◇意識に関する考察(6)ー主客の統合についてー◇
意識に関する考察に関する記事は、前回の記事で終わりにしたつもりだったのですが、悟りの過程で起こる主客の統合について改めて考えていて、さらに整理がついたといいますか、ハッキリとしてきたところがありますので、記事にしてみたいと思います。
前回までの記事で、私という存在は意識(正確にはパッ、パッ、パッと連鎖的に生じる識の連鎖)であり、そのひとつひとつの識に、その識を認識する自己認識という要素が一体的に含まれていることを書きました。
そして、そもそも主客という概念は誤解であり、その自己認識が私という自我の主体的感覚の源泉であり、そこから客体的感覚も派生していることを書きました。
主客の概念が誤解であることがハッキリしたので、「観るものは観られるもの」等の主客の統合は悟りの本筋ではないだろうと考え、もういいやという具合に追及することなく、ほったらかしにしていました。
ところがつい先日、「梵我一如」や禅の悟りについて改めて考えていて、主客の統合が悟りの行程における誰しもが通る重要なポイントになっていること、その体験に伴う理解にバリエーションがあること、そのバリエーションの原因が明確になってきました。
今回の記事では、この辺りことを書いてみようと思います。
まず、どうして主客の統合が悟りの行程の誰しもが通る重要な通過ポイントなのかについて。
悟りの行程を歩み始める前は、誰しも主体と客体がある世界観にどっぷりと浸って生きてい訳です。
しかし、主客の概念や感覚は、上記の通り我々の誤解又は錯覚なのです。
このため、悟りの行程を歩んでいけば、いずれその誤解又は錯覚に気づいたり、思い込みが剥がれ落ちるときが来るという訳です。
主客の統合体験から得る理解のバリエーションとその原因について。
主客の統合体験をしたときは、その体験に伴って自我又は自我感覚の欠落感(正確には急激な希薄化)が生じるため、その自我感覚の変化に注意が向きやすくなり、素直にそれを表現することが多いと思います。
例えば、「観るものは観られるもの」、「主体がなく客体(対象)だけがある」、「ことがらだけがある」などと表現する人が多いと思います。
また中には、「私はいない」と表現する人もいると思います。
このときの表現には、どうしてもバリエーションが生じやすいものだろうと思います。
表現の奥にあるその人が得た理解の内容が重要であると思います。
この主客の統合体験から得られる理解には、いくつかのバリエーションがあります。
一つ目の例は、上に書いた私(慧空)の理解(悟り)です。
ポイントは、私と世界と意識(正確には自己認識作用を持った識の連鎖)とがイコールの関係「私=意識=世界」になっていることです。
そして重要なところとして、この理解には自ずと一切に絶対(実体)が無いという理解が伴っていることです。
二つ目の例は、ウパニシャッドの系列の「梵我一如」という悟りです。
梵我一如の意味は、我は私という自我のことで、梵はこの世界を生じさせているモノ(法と言ったりもするようです)のことで、その梵と私が一つの同じものだという意味です。
ここで特筆すべきは梵の捉え方で、梵を恒久不滅な実存としている点です。
また、この梵我一如という理解では、梵と我を合わせて意識(一部には、意識に含まれる自己認識作用に関する理解に到達している例もあるようです)と言ったりもするようです。
私である我を意識と理解する点は、上記の一つ目の例である私の理解と類似していますが、少なくとも梵を絶対のものとして捉えてしまっている点が大きく異なっています。
絶対のものなどどこにも無いのに、恒久不滅なものとして梵を掲げてしまっている点で誤っています。
この誤りは、絶対的なものに対する執着が原因です。
三つ目の例は、禅系の悟りです。
一概に禅系の悟りと言っても結構な幅があるようで、明確にこれだと指摘するのは難しいのですが、心身脱落(私が外野から眺めてわかった範囲のものですが)のあたりを例としたいと思います。
どういう悟りか、エイヤッとまとめると、自我の脱落(私が無い)を一番のポイントとしていて、対象だけになる、あるいはことがらだけになるという悟りのようです。
この悟りも、「対象だけになる」等の様子から主体の急激な欠落又は欠落感を伴うもので、主客の統合体験の一種であると考えられます。
