◇やりたいようにやればいい◇
悟りの行程をそれなりの地点まで歩むと、すべては完璧だとか、すべてニュートラルだということが腑に落ちるようになります。
そして、さらにさらに歩んでいくと、終わりに近い地点の付近で、一切皆苦ということが分かってきます。
つまり、最終的には一切が苦な訳ですから、何をやろうと同じなのです。
しかし、ここが肝心なところなのですが、すべては完璧だとか、すべてニュートラルだとか、あるいはすげて苦だと分かっても、苦しみは消えないし、分別等の思考や感情も消えないし、何かをしようとする衝動は決して消えないのです。
もちろん、それらが幾分薄くなることがありますが、決して無くなることはないんです。
繰り返します、何かをしようとする衝動は残るんです。
ここはとても肝心なところです。
だったら最初っから、起きてくる衝動のまま、やりたいように生きていけばいいということなんです。
どうして、これをやったらダメだとか、こうするべきだとか考えて、自分を制限し、縛り付ける必要があるのでしょう?
あなたのやりたいことは何ですか?
ぜひそれを素直にやって頂きたいと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※次回の講話セッション、個人セッションは8月29日(土)です(上のリンクを参照ください)
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
哲学・思想 ブログランキングへ
悟りの行程をそれなりの地点まで歩むと、すべては完璧だとか、すべてニュートラルだということが腑に落ちるようになります。
そして、さらにさらに歩んでいくと、終わりに近い地点の付近で、一切皆苦ということが分かってきます。
つまり、最終的には一切が苦な訳ですから、何をやろうと同じなのです。
しかし、ここが肝心なところなのですが、すべては完璧だとか、すべてニュートラルだとか、あるいはすげて苦だと分かっても、苦しみは消えないし、分別等の思考や感情も消えないし、何かをしようとする衝動は決して消えないのです。
もちろん、それらが幾分薄くなることがありますが、決して無くなることはないんです。
繰り返します、何かをしようとする衝動は残るんです。
ここはとても肝心なところです。
だったら最初っから、起きてくる衝動のまま、やりたいように生きていけばいいということなんです。
どうして、これをやったらダメだとか、こうするべきだとか考えて、自分を制限し、縛り付ける必要があるのでしょう?
あなたのやりたいことは何ですか?
ぜひそれを素直にやって頂きたいと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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なるほど、腑に落ちました^^
参考にさせて頂きます。
このブログのコメント欄のどこかにも書きましたが、
私は、釈迦のように、善や自制を説いたりはしないのです。
私は、自らの意識を縛り、制限している囚われに直接付けと言っています。
つまり、囚われに対してもっとも直接的なアプローチを言っています。
煩悩を増大させるもの、又は煩悩を増大させる方向が危険と思っておられるのですね。
つまり、煩悩が危険だと。
煩悩は抑制し、消し去っていくべきものだとお考えなのでしょうね。
これは、誤解なのです。
悟りの道は、煩悩を滅していく道ではないんです。
煩悩が滅せられたら、解脱するというのでもないんです。
確かに、悟りが深まるにつれ、煩悩も薄くはなっていく傾向がありますが、それは本質的な現象ではなく、二次的な副産物なのです。
悟りを深めていくとき、何がもっとも本質的な要素かといいますと、自我が握り締めている囚われがそれなんです。
囚われに気づき、それを手放していくことで、悟りが深まっていきます。
悟りとは囚われを手放していくこと、ただそれだけなんです。
囚われは、執着心や恐れ、欲、つまり一般に煩悩と呼ばれる心の活動を引き起こしやすいのです。
だから、囚われが減るにつれ、煩悩も薄くなっていきます。
すべての囚われを手放せば、解脱ということになるのですが、解脱しても、最低限の欲は残るのです。
つまり、煩悩と呼ばれる要素もある程度は残るのです。
一応仏教を学んでいるので、危険なもの、危険でないものの根拠は、
仏教的に、煩悩の多いものが危険(悪)、煩悩の少ないもの、無いものが危険でないもの(善)という区別をしています。
危険なもの(煩悩)とそうでないものを分別しないのは、
一歩間違うと煩悩にとらわれてしまい修行にならなくなってしまうのでは?
