私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

自由意志の不思議

2022年05月15日 13時16分44秒 | 私の成り立ち
◇自由意志の不思議◇

自由意志については、このブログでも何回か書いたことがあるのですが、もう一度改めて書いてみようと思います。

自由意志、発意と言ってもいいですが、これは自我の本質的要素の一つになっています。
しかし、本質的要素であるにも関わらず、捉えるのが非常に困難であり、また誤解も多く(むしろ誤解ばかり)、とても難しくやっかいなものです。
今回の記事では、そういう自由意志の不思議さについて書いてみたいと思います。

自由意志について、日常的な素直な感覚を言えば、自分には自由な意志が実感としてあると思います。
手や足は自分の思った通り動かせるし、頭の中で考えごとをするときも自由に考えを巡らせることができます。
これは極めて重要かつ本質的なことであり、この観点からは自由意志はあると考えるのが妥当だと思われます。

では次に、私という意識を微細要素に分解して観たときどうなるかについて説明したいと思います。
私という意識は、連鎖的に展開する識の連鎖として捉えることができます。
識とは、意識の識であり、六根(五感と意)に関連した認識の最小単位のことです。
この識が、映画のフィルム映像のように断続的にパッ、パッ、パッと止めどなく連鎖的に展開していくことで、私という意識が繰り広げられていくようになっています。
ちなみに、識と識との間の時間間隔は、体感的な数値ですが数十から千分の一秒くらいの間隔だろうと考えています(これは私の感覚に基づくものです)。

このような観点から私という意識を観たとき、識はパッ、パッ、パッとフィルム映画のように連鎖的にただ展開していくだけですので、そこには自由意志が介在する余地がなく、自由意志は幻想のように思えます。
もっと明確に言うとすると、この観点からは自由意志は存在せず、幻想であると考えるのが妥当だと思われます。

このように自由意志は、日常的な観点(マクロの観点)だとしっかりと実感できるのに、私という意識を微細に観たとき(ミクロの観点)、その関連する要素を含めて姿を消してしまうのです。

ここで大切なことは、いずれのか一方の観点が間違っているのではなく、おそらくどちらの観点も正しいと考えるべきだということです。
ここが自由意志の不思議なところであり、難しく、誤解も生じやすいところだと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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読んで頂いてありがとうございました。

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