◇私の成り立ち(2)◇
昨日の記事の続きです。
昨日は自我、すなわち考えについて書きましたので、今日は真我について書きたいと思います。
自我について、私に起こってくる考えそのものであると書きました。
では真我はと言いますと、それは私に考えである自我を起こさせる種(カルマ)なのです。
もう少し分かりやす言えば、真我とは自我が抱え込んでいる考え(執着)を溜め込むタンクであるとともに、そのタンクに溜め込まれた考えに基づいて私に考えである自我を生じさせる装置なのです。
真我に溜められたカルマは、起こってくる考えを自我が抱え込まないで流せば減っていき、いずれ空っぽになります。
しかし、多くの人は、起こってきた考えを掴み取り、抱え込んでしまうため、真我に溜められたカルマがなかなか減りません。
悟りを得るなどして、起こってきた考えのうち、それを抱え込む量の割合が減ると、真我に溜められたカルマも減り、それによって起こってくる考えも減っていきます。
いずれ解脱の悟りを得るときが訪れ、自我が考えを一切抱え込まなくなると、後は真我に溜められた残りのカルマを消費するだけとなります。
そして、その残りカルマが消費されると、それに伴ってその存在は消滅します(少なくとも、私たちが認識するこの世界からは消滅します)。
私は、私という存在の始まりについて、それはハッとする気づきのような認識そのものだったのだろうと思っています。
つまり、その最初の気づきそのものが私の始まりだったのだろうと思っています。
それは、「ハッ!」という何かに対する反応のような気づきだったのか、「何か在る!」いう何らかの対象に対する認識を伴う気づきだったのか、「これは何だ!?」という驚きに似たものだったのかは分かりませんが、それらに近いものだったのだろうと思っています。
そのとき、私という自我はその気づきである考えを掴み取り、抱え込んでしまったのです。
そうしたら私という存在の展開が始まってしまった、ただそういうことなのだろうと思うのです。(^^)
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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自我について、私に起こってくる考えそのものであると書きました。
では真我はと言いますと、それは私に考えである自我を起こさせる種(カルマ)なのです。
もう少し分かりやす言えば、真我とは自我が抱え込んでいる考え(執着)を溜め込むタンクであるとともに、そのタンクに溜め込まれた考えに基づいて私に考えである自我を生じさせる装置なのです。
真我に溜められたカルマは、起こってくる考えを自我が抱え込まないで流せば減っていき、いずれ空っぽになります。
しかし、多くの人は、起こってきた考えを掴み取り、抱え込んでしまうため、真我に溜められたカルマがなかなか減りません。
悟りを得るなどして、起こってきた考えのうち、それを抱え込む量の割合が減ると、真我に溜められたカルマも減り、それによって起こってくる考えも減っていきます。
いずれ解脱の悟りを得るときが訪れ、自我が考えを一切抱え込まなくなると、後は真我に溜められた残りのカルマを消費するだけとなります。
そして、その残りカルマが消費されると、それに伴ってその存在は消滅します(少なくとも、私たちが認識するこの世界からは消滅します)。
私は、私という存在の始まりについて、それはハッとする気づきのような認識そのものだったのだろうと思っています。
つまり、その最初の気づきそのものが私の始まりだったのだろうと思っています。
それは、「ハッ!」という何かに対する反応のような気づきだったのか、「何か在る!」いう何らかの対象に対する認識を伴う気づきだったのか、「これは何だ!?」という驚きに似たものだったのかは分かりませんが、それらに近いものだったのだろうと思っています。
そのとき、私という自我はその気づきである考えを掴み取り、抱え込んでしまったのです。
そうしたら私という存在の展開が始まってしまった、ただそういうことなのだろうと思うのです。(^^)
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