◇死後の世界や輪廻のことについて◇
死後の世界や輪廻のことは、悟りや自覚とは直接的な関係はなく、むしろ邪魔になりかねないため、このブログでは意図的に触れないようにしてきました。
でも、このブログ付設の掲示板の方でご質問を頂きまして、いい機会かも知れないと思い私の考えをお答えすることにしました。
それで、そのお答えの内容を少しアレンジしてこのブログにも掲載することにしました。
なお、念のために申し上げておきますと、死後の世界や輪廻のことを全く知らないでも最後の解脱の悟りに到達できますので、これらのことに余り気を取られないようしていて頂きたいと思います。
そういう私自身も殆ど知らないまま最後まで到達してしまいました。
最初にまず、ハッキリとさせておきたい点は、すべてのことは考えであるということです。
この点は決して揺るがないのです。
ですから、霊界や天界等の死後の世界も輪廻も考えなのです。
しかしです。
ここがひとつ重要な点なのですが、考えであるという点では、私の肉体を含めたこの現実世界も考えなのです。
考えであるという点では、死後の世界も現実世界も同等であり、変わりはないのです。
違いがあるとすると、いま現時点の私という自我の本拠地が現実世界であるということだけです。
生きてるうちは、私という自我の本拠地がこの現実世界であるという点については、納得しやすいと思います。
問題は、死んだらどうなるかというところだと思います。
要するに、霊界や天界等の死後の世界は存在するのかということです。
この点に関する私の理解というか実感として感じていることを書きますと、霊界や天界等の死後の世界は、この現実世界と殆ど同じようなリアリティを持って存在しています、ということになります。
私は、過去世の記憶もありませんし、霊界や天界に対する実体験もありません。
ただ、一昨年暮れの明け渡し体験の直後から、どうやらこの現実世界と同じようにして霊界や天界がありそうだという理解というか感覚が生じるようにはなっていました。
でも、その感覚はとても曖昧なもので、確信的なものではなかったため、私は死後の世界や輪廻のことについて疑っているようなところもかなりありました。
その疑いは、二つの体験的理解により消えていき、どうやら霊界や天界等の死後の世界を含めた、輪廻というものがあるんだいう確信に変わっていきました。
その体験的理解の一つ目は、大悟した後に何度も経験した涅槃(完全な無我であり、気絶状態です)に落ちる体験に伴うものです。
具体的にどういう体験かと言いますと、大悟した状態、つまり「見るものは見られるもの」になり、自我である主体と、その対象である考え(客体)とが統合した状態で、しかも、自我としっかりと捉えた状態で涅槃に落ちると、涅槃から自我に帰ってきた瞬間とその直後に、私という自我である意識の連鎖現象とても鮮明に体験することができるのです。
つまり、私という存在がパッ、パッ、パッっと連鎖的に起こってくる考え(意識)そのものであるということが如実に体験できるのです。
私は、この体験により、私という存在の本質は意識の連鎖であり、この肉体の体験は、その連鎖の中で一時的に現れてくる考え(現象)に過ぎないのだと理解しました。
この意識の連鎖を止めないことには、仮に肉体が滅んでも、連鎖する考えの中身(現象)が変わるだけで、私という自我の意識はそのまま続いていくんだということを理解したんです。
それで、霊界や天界等の死後の世界を含めた輪廻についても理解しました。
もう一つの体験的理解は、解脱の悟りを得た後のものです。
どういうものかと言いますと、私のブログにも書きましたが、解脱の悟りを得て確か4、5ヶ月ほどしたころに、自我の意識(正解には観照意識)が目覚めた状態のまま眠りに入っていくという体験を暫くの間、毎日のように体験したんです。