という疑問が生まれコメントさせていただきました^^
私自身が煩悩にとらわれることが多いので、
こういう疑問が生まれてしまうのかもしれませんね。
あなたには、まだまだ「危険なもの」や「危険なこと」が沢山おありなのですね。
危険なものと、危険でないものを分別しているのは、誰ですか?
どういう根拠でそれを分別しておられますか?
そこには、何か絶対的な基準や根拠がおありなのでしょうか?
悟りの道を歩む上で、慧空さんの仰るように「やりたいように」やるには、「悟りたい」という強い意思が必要なのではないかと思います。
そのような意志のないまま「やりたいように」やってしまうと、いわゆる煩悩に巻き込まれ何もかもが滅茶苦茶になってしまう危険性があるのではないかと思ったのです。
仏教ではカルマ(善因楽果 悪因苦果)という事も説かれています。
善も悪も関係なくやりたいようにやってしまうのはやはり危険なのではないかと悟っていない者としては感じてしまいます。
遠慮しときます
自説を説かれるのはご自由ですが…
返礼に申し上げると
あなたも、同じですよ
自分ではなかなか気づけなかったりしますね
最近慧空さんみたいな人多いですね
相手して下さってありがとう^^
ぜひ、自覚に取り組んでいただければと思います。
慧空さんとやり取りさせて頂いて、よりクリアになりました
本心、本音をただ認めるということが大事だなあと改めて思いました
「悟り」という概念へのこだわりも相当薄らいだ気がします
一人一人に真摯に向き合う慧空さんの姿勢を尊敬します
改めまして、ありがとうございました
にゃん太郎(♀)さんはご自分でも言っておられる通り、正直な方だと思います。
正直というのは素晴らしいことだと思います。
慧空さんのお考えになる悟りの階梯において、そこなんですね^^
私は少なくとも大悟しています
どうしても表現しがたい経験が一週間ほどあったのですが、書く気になりませんでした
他の誰かで確認したかったのですが、そもそもそれが間違いですよね^^
実は二十数年来のOの弟子ですが、いかんせんもういないので、生身の師が欲しいと思ったのですが…
それと、私が図に乗ってお願いしたことなんですが、悟り判定とか、やっぱり頂けないわ~…^^
正直な気持ちを書きました
丁寧にお答えくださいましたこと、感謝申し上げます
二つ目の質問は、大悟の体験に関するものなのですが、にゃん太郎(♀)さんはおぞらくまだ大悟はされていないのだろうと思います。
三つ目の質問に関するお答えについては、それなりに納得しておられるのかもしれないと思います。
三つ目の質問は、一切は考えであり幻であるという空の理解があるか否かに関する質問でした。
結論としまして、おそらく、にゃん太郎(♀)さんは、いま、小悟階層の上下二階つの部分階層があるうちの上側(大悟側)の部分階層におられるのだろうと思います。
さらに何かご質問や気になられる点がおありでしたら、遠慮なくどうぞです。
思い出そうとしたら、こんなんです
今思い出す記憶です、作り出したのかも知れません
わたしは、そんなことどうでもいいですが
こんなことに何か意味があるんでしょうか
思い出したのですが
二つ目のご質問で二度と書きましたが、その後また一年位ずつ開けて、二度程ありました
でも、最初が赤ちゃん(甥)次が仔犬→妹→夫で、傍にはいない時でしたので、ただのエンパスかも…
ただそういうことは、あまり珍しいことのようには思えません、最近はありませんけどごく普通にあったような…
気がするだけなのですが、書いてみました
至福、一瞥はあります
感謝や幸福感が止まらなかった時期と、一瞬でいわゆるワンネスの知的理解に至った神秘体験のようなこととか、他にもありました
もう一つのご質問のような経験は覚えているのが二度程ありますが、数年開けて、数分程度ずつだったと思います
エンパス体質だからだろうと言われたので、そう信じていました
最後のご質問については、腑に落ちるというか、そのようにしか考えられません
こんな感じです
よろしくお願いしま~す!
