◇大悟をめぐるハートと明け渡しの関係など◇
ある方からメールで質問を頂きまして、それに対するお答えをしたのですが、その内容を少し編集して、記事にしてみようと思います。
ご質問の大凡のポイントは、大悟を得るとき、ハートの中心にある「私」という感覚のコアに意識を集中すると、どうしてそのコアが消失するのかという点と、その周辺のことについてでした。
以下、私の回答です。
ご質問の件ですが、正直なところ、私もよく分からないところが多いのです。
ハッキリと分かっていることは、
大悟以前はハートの中心に私という感覚のコア(1センチくらい)があること、
そこに意識を徹底的に集中すると、あるとき、そのコアがこつ然と消失し、それに伴って、主客の統合、つまり「観るものは観られるもの」の悟り である大悟が起きるということ、
だけなのです。
ご質問のポイントである、コアがどうして溶けるのかについては、正直なところ、よく分からないのです。
ごめんなさい。
ただ、最近、明け渡しとの関係でちょっと分かったことがありました。
実は、よく言われる普通の明け渡しは、主に外側に向けての明け渡しなのです。
と言うことは、明け渡しにはもう一つあるのです。
それは、私自身を受け入れる内面に向けての明け渡しなのです。
どうやら、この私を受け入れる明け渡しと、大悟とが密接に関係しているようなのです。
なぜそう思ったのかと言うと、普通に言われる明け渡しを経験した人の多くは、私の場合も含めて、外側で起こる現象についてはほぼそれらを受け入れているため、平穏に観ているのですが、自分の内面から起こる感情や思考については、まだ受け入れが不完全で、自己否定したり、観て観ぬふりをしたり、どこかモヤモヤとしている人が多いのです。
ところが、大悟を経た人は、外側の事柄だけでなく、自分に対しても完全にオッケーを出している人が多いことに気づいたのです(私自身を含めて)。
それで、ああそうか、そういうことかと理解した訳なのです。
どうやら、ハートの中心にあるコアに意識を集中すると、それを意図せずとも、自分自身に対する受け入れが自ずと起こるようになっているようです。
それと、もう一つ分かったことは、明け渡しは、外に向けた明け渡しも、内に向けた明け渡しも、どちらも、ハートがポイントになっているということです。
外に向けた明け渡しに伴って、ハートが開き、それに伴ってクンダリニが起こって、クラウンチャクラも開くのですが、このとき、ハートが要になっているんです。
そして、内に向けた明け渡しに伴って、私という感覚のコアとともに、ハートがほぼ完全に消失するんです。
私としては、どうやら、自我が握り締めた考えの集合との関係で、ハートが二重構造になっているのだと思っています。
外側が扉状の構造で、その中にコアがあり、扉を開いて中のコアを消失させると、ハートがほぼ完全に消えてしまうという構造になっているように思います。
それと、「私」をしっかりと捉えた状態で大悟に突入することがとても重要であることは間違い無いようです。
なぜなら、大悟に至ると、本当に自我が薄くなってしまうので(ハートの感覚が無くなるのが大きいと思います)、「私」を捉えられていない人が大悟に至ると、「私」を完全に見失ってしまうのです。
現に、そうなっている人をネット上で見つけまして、その人の言っていることを読むと、「私」はもう完全に消失しているんだと思い込んでしまっていて、そこからもうどうにもならない様子なのです。
そうなると、袋小路から抜け出せなくなるのです。
以上です。
なお、誤解のないように書きますと、ハートも、その中心にあるコアも、有ると言えば有るのですが、そこは「私」と同じで、有ると言えば有るし、無いと言えば無いという、実体が無いものなのです。
あらゆることがらに、絶対や実体は無い、ここは大前提なのです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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ある方からメールで質問を頂きまして、それに対するお答えをしたのですが、その内容を少し編集して、記事にしてみようと思います。
ご質問の大凡のポイントは、大悟を得るとき、ハートの中心にある「私」という感覚のコアに意識を集中すると、どうしてそのコアが消失するのかという点と、その周辺のことについてでした。
以下、私の回答です。
ご質問の件ですが、正直なところ、私もよく分からないところが多いのです。
ハッキリと分かっていることは、
大悟以前はハートの中心に私という感覚のコア(1センチくらい)があること、
そこに意識を徹底的に集中すると、あるとき、そのコアがこつ然と消失し、それに伴って、主客の統合、つまり「観るものは観られるもの」の悟り である大悟が起きるということ、
だけなのです。
ご質問のポイントである、コアがどうして溶けるのかについては、正直なところ、よく分からないのです。
ごめんなさい。
ただ、最近、明け渡しとの関係でちょっと分かったことがありました。
実は、よく言われる普通の明け渡しは、主に外側に向けての明け渡しなのです。
と言うことは、明け渡しにはもう一つあるのです。