もう少し分かりやすく書きますと、意識が半分か何分の一の割合で目覚めた状態のまま眠りに入っていくんです。
すると、眠りに入るのに伴って、見えている世界(風景)が、この現実世界の風景(目をつむってますから普通に暗闇です)から眠りの世界の風景にすうっと変わるのです。
私はこの体験から、現実世界と夢の世界の間に本質的な違いは何もないこと、そして、夢の世界が死後の世界と殆ど違いがないこと、また、眠りに落ちていくときの感覚は、死んでいくときの感覚と殆ど違いがないこと、を直感的かつ確信的に理解しました。
そういう訳で、私は、死後の世界や輪廻は考えではありますが、この現実世界と同じように存在していると言うことにしております。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
スピリチュアル ブログランキングへ
死後の世界や輪廻のことは、悟りや自覚とは直接的な関係はなく、むしろ邪魔になりかねないため、このブログでは意図的に触れないようにしてきました。
でも、このブログ付設の掲示板の方でご質問を頂きまして、いい機会かも知れないと思い私の考えをお答えすることにしました。
それで、そのお答えの内容を少しアレンジしてこのブログにも掲載することにしました。
なお、念のために申し上げておきますと、死後の世界や輪廻のことを全く知らないでも最後の解脱の悟りに到達できますので、これらのことに余り気を取られないようしていて頂きたいと思います。
そういう私自身も殆ど知らないまま最後まで到達してしまいました。
最初にまず、ハッキリとさせておきたい点は、すべてのことは考えであるということです。
この点は決して揺るがないのです。
ですから、霊界や天界等の死後の世界も輪廻も考えなのです。
しかしです。
ここがひとつ重要な点なのですが、考えであるという点では、私の肉体を含めたこの現実世界も考えなのです。
考えであるという点では、死後の世界も現実世界も同等であり、変わりはないのです。
違いがあるとすると、いま現時点の私という自我の本拠地が現実世界であるということだけです。
生きてるうちは、私という自我の本拠地がこの現実世界であるという点については、納得しやすいと思います。
問題は、死んだらどうなるかというところだと思います。
要するに、霊界や天界等の死後の世界は存在するのかということです。
この点に関する私の理解というか実感として感じていることを書きますと、霊界や天界等の死後の世界は、この現実世界と殆ど同じようなリアリティを持って存在しています、ということになります。
私は、過去世の記憶もありませんし、霊界や天界に対する実体験もありません。
ただ、一昨年暮れの明け渡し体験の直後から、どうやらこの現実世界と同じようにして霊界や天界がありそうだという理解というか感覚が生じるようにはなっていました。
でも、その感覚はとても曖昧なもので、確信的なものではなかったため、私は死後の世界や輪廻のことについて疑っているようなところもかなりありました。
その疑いは、二つの体験的理解により消えていき、どうやら霊界や天界等の死後の世界を含めた、輪廻というものがあるんだいう確信に変わっていきました。
その体験的理解の一つ目は、大悟した後に何度も経験した涅槃(完全な無我であり、気絶状態です)に落ちる体験に伴うものです。
具体的にどういう体験かと言いますと、大悟した状態、つまり「見るものは見られるもの」になり、自我である主体と、その対象である考え(客体)とが統合した状態で、しかも、自我としっかりと捉えた状態で涅槃に落ちると、涅槃から自我に帰ってきた瞬間とその直後に、私という自我である意識の連鎖現象とても鮮明に体験することができるのです。