ただ、私は誰かの師になるつもりはまったくありませんので、その点はご了承ください。
私は悟りのヒントを単なる伝達者です。
それでは遠慮なく、にゃん太郎(♀)さんのことを評価させて頂きますね。(^^)
おそらく、にゃん太郎(♀)さんは小悟された方なのだろうと思うのです。
小悟階層はとても分厚い階層なので、その階層のどのあたりにおられるかで悟りや智慧の様子や、自我の様子がだいぶ違ってきます。
いくつか質問させて頂きますね。
恩寵とか、至福とか、一瞥とか、あるいは明け渡しとか、何かそのような体験はしておられますか?
但し、このような小悟の体験は千差万別でとてもバリエーションがあり、しかも人によっては気づかないくらい薄いものだったもするようで、これという体験の記憶が無い場合もあります。
(おそらく、そのような何らかの体験をしておられるはずだと思うのですが)
もう一つ質問です。
「見るもほは見られるもの」という感覚を実感されたことはありますか?
例えば、目の前のリンゴを見たとき、世界がリンゴだけになり、私という自我の感覚を含めてりんご以外の認識や感覚が欠落したような感覚を、一時的ではなく、それなりの時間継続して、あるいは断続的に経験したことはありますか?
さらに質問です。
自分自身(自我)も含めて、一切は考え(認識と言ってもいいです)だということが腑に落ちておられますか?
取りあえず、上の質問にお答え頂きたいと思います。
なお、今日はこのあと出勤して帰宅は夜になりますので、お返事は夜遅くになると思います。
お答え、楽しみに待ってまーす(^^)/
私はどういう状態なんでしょうか
自分で全く分かりません
一時は悟りたいという強い思いがありましたが
今は悟っても悟って無くても私は変わらないしこれでいいや、と思います
でも、興味はあってブログを読んだりするんです
この2,3年で性急な変化がありましたが
実は、二十数年前にも形は違えど、似たような変化があって、それからまた自分を作り上げたんです
ちょっと相手して貰ったからって図々しくてすみません
丁度、師が欲しいと思っていたところでもありまして…
何かお感じになることでもありましたら
どうぞ、よろしくお願いしますm(__)m
>実は、今はいばらどころか、ワンコとまったり地獄か天>国かわからない所に留まっております
>この2、3年位は、心の変化が慌ただしかったので
>ま、いっか、という感じです
それが分かっておられたら、大丈夫です。
モンスターの名前だったのですね(^o^)
にゃん太郎は、妹がゲーム内で飼っているモンスターの名前です、かわいーなー、と思ってたので…
私は犬を飼ってまして、可愛いがって貰ってますです
実は、今はいばらどころか、ワンコとまったり地獄か天国かわからない所に留まっております
この2、3年位は、心の変化が慌ただしかったので
ま、いっか、という感じです
すみません、自分のことをあれこれと…
私は私の目線から
慧空さんに、共感してま~す!
慧空さんでお願いいたします。
>止むに止まれぬ衝動から心と対峙してきた者です
>私も、ジャンジャンバリバリ、いばらの道を歩むのが好きです…
いいですねぇー。(^^)
釈迦派じゃない、いばらの道派を一緒につくりますか。(^^)
ところで、にゃん太郎(♀)さんは、もしかして、にゃん太郎という名前の猫を飼っておられるのですか?
