◇意識に関する考察(5)ー続々・自己認識と主客の問題についてー◇
前回の記事「意識に関する考察(4)ー続・自己認識と主客の問題についてー」の続きです。
前回の記事では、我々が日常的に得ている主客の感覚や認識は、誤解であり幻想であろうと書きました。
今回は、これまで書いた一連の記事のまとめ的なものを書こうと思います。
まず、今回の考察での結論をまとめます。
何かを認識するという現象には、その何かに関する認識現象(例えば、目の前のパソコン画面を目で見たときの画像に関する認識)の他に、その認識そのものを認識する現象(これをここでは自己認識と言っています)が同時かつ一体に含まれている。
例えば、私(主体)がパソコン画面(客体)を認識しているというような、我々の日常的な主客の感覚や認識は、誤解あるいは幻想であり、本質的なものではない。
認識という現象の本質には、自己認識という現象が含まれており、それが私という自我の主体性に関する感覚や、この世界の物質的な存在感の源泉であり、核心部分になっている。
また、私を含むこの世界は、ひとコマ、ひとコマの意識(認識と言ってもいいです)が映画フィルムのように連鎖的に連なったようなものと捉えることができ、この意識の展開のひとコマひとコマにおいて、言わば主体的な要素に相当する自己認識と、その客体的な要素に相当する認識とが言わば表裏一体に統合された状態で常に生じている。
以前、「自我の二相性と主客の統合」という記事では、自我には二つの相があり、私(主体)と対象(客体)とが分離したように感じる相と、主客が統合しているように感じる相とがあると書きました。
上記の観点から、この記事の自我の捉え方は、私の理解不足のため、未熟で筋の良くないものとなっています。
すみません。
記事は、一応その時点では私の理解に沿ったものになっておりますので、削除せずに残します(後で、記事の最後に補足コメントを付けるかもしれません)。
主客の概念そのものが誤解であり、本質的なものではありませんから、主客の統合というような現象はあり得ないのです。
悟りが深まる過程で、意識の集中力の高まりに伴い、私という自我感覚の欠落感が生じることで、私が対象と一体になったかのような「観るものは観られるもの」という錯覚が生じているに過ぎません。
主体的な要素に相当する自己認識と、客体的な要素に相当する認識とは、意識の展開の中で、分離することなく常に一体に生じています。
これで、今回の一連の記事を終わりにしたいと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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今回は、これまで書いた一連の記事のまとめ的なものを書こうと思います。
まず、今回の考察での結論をまとめます。
何かを認識するという現象には、その何かに関する認識現象(例えば、目の前のパソコン画面を目で見たときの画像に関する認識)の他に、その認識そのものを認識する現象(これをここでは自己認識と言っています)が同時かつ一体に含まれている。
例えば、私(主体)がパソコン画面(客体)を認識しているというような、我々の日常的な主客の感覚や認識は、誤解あるいは幻想であり、本質的なものではない。
認識という現象の本質には、自己認識という現象が含まれており、それが私という自我の主体性に関する感覚や、この世界の物質的な存在感の源泉であり、核心部分になっている。
また、私を含むこの世界は、ひとコマ、ひとコマの意識(認識と言ってもいいです)が映画フィルムのように連鎖的に連なったようなものと捉えることができ、この意識の展開のひとコマひとコマにおいて、言わば主体的な要素に相当する自己認識と、その客体的な要素に相当する認識とが言わば表裏一体に統合された状態で常に生じている。
以前、「自我の二相性と主客の統合」という記事では、自我には二つの相があり、私(主体)と対象(客体)とが分離したように感じる相と、主客が統合しているように感じる相とがあると書きました。
上記の観点から、この記事の自我の捉え方は、私の理解不足のため、未熟で筋の良くないものとなっています。
すみません。
記事は、一応その時点では私の理解に沿ったものになっておりますので、削除せずに残します(後で、記事の最後に補足コメントを付けるかもしれません)。
主客の概念そのものが誤解であり、本質的なものではありませんから、主客の統合というような現象はあり得ないのです。
悟りが深まる過程で、意識の集中力の高まりに伴い、私という自我感覚の欠落感が生じることで、私が対象と一体になったかのような「観るものは観られるもの」という錯覚が生じているに過ぎません。
主体的な要素に相当する自己認識と、客体的な要素に相当する認識とは、意識の展開の中で、分離することなく常に一体に生じています。
これで、今回の一連の記事を終わりにしたいと思います。
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読んで頂いてありがとうございました。
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識と六根について、初心者(私)にもわかりやすい記述を頂けたら嬉しいと考えております。
識について、ぱっぱつと起こってくる、とあるのですが、ぱっと何が起こってくるのでしょうか?感情でしょうか?何かの画像でしょうか?それとも、もっと何か元素的な考えの要素のようなものが起こってくるのでしょうか?
上に関連しまして六根とはなんなのでしょうか?我々の考えを構成する6個の元素的な要素のようなものなのでしょうか?6個しかないとすると組み合わせは有限ですね。その有限な組み合わせで我々の考えや感情や全ての精神活動が構成されていると言うようなそう言う概念なのでしょうか?
どこかにすでに記事がある場合は、urlだけで構わないですし、解説がアップデートされることもあるかと思うので、新しい記事がアップされるとすると嬉しいです。
記事を書けるかどうか考えてみたのですが、直ぐには書けそうにありません、ごめんなさい。
記事は書こうとしてもなかなか書けませんで、いつもスーッと浮かんできて最後までスルスルと書けたものだけが記事になっている感じで、書いてる途中で最後まで書けずにボツになってしまう記事が結構多いのです。
ちなみに、六根は五感と意(思考や感情等)を合わたもので、私たちの意識の基本的な要素です。
私たちの意識は、刻々と変化しつつ展開しつづけておりますが、その展開は、連続的なものではなく、多数のコマが連なって構成される映画のフィルムのように、数十分の1秒から数百分の1秒くらいの微小な識が、パッパッパッと連鎖的に連なって構成されています。
識と識との間は、何も無い完全な無です。
頭痛や腹痛、関節痛、筋肉痛、それと身体の内部で生じる微妙な感覚など、これらは五感のうちの触覚に含ませるには無理があり、六根から漏れてしまっているようです。
識は慧空さん独自の概念なのでしたっけ?識が映画のコマのようにパッパと発生しているコマ単位のことなのかもしれないですね。
いつか記事ができるのを楽しみにしてます。