つまり、私という存在がパッ、パッ、パッっと連鎖的に起こってくる考え(意識)そのものであるということが如実に体験できるのです。
私は、この体験により、私という存在の本質は意識の連鎖であり、この肉体の体験は、その連鎖の中で一時的に現れてくる考え(現象)に過ぎないのだと理解しました。
この意識の連鎖を止めないことには、仮に肉体が滅んでも、連鎖する考えの中身(現象)が変わるだけで、私という自我の意識はそのまま続いていくんだということを理解したんです。
それで、霊界や天界等の死後の世界を含めた輪廻についても理解しました。
もう一つの体験的理解は、解脱の悟りを得た後のものです。
どういうものかと言いますと、私のブログにも書きましたが、解脱の悟りを得て確か4、5ヶ月ほどしたころに、自我の意識(正解には観照意識)が目覚めた状態のまま眠りに入っていくという体験を暫くの間、毎日のように体験したんです。
もう少し分かりやすく書きますと、意識が半分か何分の一の割合で目覚めた状態のまま眠りに入っていくんです。
すると、眠りに入るのに伴って、見えている世界(風景)が、この現実世界の風景(目をつむってますから普通に暗闇です)から眠りの世界の風景にすうっと変わるのです。
私はこの体験から、現実世界と夢の世界の間に本質的な違いは何もないこと、そして、夢の世界が死後の世界と殆ど違いがないこと、また、眠りに落ちていくときの感覚は、死んでいくときの感覚と殆ど違いがないこと、を直感的かつ確信的に理解しました。
そういう訳で、私は、死後の世界や輪廻は考えではありますが、この現実世界と同じように存在していると言うことにしております。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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今回の記事の内容(死後のこと、輪廻について)ではないのが恐縮ですが、ずっとお聞きしたかった質問があったので、思い切ってコメントさせて頂きます。
私は就寝前に、ハートにある「私」に意識を集中するワークを良く行っているのですが、
ハートに「私」があるのかどうかが分からなくて、なかなか集中してワークをすることが出来ません。
胸がキュンとなる部分(ハートのある場所)は、何となく「この辺りかな?」程度に把握しているのですが、その場所にハートがある感覚があまりなく、むしろ空っぽに感じられる日が多いです。
すると、「今行っていることは無駄なんじゃないか」と焦ってしまいます。
それでも諦めずに続けて行けば、ハートにある「私」を感じることが出来、集中して取り組めるようになるでしょうか?
私はこのワークをするために目を閉じていると、いつも目や口、喉の辺りに意識が行ってしまいます。
思考している自分が存在しているな、とハッキリ自覚出来るポイントが、この顔の周辺です。
なので、もしかしたら、ハートよりも、この顔の辺りに意識を集中した方がいいのかな?と思ったりもします。
でもそうするとハートのワークにならないしな…と、混乱してしまいます。
初コメントですのに長くなりました。もしよろしければ、アドバイス等を頂けると嬉しいです。
コメントありがとうございます。
ご質問にお答えしたいと思っているのですが、いまひとつ響さんの状況が捉えられません。
それで少し質問させて頂きたいと思います。
まず念のためにお伺いしますが、響さんはハートに対する感覚はおありなんですよね(例えば、ハートが共鳴するような感覚のことです)?
それともう一つお伺いしたのは、頭頂部のクラウンチャクラに対する感覚はおありですか(頭頂部の付近がモヤモヤとしたり、エネルギーのようなものが出たり入ったりしている感覚など)?
さらに質問なのですが、至福体験等の真我の外縁に触れる体験はされていますか?
