◇解脱と慢◇
以前、煩悩の慢について考えたことがありまして、そのことを文章に書いてみようと思います。
人に備わる種々の衝動について、それらを煩悩として捉える考え方があります。
その煩悩の中で、最後まで残るのが慢と言われているようです。
しかし、その慢も解脱の悟りに至ると落ちる訳なのです。
それはどうしてかということを考えた訳です。
その前に、どうして慢が最後まで落ちないのか、その理由を私なりに書いてみます。
大悟では、囚われが薄くなるのに伴って、観るものは観られるものを実感するようになります。
そして、さらに悟りが進むと、私とは意識の連鎖であり、意識そのものであるということを理解するようになります。
しかし、それでも慢は落ちないのです。
その理由は、自らの得た悟りをまだしっかりと掴んでいるからなのです。
自分は到達した、自分は知っているという慢が落ちないのです。
ではどうして、その慢が解脱の悟りに至るのに伴って落ちるのでしょう。
それは、一切皆苦の理解が起こる、あるいはそれが腑に落ちるからなのです。
何もかもが苦であり、私という存在そのもの、この世界そのものが苦である訳ですから、誇るものなど何もなくなる訳です。
慢も落ちるという訳です。
もっともったいぶって書きたかったのに、何だか小話のような軽い感じになってしまいました。(^o^)
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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以前、煩悩の慢について考えたことがありまして、そのことを文章に書いてみようと思います。
人に備わる種々の衝動について、それらを煩悩として捉える考え方があります。
その煩悩の中で、最後まで残るのが慢と言われているようです。
しかし、その慢も解脱の悟りに至ると落ちる訳なのです。
それはどうしてかということを考えた訳です。
その前に、どうして慢が最後まで落ちないのか、その理由を私なりに書いてみます。
大悟では、囚われが薄くなるのに伴って、観るものは観られるものを実感するようになります。
そして、さらに悟りが進むと、私とは意識の連鎖であり、意識そのものであるということを理解するようになります。
しかし、それでも慢は落ちないのです。
その理由は、自らの得た悟りをまだしっかりと掴んでいるからなのです。
自分は到達した、自分は知っているという慢が落ちないのです。
ではどうして、その慢が解脱の悟りに至るのに伴って落ちるのでしょう。
それは、一切皆苦の理解が起こる、あるいはそれが腑に落ちるからなのです。
何もかもが苦であり、私という存在そのもの、この世界そのものが苦である訳ですから、誇るものなど何もなくなる訳です。
慢も落ちるという訳です。
もっともったいぶって書きたかったのに、何だか小話のような軽い感じになってしまいました。(^o^)
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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読んで頂いてありがとうございました。

二人の修行僧が簾をあげました。
指導者は言いました。
「一得一失」
どちらが得でどちらが失なのでしょうか?
もしよろしかったら、教えてください。
宜しくお願い致します。
でも、私はあなたの仰る「目覚めた方」ではありませんので、私なんかに公案を問われても無駄です。(^o^)
それでも、せっかくコメントを頂いたので、やってみましょうか。
それと、上の公案のお膳立てとなる状況設定がいまひとつ不明で、何を聞いているのかよく分からないのですが、まあなんとかやってみますね。
そもそものところが、この公案中の指導者さんが言っているように、すべて「一得一失」なんです。
ですから、どれが得でどれが損だということもないんです。
あると言うなら、観点(切り口)が複数かあり、その観点に応じて得になったり損になったりだけなんです。
この点についてご自身の状態やご意見をお聞かせください。
宜しくお願いします。
tokuさんも、上のいずみさんも、いつもある精神統一さんではないかと思うのですが、まあいいでしょう。(^o^)
夢についてですが、私もよく夢は見ますし、どんなに悟っても夢はみます。
夢の見方がちょっと違ってはきますが、悟りの有無に関係なく夢は見るんです。
その理由は、夢も含めてこの世界は私の意識そのものですから、私が存在する限り、何らかの形で常に世界が展開していくものだからです。
ラジーニが言っていたのではないかと思いますが、悟った人は夢を見ないというのは間違いです。
ラジニーシがもし本当に自分は夢を見てないと思っていたのなら、それは誤解で、自分の夢に気づけてないだけです。
残念ながら、私はいつもある精神統一さんではありません。ハズレです。笑
先ほど覚者は寝ても夢を見ないの出典を見つけたのですが、ラジニーシさんの本でした。(→『信心銘』)
夢を見逃すということは、意識がそれほど明瞭ではなく、まだまだ先があるんでしょうね。
このお話の設定は、ないようで、何かこれだけみたいです。
お坊さんは答えは言ってはいけないみたいで、
誰かに聞いてみたいと思っていました。
もともと得も失もないところに得、失を貼り付けている
そのへんがわかっているかの引っ掛け問題なのかなぁ
と、わたしなりには思っていました。
慧空さまのお考え聞かせて頂けて良かったです。
ありがとうございました。
エネルギー的なはなし
集中
‘ ’
は
実在しない
想像である(想像は可能)
集中(空のなかの想)のない状態が
空つまり自己である
集中(空想)が私である
その力は身体もあらわしてしまう
自己を身体だと思い込むと
身体を大事にするために
生きることになる
自己を
空のなかの想(私)と思い込むと
‘精神集中’を
つまり‘なにかを信じている’ため
その‘信念’をやめない
‘マインド’とは‘信念’である
‘信念’は
信じない境地
をもとめている
幸福(空)をもとめている
のだ
簾をあげて、日差しを得て涼を失いました。2人は分別、2元の暗示でしょうかね。
悟った人なら、簾をあげても日差し涼も(言語、概念は)ありません。妄想(心)が展開しないでしょう。
質問なのですが、囚われの衝動が発生したと気づいたらただ気づくだけでなく、
何故それに囚われるのか囚われる原因も探っていった方がいいのでしょうか?
それともただ気づくだけでいいのでしょうか?
ただ気づくだけでいいです。
原因等を探ってもいいのですが、殆どの場合、そのような努力は無駄に終わります。
その理由は、原因等を探ろうとすると自ずと私の中心から意識がずれるからなのです。
仮に何らかの原因を見つけたと思っても、それは多くの場合誤解です。
ただただ私に意識を向け、考えが衝動が起こる現場に直面しつづければいいんです。