◇悟りの行程と滅私の誤解◇
悟りの行程に入られた方によく生じる誤解として、「私はいない」という誤解があります。
悟りの行程には、そのような誤解が生じやすい三つの通過点があるのだろうと思っています。
一つ目の通過点は、小悟のゲートです。
小悟のゲートを潜った際に、それなりのギャップを空けて囚われが減り、それに伴って自我が薄くなります。
そのときに、自分の自我が滅せられたような感覚が起こり、これが誤解や思い込みを誘発します。
この小悟に伴って誤解される方は、とても多いです。
二つ目の通過点は、大悟のゲートです。
大悟のゲートを潜るのに伴い、非常に深いただ観る意識(観照意識)が初めて意識の表面に出てきます。
その深い観照意識に初めて触れた際に、自我感覚の欠落感とともに、いわゆる「観るものは観られるもの」という感覚が起こります。
そのとき、どうやら大半の方は「自分の自我が滅した」と誤解してしまうようです。
三つ目の通過点は、自分自身である自我も含めて一切は考えであり幻であるという理解(空の理解)が起こるゲートです。
自分自身が幻であることが附に落ちてしまいますので、このときも、「自分の自我が滅した」と誤解してしまう方が多いのだろうと思います。
なお、この三つ目の通過点は、大悟のゲートを潜る前に通過する方と、大悟の後で通過する方がおられるのだろうと思っています。
悟りの行程において、「私」が滅せられることはありません。
自我そのもの、つまり私という意識がこの世界そのものなのですから、まだ世界があり、それが続いているのに、「私」だけが先に滅せられることなどあり得ないのです。
「私はいない」と言っているのは誰なのか、という簡単な問いかけについて考察するだけでも、その答えは簡単に見つかります。
「私はいない」、そう言っているのは、あなた自身でしょう?
そうではありませんか?
「私はいない」なんていい加減なことを言っていないで、そう考えている自分自身に意識を向けて頂きたいと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※次回の講話セッション、個人セッションは8月29日(土)です(上のリンクを参照ください)
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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悟りの行程に入られた方によく生じる誤解として、「私はいない」という誤解があります。
悟りの行程には、そのような誤解が生じやすい三つの通過点があるのだろうと思っています。
一つ目の通過点は、小悟のゲートです。
小悟のゲートを潜った際に、それなりのギャップを空けて囚われが減り、それに伴って自我が薄くなります。
そのときに、自分の自我が滅せられたような感覚が起こり、これが誤解や思い込みを誘発します。
この小悟に伴って誤解される方は、とても多いです。
二つ目の通過点は、大悟のゲートです。
大悟のゲートを潜るのに伴い、非常に深いただ観る意識(観照意識)が初めて意識の表面に出てきます。
その深い観照意識に初めて触れた際に、自我感覚の欠落感とともに、いわゆる「観るものは観られるもの」という感覚が起こります。
そのとき、どうやら大半の方は「自分の自我が滅した」と誤解してしまうようです。
三つ目の通過点は、自分自身である自我も含めて一切は考えであり幻であるという理解(空の理解)が起こるゲートです。
自分自身が幻であることが附に落ちてしまいますので、このときも、「自分の自我が滅した」と誤解してしまう方が多いのだろうと思います。
なお、この三つ目の通過点は、大悟のゲートを潜る前に通過する方と、大悟の後で通過する方がおられるのだろうと思っています。
悟りの行程において、「私」が滅せられることはありません。
自我そのもの、つまり私という意識がこの世界そのものなのですから、まだ世界があり、それが続いているのに、「私」だけが先に滅せられることなどあり得ないのです。
「私はいない」と言っているのは誰なのか、という簡単な問いかけについて考察するだけでも、その答えは簡単に見つかります。
「私はいない」、そう言っているのは、あなた自身でしょう?
そうではありませんか?
