、わたし、・・・」と唱えながら意識を向けるとさらに効果的です。
「私」に意識の焦点を当て続けていくうち、意識の焦点を当てているときと、当ててないときのギャップに気づくときがきます。
必ず来ます。
そしたら、「なーーんだ、そーだったのか」ということになります。
人によっては、私である「個」の意識が解けて無くなりそうになる方もおられると思います(笑)。
そういう方は、そのまま解脱してしまわれるかも知れません(笑)。
もう一つの方法は、無我の状態から自我が起こるときの変化を捉える方法です。
これは禅でよく行われる方法です(聞きかじりですが、笑)。
まず顕在意識の思考がない無我の状態をつくります。
瞑想、呼吸法、ヨガ、何か作業に没頭する、ただボーッとするなど、何でもオッケーです。
見性を得られた方なら、無我の状態は比較的簡単につくれると思います。
そうして無我の状態をつくれたら、何かの切っ掛けで自我が起こるところを捉えるだけです。
自我が起こる切っ掛けは、何かの音に対する感応だったり、突然起こる考えだったり、いろいろだと思います(一般的に音に対する感応が多いようですが)。
ここで少し解説しますと、この無我の状態は全体意識の状態なのです。
つまり、無我の状態にあるときは、「私」という自我は消えているのです。
そこを気づきましょうということなのです。
さらにもう一つの方法は、私がつくっている思考、そして私と思考の関係について徹底的に洞察する方法です。
徹底的に洞察すれば自ずと、実は思考そのものが私という自我(個の意識)なんだということに気づいていきます。
そして、その気づきは即、全体意識の目覚めにつながります。
この洞察の際、「私とは何か」という問いについて追求するのもいい方法だと思います。
ちなみに、私は上の一つ目の方法と三つ目の方法を同時並行的に組み合わせて全体意識に目覚めました。
ぜひ、是非、ゼーヒ!、試してみてくださいな。\(^O^)/
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
<訂正(2014年6月19日)>
上の文章を一部訂正しました。
この記事を書いた当初は、思考と自我と真我の関係に関する理解が不十分で、記載に誤りがあったので、それを訂正しました。
具体的には、上の三つ目の方法に関する記載の中で、当初は「思考そのものが私であり、真我そのものである」旨の記載をしていたのですが、大きな誤りでした。
ごめんなさい。
思考(考え)は真我でなく、自我そのものなのです。
この記事は悟りのワークに関するものなので、誤りを放置するのはどうかと思い、訂正することにしました。
この当時に書いた他の記事も類似の誤りがあることと思いますが、それはそれで私の歩みを示すものであり、そのままでもいいのかと思っています。
<訂正のようなコメント(2019年12月17日)>
久しぶりに読み返して、自分の書いたものながら余りの稚拙さ、吟味不足、適当さに困惑してしまいました。
実はこの記事は、題名が「真我覚醒方法」となっていてセンセーショナルなせいか、ブログ記事の中で最も読まれている記事の一つなのです。
今まで「まあいいか」と放置していたのですが、思い直して訂正することにします。
今日やろうかと思ったのですが、寝る時間になってしまったので明日か明後日やります。
昨日の続きです。
まず、真我とは何かについて。
私は、真我とは観照意識であると捉えています。
観照意識とは、六根(五感と意)を通して起こってくるこの世界をただ認識している(ただ観ている、ただ感じている)意識のことです。
観照意識は、悟りの行程がある程度進み、囚われが減り、それに伴って思考が減ってくると、自然に意識の表層部に現れてきます。
真我に覚醒するとは、その観照意識に気づくということです。
上の記事で、真我の覚醒方法についていろいろ書いてますが、どの記載も適切ではありません。
囚われが減っていけば自ずと真我に気づくようになるので、自覚は有効だと思いますが、上の私の説明は余りにお粗末です。
多くの方々は、目や耳から入る映像や音、あるいは自己の内面から起こる感情や思考と余りにも一体化しているため、それらを認識している自分の意識要素がそれらとは別に存在していることに気づけないのです。
起こってくる現象や考え、感情と私とは別のものであるという分離感が確立されてくると、その現象や考えを観ている自分自身に気づくようになります。
真我の気づきのポイントは、ここです。
上で一つ目の方法として挙げられている自覚は、自分が握りしめている囚われに気づくのにとても有効な方法です。
また、自覚を続けていると、六根を通して起こってくる情報(考え)に対して、それらに巻き込まれないよう距離を置くというか、客観視する視点や感覚が養われていくため、真我(観照意識)に気づきやすくなります。
二つ目の方法は、観照意識に対する気づきとは余り関係ありません。
すみませんでした。
二つ目の方法は、何を意図しているのかも不明確でダメダメです。