しかし、少なくともそのポイントとしてる点「自我の脱落(私が無い)」で、上記の一つ目の例である私の理解と大きく異なっています。
正しくは、私という自我は実体が無いのであって、私が無いというのは誤りなのです。
私という自我に対する正しい理解は、実に微妙であり、実体が無いのはハッキリしていますが、有るか無いについてはどちらとも言えないのです。
しかし、悟りを進めていくためには、何らかのやり方で「私」に意識を向けることになりますから、無いよりも有るという観点に立って「私」に意識を向けた方がやりやすいだろうと思います。
禅では、「自我の脱落」が伝統となってしまっている中、修行が行われるため、「私」に対する着眼も追及も不十分のまま、急激な自我感覚の変化に遭遇します。
このため、自我が滅したと誤解し、嵌まり込んでしまい、その後の「私」に対する追及も進みません。
対象だけになったと言いながら、その対象に関する認識が起こっているはずなのに、それに対する着眼や追及が起こらないのです。
そうなる原因は、伝統となってしまっている自我の脱落という形への依存や執着です。
あるいは、伝統そのものに対する依存、執着が原因と言ってもいいです(この点はウパニシャッドの系列にいる人々も同じです)。
読み返してみて、書きにくい内容を一気に書いたのであちこち粗削りな内容になっていますね^^;
後日、加筆、修正するかもしれません。
意識の成り立ちと主客の統合について書いていたら、ウパニシャッドの悟り、禅の悟りに対する批判記事のようになってしまいました^^;
記事を分けようかとも思ったのですが、まとめて書いた方が微妙な部分についてわかりやすいところもあるかと考え、まとめて書きました。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
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コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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意識に関する考察に関する記事は、前回の記事で終わりにしたつもりだったのですが、悟りの過程で起こる主客の統合について改めて考えていて、さらに整理がついたといいますか、ハッキリとしてきたところがありますので、記事にしてみたいと思います。
前回までの記事で、私という存在は意識(正確にはパッ、パッ、パッと連鎖的に生じる識の連鎖)であり、そのひとつひとつの識に、その識を認識する自己認識という要素が一体的に含まれていることを書きました。
そして、そもそも主客という概念は誤解であり、その自己認識が私という自我の主体的感覚の源泉であり、そこから客体的感覚も派生していることを書きました。
主客の概念が誤解であることがハッキリしたので、「観るものは観られるもの」等の主客の統合は悟りの本筋ではないだろうと考え、もういいやという具合に追及することなく、ほったらかしにしていました。
ところがつい先日、「梵我一如」や禅の悟りについて改めて考えていて、主客の統合が悟りの行程における誰しもが通る重要なポイントになっていること、その体験に伴う理解にバリエーションがあること、そのバリエーションの原因が明確になってきました。
今回の記事では、この辺りことを書いてみようと思います。
まず、どうして主客の統合が悟りの行程の誰しもが通る重要な通過ポイントなのかについて。
悟りの行程を歩み始める前は、誰しも主体と客体がある世界観にどっぷりと浸って生きてい訳です。
しかし、主客の概念や感覚は、上記の通り我々の誤解又は錯覚なのです。
このため、悟りの行程を歩んでいけば、いずれその誤解又は錯覚に気づいたり、思い込みが剥がれ落ちるときが来るという訳です。
主客の統合体験から得る理解のバリエーションとその原因について。
主客の統合体験をしたときは、その体験に伴って自我又は自我感覚の欠落感(正確には急激な希薄化)が生じるため、その自我感覚の変化に注意が向きやすくなり、素直にそれを表現することが多いと思います。
