◇自我と真我とバランス◇
私という存在は、個という意識である自我と全体意識である真我の二面性があるんだということを、ここに何度も書いてきました。
自我も私であり、真我も私なのです。
いずれか一方のみで私という存在は成り立ちません。
悟りの道を歩まれる多くの方は、真我に関する体験や理解が生じると、その体験等があまりに鮮烈であったり、心地良いため、その体験に酔ってしまいます。
そして、その真我に対する体験等を抱え込んでしまいます。
そのような方々は、「私という自我は幻であり錯覚だ」と言います。
そして、「真我こそが真実だ」、「愛こそが真実だ」等と言います。
しかし私としては、自我だけじゃなく、真我も根源も不二も一元も愛も、幻であり錯覚ですよと言いたいのです。
そのような方々は、真我に酔ってしまい、自分を見失い、主体性を喪失してしまっているのです。
もう一度、自分に意識を向け、主体性を取り戻していただきたいと思います。
自分には意思があり、その意思により行動を起こし、歩んで来たし、またこれからも歩んでいくんだということをしっかり自覚して頂きたいと思います。
あなたにとって、自我はまだ幻ではないはずです。
安易にごまかさないでいただきたいと思います。
私という自我が錯覚だという考えに囚われずに、目を逸らさず自我としっかりと向き合っていただきたいと思います。
なぜなら、あなたがどうするかという展開の方向性を決めているのは、あなたという自我なのですから。
あなたという存在の主導権はあなたの自我にあるのですから。
徹底的にあなたという自我と向き合っていただきたいと思います。
そうすればいずれ、自我が十分に滅せられ、自我がその主導権を手放すときがきます。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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私という存在は、個という意識である自我と全体意識である真我の二面性があるんだということを、ここに何度も書いてきました。
自我も私であり、真我も私なのです。
いずれか一方のみで私という存在は成り立ちません。
悟りの道を歩まれる多くの方は、真我に関する体験や理解が生じると、その体験等があまりに鮮烈であったり、心地良いため、その体験に酔ってしまいます。
そして、その真我に対する体験等を抱え込んでしまいます。
そのような方々は、「私という自我は幻であり錯覚だ」と言います。
そして、「真我こそが真実だ」、「愛こそが真実だ」等と言います。
しかし私としては、自我だけじゃなく、真我も根源も不二も一元も愛も、幻であり錯覚ですよと言いたいのです。
そのような方々は、真我に酔ってしまい、自分を見失い、主体性を喪失してしまっているのです。
もう一度、自分に意識を向け、主体性を取り戻していただきたいと思います。
自分には意思があり、その意思により行動を起こし、歩んで来たし、またこれからも歩んでいくんだということをしっかり自覚して頂きたいと思います。
あなたにとって、自我はまだ幻ではないはずです。
安易にごまかさないでいただきたいと思います。
私という自我が錯覚だという考えに囚われずに、目を逸らさず自我としっかりと向き合っていただきたいと思います。
なぜなら、あなたがどうするかという展開の方向性を決めているのは、あなたという自我なのですから。
あなたという存在の主導権はあなたの自我にあるのですから。
徹底的にあなたという自我と向き合っていただきたいと思います。
そうすればいずれ、自我が十分に滅せられ、自我がその主導権を手放すときがきます。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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お言葉、こちらこそありがとうございます。
でも灯明だなんて、私にはそんな言葉はもったいなくてそぐわないです。(^_^;)
私はただやりたいことをやり、書きたいことを書いているだけですから。
100パーセントの自己中人間です。(^o^)
私は真我や自覚の理解も覚束ない無知な者なので彗空さんの記事も浅はかなニュアンスで感じている程度の理解に過ぎないなのですが、彗空さんは自らが自灯明の在り方で、悟りを歩まれている様々な段階の方々の道標(灯明)に生られているんだと感じています。
無想三昧、無種子三昧、解脱~これからも生の実践探究史である彗空さんのブログを参照し生かせられるようになれれば幸いです。
彗空さんもお体大事に過ごされてくださいね(一礼)
上の私のコメントの補足をさせてください。
寝る前に慌てて書いたので、また舌足らずになってしまいました^^
自我が十分に滅せられた状態というのは、正確に言うと、最終的な悟りである解脱の悟りを得た状態のことを言っています。
そして、解脱の悟りとは、私の言葉で言うと、自我が一切の考えを掴まなくなることです。
解脱の悟りの一つ前の段階である真我の完全覚醒(第二段階の真我の覚醒)が起きた状態でも、「私という存在が行為(行動)そのものに成っている状態」か、それに近い状態になるようですが、
この段階に到達したばかりの方や、この段階で留まっておられる方は、真我に関する考え(例えば、真我が絶対的なものだ等)や、私は真我に覚醒したんだという考えや、この悟りはこの上なく素晴らしものだ等の考えを掴んでしまっています。
このような考えを掴むのは、自我がすることですから、そのような方々はまだ自我が十分に滅せられているとは言えず、よって、まだ迷い(考え)の中でおられます。
また、自我が十分に滅せられて初めて、自我が主体性及び主導権を喪失するのですが、
自我の滅却が不十分な方は、その方の主導権は常に自我が握っています。
しかし、そのような方の多くは、自我が主導権を握っているのにかかわらず、それを自覚できていないため、主体性が喪失してしまっているのです。
ここに気づかないことには、いつまで経っても、またいつまで待っても、悟りは終わりません。
上の記事で私が言いたかったのは、ここなのです。
何か考えを握りしてめているうちは、あなたの自我はまだまだ残っていますよ、それに気づいてくださいと言いたいのです。
そして、まだ残っている自我の存在に気づき、主体性を取り戻してくださいと言いたいのです。
コメントありがとうございます。
上の私の文章はわかりにくかったですね、ごめんなさい^^
自我が十分に滅せられたとき初めて、自我は主体性及び主導権を喪失します。
そしてそのときは、水泡さんのご指摘のように、一つの見方あるいは理解として、
「私という存在が行為(行動)そのものに成っている状態だと解釈しています」
そのような理解が得られます。
微妙な感覚ですから、覚者によって見方や表現の仕方は少しずつ異なるのでしょうが。
>そこで根本的に彗空さんがおっしゃる自我に徹底的に向き合うということとは具体的にはどういうことを言っているのでしょうか?
(徹底的な《自覚》の実践ということでしょうか?)
はい、まさにその通りです。
何か考えをつかんでしまうと、考えをつかんでいることに気づかなくなってしまい、そこで自覚が止まってしまうのです。
それが素晴らしい真我の体験なら尚更さらなのです。
その私が、自我を滅し主体性を持って生きるということは、目の前の現象を分別、判断することなくありのまま受け入れ肉体苦にも捉らわれず全身全霊で生きている状態。則ち、私という存在が行為(行動)そのものに成っている状態だと解釈しています。…(違っていたらご教授ください)
そこで根本的に彗空さんがおっしゃる自我に徹底的に向き合うということとは具体的にはどういうことを言っているのでしょうか?
(徹底的な《自覚》の実践ということでしょうか?)