それは、私自身を受け入れる内面に向けての明け渡しなのです。
どうやら、この私を受け入れる明け渡しと、大悟とが密接に関係しているようなのです。
なぜそう思ったのかと言うと、普通に言われる明け渡しを経験した人の多くは、私の場合も含めて、外側で起こる現象についてはほぼそれらを受け入れているため、平穏に観ているのですが、自分の内面から起こる感情や思考については、まだ受け入れが不完全で、自己否定したり、観て観ぬふりをしたり、どこかモヤモヤとしている人が多いのです。
ところが、大悟を経た人は、外側の事柄だけでなく、自分に対しても完全にオッケーを出している人が多いことに気づいたのです(私自身を含めて)。
それで、ああそうか、そういうことかと理解した訳なのです。
どうやら、ハートの中心にあるコアに意識を集中すると、それを意図せずとも、自分自身に対する受け入れが自ずと起こるようになっているようです。
それと、もう一つ分かったことは、明け渡しは、外に向けた明け渡しも、内に向けた明け渡しも、どちらも、ハートがポイントになっているということです。
外に向けた明け渡しに伴って、ハートが開き、それに伴ってクンダリニが起こって、クラウンチャクラも開くのですが、このとき、ハートが要になっているんです。
そして、内に向けた明け渡しに伴って、私という感覚のコアとともに、ハートがほぼ完全に消失するんです。
私としては、どうやら、自我が握り締めた考えの集合との関係で、ハートが二重構造になっているのだと思っています。
外側が扉状の構造で、その中にコアがあり、扉を開いて中のコアを消失させると、ハートがほぼ完全に消えてしまうという構造になっているように思います。
それと、「私」をしっかりと捉えた状態で大悟に突入することがとても重要であることは間違い無いようです。
なぜなら、大悟に至ると、本当に自我が薄くなってしまうので(ハートの感覚が無くなるのが大きいと思います)、「私」を捉えられていない人が大悟に至ると、「私」を完全に見失ってしまうのです。
現に、そうなっている人をネット上で見つけまして、その人の言っていることを読むと、「私」はもう完全に消失しているんだと思い込んでしまっていて、そこからもうどうにもならない様子なのです。
そうなると、袋小路から抜け出せなくなるのです。
以上です。
なお、誤解のないように書きますと、ハートも、その中心にあるコアも、有ると言えば有るのですが、そこは「私」と同じで、有ると言えば有るし、無いと言えば無いという、実体が無いものなのです。
あらゆることがらに、絶対や実体は無い、ここは大前提なのです。
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読んで頂いてありがとうございました。
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多分一般的にそうだと私は思っているのですが、その胸痛を感じる大きさが1cm程度といえばいえなくないし、場所もハートに近いので、胸痛を感じる場所がハートでしょうか?、というのが質問です。
よろしくお願いします。
ハートのコアは、切なさでキュンとなるところです。
私はあさんが仰る胸痛のことはよく分からないのですが、おそらく胸痛の部分と同じだろうと思います。
上の私の記事を改めて読み返してみたのですが、この頃はまだ悟り階層に関する理解が不十分だったようで、私の今の認識とのズレがチラホラとあります。
訂正せずに放置しておりまして、すみません。
ご質問内容について、上の私の記事の内容の修正も兼ねて説明させていただきますね。
まず一点目、
悟りには階層構造があり、順番があります。
大悟に至るには、小悟を経る必要があります。
二点目、
上の記事では、ハートのコアが消失すると大悟に至ると言ってしまっていますが(この頃は私自身、そういう理解だったのですが)、それだけでは大悟とはなりません。
ハートのコアの消失に伴う自我感覚の急激な希薄化により、「観るものは観られるもの」という体験が生じます。
しかし、これだけでは大悟とはならず、大悟に至るためには、私、意識、世界の関係についての理解が完了する必要があります。
それで、大悟に至るにはどうしたらいいのかという点についてですが、
正直なところ、私は良い方法は知らないです。
上の記事を書いた頃は、ハートのコアを消失させれば大悟に至ると考えていたので、ハートのコアを消失させるべくコアに意識を集中する方法もあるのではないかと考えていたのですが、現在はやや疑問です(ごめんなさい)。
ちなみに、私が当時(大悟に至る前に)やっていたことはと言いますと、普通の自覚と、ハートのコアへの意識の集中なのです。
そうしたら、ある朝突然、ハートのコアが消失し、それに伴って「観るものは観られるもの」を体験しました。
その後暫くして、私、意識、世界に関する理解が完結しました。
お答えになってないかも知れませんが、さらにご質問がおありでしたら遠慮なくどうぞです。
さて、今の段階での質問になってしまいますが、小悟、大悟、解脱という段階があるという解説された記事とは別に「見性を得る」という言葉が出てくるページもあります。小悟、大悟、解脱と見性とはどのような関係にあるのでしょうか?