どうでもいい話ですが、ちょっと気になったもので。(^_^;)
止むに止まれぬ衝動から心と対峙してきた者です
慧空様も、そうであろうと思われます
私も、ジャンジャンバリバリ、いばらの道を歩むのが好きです…
最近流行りのノン何とか、、わかるんですが…
そこで止まってしまうのは勿体ないという個人的な思いから、コメントさせて頂きました、お節介です、お恥ずかしい…
お言葉に甘えて、またお邪魔させて下さいね
更新を楽しみにしております^^
どんどん遠慮されずに書いてしまってくださいな。
大丈夫ですから。(^o^)
kさんの仰ろうとしていることはよくわかります。
悟りの道の歩み方は人それぞれなんだと思います。
上の私が書いたすべて一気にオッケーにして、自分の衝動を束縛している囚われに気づいていくというのは、おそらく、悟りの道の最短ルートであり、最も激しいルートだと思います。
私はそれを承知の上で、ひょっとしたら、どなたか取り組まれる方がおられるかもしれないとと思って書いてみました。
多くの方は、kさんが仰るようなもっと無難なルートや過程を歩まれるのだろうと思うのです。
釈迦も、善を説き、自制を促しました。
それが無難であり、多くの人が受け入れやすいからなのだと思います。
でも、私は違うタイプなんです。
私は、善なんて、とんても無く回り道であり、そんなまどろっこしい考えは説きたくないんです。
ガンガン、バキバキとイバラの道を歩んでいくのが好きなんです。(^o^)
正直、Unknownさんには私が何を言っても無駄なような奮起を感じるのですが、一応コメントしますね(ただ、私はあなたの議論をするつもりはありませんので、その点誤解なされぬようお願いします)。
Unknownさんが仰るように、起こってくることがらには、確かに、私という自我と殆ど関係のないただ起こってきていることがらが多く含まれています。
起こってくることがらの多くは、このただ起こってくる、自我の観点からどうするこもできないただ受け取るだけのことがらです。
しかし、起こってくることがらには、自我が強く関与していることがらもあるんです。
もっと言えば、何かをこうしようとか、ああするべきだとく具合に強く起こる衝動がそれです。
この強く起こる衝動は、自我が握り締めた囚われと関係していて、ただ起こってきたことがらにその囚われが反応することで、その強い衝動が起こります。
悟りとは、そのような強い衝動を引き起こす囚われに気づいてそれを手放してく過程なんです。
囚われをすべて手放し、ただ起こってくることがらに対する強い衝動が消失したとき、最終的な悟りということになります。
これは、改めて記事にしようかと思っていたことんですが、コメントに書いてしまいました。
まあ、いいか。(^o^)
Unknownさんは、悟りたいんでしょう
なら、こちらのブログはガイドになってくれるかも^^
考えを掴んまない方がいいんじゃないでしょうか^^
↑
ブログ主様風^^
(悟りに段階があるとすれば、悟ってらっしゃるかも、ですが、私の悟りの定義ではそうでないというだけですので、流してね~)
般若心経にしても、ヒンズー教の経典にしても、空について説かれていますが、ヒンズー教については感覚の統制、自制の大切さも説かれています。
かたや、南無阿弥陀仏では、何でもありの世界観な気がします。
個人的には、気づきを得るまでは何らかの苦闘、自制が必要だと思うのですが、如何でしょうか?
あなたは 何か勘違いをしているようだ。
これを思考しているのは 私=概念 ではないか。
苦しみは消えない と 思うのも 概念だ。
のどが渇いたとき は すでにのどが渇いている
お腹がすいたときは すでに お腹はすいている。
そのあとで 概念が 「わたしはのどが渇いた」と思い
「わたしは お腹がすいた」と思うのだ。
自分のやりたいことは 自動的に起こってくるのである。
すべては 自動的に。
起こることは起こり 起こらないことは 起こらない。
まったく わたしの関係なしに。
その葛藤している自分に、さらに意識を向けてみて頂きたいと思います。
コメントありがとうございます。
>特に方向が見えてくるわけでもなく、気持ちがずっとモヤモヤしてとしてましたが
いいですねぇ。(^^)
おそらく、ちゃんと自覚されてるのではないかと思いますよ。
おそらく、スッキリしないことに対するもどかしさや、イライラ感、苦しみ等も起こっておられるのではないかと思います。
その苦しみ等や、それに対する自分の心の反応(どのような反応や衝動が起こっているのか)もよく観察してみて頂きたいと思います。
ご報告楽しみに待ってます(^^)/
第1回目の講話セッションに参加させていただいた後ずっと、本当に自分のやりたいことはなんだろう?自分はいったいどうしたいのだろう?と自問し続けてきました。
特に方向が見えてくるわけでもなく、気持ちがずっとモヤモヤしてとしてましたが、今回の記事はとても心に響くものがありました。
自分は心底、やりたいように、したいように衝動のままに生きたいと望んでいたのかも・・・さらに見つめていきたいと思います。
また何か変化があったらご報告しますね。記事ありがとうございました(^.^)
私としては、悔いの無いようがんばってくださいとしか、言いようがありません。
打破してください。
チャレンジしないままで、悔いは残らないか、このあたりを徹底的に自問して頂きたいと思います。