例えば、「観るものは観られるもの」、「主体がなく客体(対象)だけがある」、「ことがらだけがある」などと表現する人が多いと思います。
また中には、「私はいない」と表現する人もいると思います。
このときの表現には、どうしてもバリエーションが生じやすいものだろうと思います。
表現の奥にあるその人が得た理解の内容が重要であると思います。
この主客の統合体験から得られる理解には、いくつかのバリエーションがあります。
一つ目の例は、上に書いた私(慧空)の理解(悟り)です。
ポイントは、私と世界と意識(正確には自己認識作用を持った識の連鎖)とがイコールの関係「私=意識=世界」になっていることです。
そして重要なところとして、この理解には自ずと一切に絶対(実体)が無いという理解が伴っていることです。
二つ目の例は、ウパニシャッドの系列の「梵我一如」という悟りです。
梵我一如の意味は、我は私という自我のことで、梵はこの世界を生じさせているモノ(法と言ったりもするようです)のことで、その梵と私が一つの同じものだという意味です。
ここで特筆すべきは梵の捉え方で、梵を恒久不滅な実存としている点です。
また、この梵我一如という理解では、梵と我を合わせて意識(一部には、意識に含まれる自己認識作用に関する理解に到達している例もあるようです)と言ったりもするようです。
私である我を意識と理解する点は、上記の一つ目の例である私の理解と類似していますが、少なくとも梵を絶対のものとして捉えてしまっている点が大きく異なっています。
絶対のものなどどこにも無いのに、恒久不滅なものとして梵を掲げてしまっている点で誤っています。
この誤りは、絶対的なものに対する執着が原因です。
三つ目の例は、禅系の悟りです。
一概に禅系の悟りと言っても結構な幅があるようで、明確にこれだと指摘するのは難しいのですが、心身脱落(私が外野から眺めてわかった範囲のものですが)のあたりを例としたいと思います。
どういう悟りか、エイヤッとまとめると、自我の脱落(私が無い)を一番のポイントとしていて、対象だけになる、あるいはことがらだけになるという悟りのようです。
この悟りも、「対象だけになる」等の様子から主体の急激な欠落又は欠落感を伴うもので、主客の統合体験の一種であると考えられます。
しかし、少なくともそのポイントとしてる点「自我の脱落(私が無い)」で、上記の一つ目の例である私の理解と大きく異なっています。
正しくは、私という自我は実体が無いのであって、私が無いというのは誤りなのです。
私という自我に対する正しい理解は、実に微妙であり、実体が無いのはハッキリしていますが、有るか無いについてはどちらとも言えないのです。
しかし、悟りを進めていくためには、何らかのやり方で「私」に意識を向けることになりますから、無いよりも有るという観点に立って「私」に意識を向けた方がやりやすいだろうと思います。
禅では、「自我の脱落」が伝統となってしまっている中、修行が行われるため、「私」に対する着眼も追及も不十分のまま、急激な自我感覚の変化に遭遇します。
このため、自我が滅したと誤解し、嵌まり込んでしまい、その後の「私」に対する追及も進みません。
対象だけになったと言いながら、その対象に関する認識が起こっているはずなのに、それに対する着眼や追及が起こらないのです。
そうなる原因は、伝統となってしまっている自我の脱落という形への依存や執着です。
あるいは、伝統そのものに対する依存、執着が原因と言ってもいいです(この点はウパニシャッドの系列にいる人々も同じです)。
読み返してみて、書きにくい内容を一気に書いたのであちこち粗削りな内容になっていますね^^;
後日、加筆、修正するかもしれません。
意識の成り立ちと主客の統合について書いていたら、ウパニシャッドの悟り、禅の悟りに対する批判記事のようになってしまいました^^;
記事を分けようかとも思ったのですが、まとめて書いた方が微妙な部分についてわかりやすいところもあるかと考え、まとめて書きました。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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