「私はいない」なんていい加減なことを言っていないで、そう考えている自分自身に意識を向けて頂きたいと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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※次回の講話セッション、個人セッションは8月29日(土)です(上のリンクを参照ください)
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読んで頂いてありがとうございました。
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>「比丘たちよ、このような状態があります、そこには地も、水も、火も、風も、空無辺処も、識無辺処も、無所有処も、非想非非想処も、この世も、あの世も、月と太陽の両者もありません。
さらに、また、比丘たちよ、私は[誰かが、そこから]来ることを、[そこへ]行くことを、[そこに]住むことを、
[そこで]死ぬことを、生まれ変わることを説きません。
これ(涅槃)は、[何ものにも]依存せず、[何ものにも]作用せず、[つまり縁起の]対象になりません。
これ(涅槃)こそが苦の終り(滅)です」と。
あーめんどくさというような表現ですね。。
この経典の記載は確かに悪くはないです(偉そうですみません、笑)。
しかし、ニュアンスの問題もあるでしょうが、断定的な言い切りが強すぎます。
果たして本当に、涅槃は本当に何ものにも依存しないのでしょうか、また何ものにも作用せず、縁起の対象にならないのでしょうか。
そんなこと誰にも分からないはずなのですがねぇ。(^o^)
それにです。
所詮は古い経典の記載な訳です。
本当に釈迦が言った言葉だという保証はどこにもない訳なのです。
また、釈迦が本当に悟っていたかどうかかえ分からない訳なのです。
経典などに頼らず、自分の体験と智慧で見極められることをお勧めします。
ブッタの語られた数少ない涅槃、解脱の表現です。
小部経典
自説経(無問自説経)
1.第一の「涅槃に関係したお経」
このように私によって聞かれました。或る時(一時)世尊はサーワッティ(舎衛城)の祇園精舎に滞在されておられた。
実に、また、その時をもって、世尊は比丘たちに涅槃に関係した説法をもって教示し訓戒し鼓舞し歓喜せられた。
ここに彼の比丘らは、[解脱(覚り、悟り)という]目的を持って、注意して一切を心に思念して、耳を傾けて法を聞いた。
そこで世尊はこの事(彼らの意気込み)を知りて、その時この自説経を話された。
「比丘たちよ、このような状態があります、そこには地も、水も、火も、風も、空無辺処も、識無辺処も、無所有処も、非想非非想処も、この世も、あの世も、月と太陽の両者もありません。
さらに、また、比丘たちよ、私は[誰かが、そこから]来ることを、[そこへ]行くことを、[そこに]住むことを、
[そこで]死ぬことを、生まれ変わることを説きません。
これ(涅槃)は、[何ものにも]依存せず、[何ものにも]作用せず、[つまり縁起の]対象になりません。
これ(涅槃)こそが苦の終り(滅)です」と。
これがブッタの説かれた悟りです。
今の私の段階について、こちらにすでに書かれておりましたね。
先程「六根」についての記事も読ませて頂きました。
以前も読んだと思うのですが、その時はピンきませんでした。今読見直し、なるほどそうか!と唸ってしまいました。
見る者が落ちても、まだ認識はありますものね。
まだまだ先がありそうです。
貴重な記事を残して頂きありがとうございます。
世界は 自己を通して 投影されているだけです。
全く 個人も 世界も存在していません。
創造主は存在しません。
ここには 虚無しかありません。
ですが 生きる個人には「虚」だけがあります。
個人の行きつく先は自我の消滅のみです。
では 失礼いたします。
ご心配なく。
他の方も読まれているので、念のために、釘を打たせていただきました。
こちらこそ、せっかくコメント頂いているのに、すみませんでした。
基本、このブログは何を書いて頂いてもいいんですよ。(^^)
Unknownさんが考えておられる「わたし」は、肉体感覚に付随した「わたし」のことを言っておれるのだろうと思います。
私が言っている「わたし」は、肉体感覚を含む、私に関連するすべてのことがらを含んだものです。
つまり、「わたし」とは、意識(認識と言ってもいい)そのものであり、世界そのものなのです。
と言っても、簡単には伝われないでしょうが、一応書きました。
なお、私はここで議論をするつもりは毛頭ありません。
議論に興味はないのです。
私の言葉に何かハッとするとか、何か響く方だけが読めばそれでいいんです。
響かない人については、すみませんが、余り相手をするつもりもないんです。
概念なので 実体がありません。
この受肉の一部 一部は 髪・目・口 というように
それぞれ
部位の名前はありますが 「わたし」という部位はどこにも
存在していません。
思考は脳で考えるものですが 脳をわたしとは言いません。
全体で見ても 「身体」ですから「わたし」とは 単なる
言葉の概念でしかない ということなのです。
ですから 苦しむわたしは 存在しないということです。
率直なコメントを頂き、私もうれPです^^
(そう言えば、昔、のりピーのファンだったなー、どうでもええはなし、笑)
最後の4行そのまんま^^
つまらんコメントですみませんが
貴方様がいてくれて、ブログを書いて下さっていることが
うれPです^^
私の文章を評価してくださるのは有り難いのですが、あまり持ち上げてないでください。
私は持ち上げられるのが嫌いです。
私のブログや文章は他の多くの覚者のものとはかなり異質なものです。
これは事実です。
この事実がお分かり頂けるだけで十分です。