ひとまず、上記の点に関する響さんのお答えをお待ちしたいと思います。
まずハートに対する感覚についてですが、共鳴するような…とは、
「喜怒哀楽が起こったときに、胸の辺りに熱感や痛みや震えを(感情と一緒に)体感すること」という解釈をしたのですが、それでしたら持ち合わせています。
が、もしそれ以外の意味合いでしたら、まだ私にはハートに対する感覚が無いかもしれません。
そして、頭頂部のクラウンチャクラに対する感覚も、至福体験等の真我の外縁に触れる体験もしたことがありません。
慧空さんのブログを見つける前から自覚ワークは時々していたのですが、なかなか習慣として身に付かず…それでハートを意識するワークに切り替えたのですが、まだそれに取り組めるような段階ではないということかもしれませんね、、、m(_ _)m
早速ご返答頂き、ありがとうございます。
>「喜怒哀楽が起こったときに、胸の辺りに熱感や痛みや震えを(感情と一緒に)体感すること」という解釈をしたのですが、それでしたら持ち合わせています。
おそらくですが、響さんはハートの感覚をある程度は捉えておられるようですね。
でもまだ十分ではないようです。
このようなデリカシーの無い言い方しかできませんで、ごめんなさい。
ごめんなさいと言いながらさらに書かせて頂きますと、響さんの場合、まだハートがしっかりと捉えられてないので、ハートの自覚をされても空回りになってしまうかも知れません。
ですから、できれば、ハートの自覚ではなく、普通の自覚をやって頂きたいと思います。
普通の自覚をやられて、ご自分が何かの考えを握りしめていることに気づいて頂きたいと思います。
そして、その握りしめている考えを手放していっていただきたいと思います。
そうしておられるうちに、ハートがさらに開いていき、ハートに対する実感をさらにしっかりと得られるようになると思います。
そうですね、空回りして焦ってしまう今は、まず普通の自覚を日常に取り入れることの方が先決ですね。
「自覚しよう」という気も、切実な気持ちもあります。考えを起こしている自分に気づくことも時々ですが、あります。
しかし、それはいつも束の間で終わってしまい、気が付けば1日の大半を無意識に過ごしてしまいます。そんな自分が情けなくなってしまうので、違った方法でワークをした方がいいのかな?と考えての選択でした。
でも、普通の自覚ワーク、こればかりは「とにかくやる」しかありませんものね、、、もどかしいですが、やってみますね。
この度は大変親切に、細かくアドバイスを頂きありがとうございました。これからもブログの更新を楽しみにしていますね。
響さんご自身も仰ってる通り、自覚はとにかくやるしかないんです。
自覚に対する切実さをお持ちなので、きっと大丈夫です。
響さんの書かれる文章からも、自覚をやっておられる方の雰囲気が伝わってきます。
響さんのお返事を読ませて頂いて少し感じたことを書かせていただきますね。
私のお節介心がまたうづいてしまいました(笑)。
響さんは、とてもちゃんとしておられるというか、きっちりと折り目正しい方なんだろうと思うんです。
自分を律するという「自制心」もしっかりと身につけておられるんだと思うんです。
おそらく、自覚に対しても、きっちりとというか、しっかりと取り組まれてるんだろうと思うのです。
でももう、そのようにご自分を律せられるのは十分なんだと思います。
ですから、自覚の方向性というか取り組み方を少し変えてみていただきたいと思うんです。
もっとちゃらんぽらんで、自由でいいんです。
もっとしっかり自覚しないとダメだと思わずに、しっかりとやらないといけないと思っているご自身に気づいて頂きたいと思います。
自らを律しようとしているご自身に気づいて頂きたいと思うんです。
そうやって、ご自分のことを許していただきたいと思うんです。
もう十分にがんばっておられるんですから。
ハートが広がるかも知れません。(^^)
何かありましたら、遠慮なくお書き頂きたいと思います。
私は普段から何かにつけて遅れ気味だったり、やるべきことをやらないで周りからの信頼を失うような、物凄くちゃらんぽらんな人間なんです。
なのでこうしてコメントを書く時くらいは、ましてや初対面で沢山の質問をさせて頂く立場ですので、折り目正しくいようと努めています。
でも自制心も弱いので、誘惑にはすぐ乗りますし(苦笑)、自覚も正直あまりしっかり行えていないです。
ただ、そんな自分をダメだとずっと責め続けているので、ちゃらんぽらんはちゃらんぽらんでも、常に不自由さを感じて、生きることが苦しいんだと思います。(このようにとても自己嫌悪が強いため、自愛のワークはやる気になれないのです)
でもそうでした、私はそんな自分(自らを律しようとしている自分)に気づいていませんでした。
自分イビリが板に付きすぎていることに、驚きました(笑)
これからとにかく、何でも自分を見て、自分の考えを見て、気づいて、それでも許して行こうと思います。
ここまで長々とありがとうございました。勇気を出して質問してみて本当に良かったです!
また何かありましたらコメントさせて頂きますね。もちろん、コメントはせずとも、これからも読ませて頂きます。
ハート、広がると良いなあ^ ^