この文章は無かったことにしたいくらいです(苦笑)。
三つ目の方法も、観照意識に対する気づきとは余り関係ありません。
すみませんでした。
三つ目の方法も、記載が稚拙で吟味が足りておらず、何が言いたいのかとても曖昧です。
三つ目の方法は観照意識に対する気づきに関するものではなく、実は大悟に関するものでした。
これを真我の気づきと一緒に書くのは不適切でした。
三つ目の方法の後に、「私とは何か」に関する追求について言及していますが、これもとても曖昧であり、そこで言及するべきものではありませんでした。
実は「私とは何か」について追求する方法には、二つの段階がありあす。
一つ目の段階は、「私とは何か」を追求することにより、私とは、六根を通して起こってくる事柄ではなく、それを認識する意識(認識主体)であることに気づく段階です。
二つ目の段階は、さらにそこから進み、その認識主体をも手放し、超えていくものであり、これが小悟から大悟へ向かう行程となります。
当時の私は、この辺りのことがらを一緒くたにして書いてしまっていました。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
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読んで頂いてありがとうございました。
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今回もわかりやすいですね。
2番目のが修行系では多いですね。無になじむっていうやつです。
質問ですが、
>実は思考そのものが私であり、それが全体意識なんだ>ということに気づいていきます。
この部分がわかりにくいです。全体意識って、捉える側の主体側ってことですか?それともコインの裏表で
どっちもどっちってことでしょうか?有無一体ってことですか?
分かりやすいとのこと、ありがとうございます。
分かりやすいのも一長一短なのですが、分かりやすく説明するのが私の個性であり役割のようですから、その役割が果たせてうれしいです。(*^_^*)
実は、無我の感覚と、全体意識には少しギャップがあるのです。
全体意識を無我の感覚で捉えようとすると、まだ少し足りない部分があるのです。
思考の連鎖、あるいは思考そのものが私だという理解に到達して、完全な理解となります。
少しだけ説明しますと、過去の記事にも書いていますが、例えば私が花に意識を向けているとき、そのとき私という自我は不在であり、花という考えがあるだけなのです。そして、そのとき敢えて言えば「花」が「私」なのです(これが全体意識としての私です)。つまり、意識が向けられている対象、あるいは意識の移り変わりそのものが全体意識としての「私」なのです。
申し訳ありませせんが、ここは頭による通常の理解によりご理解いただくのは無理だと思います。
ご自分で実感されるしかないと思います。
ぜひ、実感されることを願います!!
最初のだけ試しましたが、意識がとけます(笑)。
>私は上の一つ目の方法と三つ目の方法を同時
>並行的に組み合わせて全体意識に目覚めました。
なるほど。
>他にもいい方法あったらコメ書き等で教えてください、>お願いします、m(_ _)m)。
例えば、特定の言葉に意識を集中したり、物に意識を集中するだけでも、意識に変容が起きますね。
意識を向けると、向けたものが自分になりますからね。
意識を探求するのは面白いです。
(^^)。
面白いですか?^^
ありがとうございます。
あちこちからパクってきた寄せ集めにすぎないのですが(^o^)
>例えば、特定の言葉に意識を集中したり、物に意識を集中するだけでも、意識に変容が起きますね。
>意識を向けると、向けたものが自分になりますからね。
仰る通りですね。
Atomさんは、真我を完全に捉えておらえるのですね。^^
ここのところ、真我の覚醒方法について何かいい方法はないかと探っております。
時期的にも、そろそろいい頃合いだろうと思っておりまして。^^
またコメント頂けると嬉しいです。^^
止観の瞑想を通して、「空なる自我を観じ、体で頷く」にはどのような感覚で捉えることができるでしょうか。ご教導よろしくお願いします。
>「空なる自我を観じ、体で頷く」
すみませんが、私には「空なる自我」の意味が分かりません。
ただ観ている意識(観照意識)のことでしょうか?
「空なる自我を観じ、体で頷く」とはどうしたらよいのかと質問されている空望さんに対して、「空なる自我」の意味が分からないから、説明してくださいと返答する私のコメ返しは、余りにお粗末でした。
当たり前に考えて、空望さんは「空なる自我」をお分かりにならないから質問されているはずでなのです。
相変わらず、困った私ですw
では、ご質問に対してどうお答えすべきか。
結論から申しますと、お答えのしようがないのです。
私には「空なる自我」の意味が分かりませんので、お答えのしようがないのです。