私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

全体という妄想

2015年05月14日 08時25分45秒 | 悟り
◇全体という妄想◇

悟りの世界には、全体や不二に対する妄想を抱いている方が多いです。
悟りの行程の一過程として、全員ではないですが、そのような妄想を抱く時期があります。
私(慧空)もそういう時期がありました(このブログの過去記事には、そのような文章が残っています、笑)。

全体という妄想に取り憑かれている方は、全体こそが真実であり、あるのは全体のみであり、この現実や私という個は幻だと仰います。
そのような方にとって、全体とは絶対であり、普遍的なものなのです。

しかし、一度立ち止まって冷静に考えてみて頂きたいのです。

私が特に指摘したいのは、その全体と言っているものを認識しているのは誰なのか、という点です。
誰がその全体というものを認識して、それが絶対的なものだと判断しているのか、という点です。

それを認識して判断しているのは、「私」という個(自我)じゃないですか?
違いますか?

その全体と言っているものがどんなに素晴らしいものであったとしても、それを認識している「私」が無ければ、全体という認識も起こり得ないんじゃないですか?

ここのところをよーく考えてみて頂きたいのです。


しかし残念ながら、「私」という意識と、全体のどちらがより本質かという議論には結論は出ません。
なぜなら、一切のことがらに確固たる根拠となり得るものが無いからです。
この世界のどこを探しても、根拠などどこにも無いのです。
根拠が無い以上、結論も出ませんし、断言も出来ないのです。

それでも、敢えて言いますと、なんとなくぼんやりとしたものではありますが、私(慧空)なりの結論はあります。
私の結論は、「私」という個(自我)が本質なのであり、全体は本質ではないのだろうというものです。
なぜなら、「私」という自我の意識が存在しなければ、全体という考え(認識)も起こり得ないからです。
「私」という自我も考えですが、それが本質(最初)であり、全体という考えは、「私」という自我がつくり出した二次的な考えなのだろうと思っています。
ただ、何度も言っておりますように、根拠がありませんから、断言はしません。

みなさんも、よく考えてみて頂きたいと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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近況など(セッションや仕事のことなど)

2015年05月12日 16時44分31秒 | 個人的なこと
◇近況など(セッションや仕事のことなど)◇

セッションについて。
セッションのご依頼は、やっぱりというか、余りありません。
その理由も分かっています。
まずは、第一に、私の話に興味を持たれる方が少ないのです(私はワクワクしたり楽になるような話は殆どしませんし、(^o^))。
それと、ここは大きいところと思っているのですが、私がお伝えしようとしている自覚や悟りのヒントは、文章で十分に伝わるのです。
それに、悟りの道は私が何度も言っておりますように、本質的に一人で歩む、一人旅なのです。
そこには、師弟関係など存在するはずもないのです。
あるとすれば、ヒントを伝える側と、それを受け取る側だけす。
自覚を覚えたら、一人で歩み始めるものなのです。
自覚とはそういうものなのです。

そういうこともあって、私のセッションは細々とやっていくことになりそうです。
セッションから収入を得ることは、難しいそうです。
会場費用や自分の交通費等の赤字が余りにも続くようなら、講話等のセッションについては数ヶ月に一度等に回数を減らそうかと思っています。
でも、始めた以上、半年くらいは少々赤字が出ても懲りずに毎月講話セッションをやろうと思っています。

それと、私や私が伝えようとすることは、細々と続けるくらいでちょうどいいのだろうと思っています。
なんせ、私の言っていることは悟りの業界の中でも、相当な異端ですから。(^o^)


次に仕事について。
まだ働いてません。(^o^)
セッション収入は、上記の通り望めそうにないので、何か仕事をしないといけないと思っています。
しかーーし、やっぱりやる気がしないのです。(^o^)
福祉系の仕事や、工場労働や、ハウスクリーニングの仕事も考えました。
イザとなると、どれもピンとこないし、やる気が出ません。
私もいい歳(現在49歳)なので、年齢制限にもひっかかるし。
やだなー、働きたくねーなー、うえぇーーー、という具合に、まるでどこかのニートと同じ状態です。(^o^)

それで、やっぱ、FXでもやっか!、とか思って相場を見たりしているのですが、いまの相場はとても難しい状況だし、手が出ねーーー、ダメだこりゃーーー、なんて言っています。(^o^)

それで、いまは、しょうが無いなあ、元やってた仕事がやれないかと思ってそれを検討しているところです。

思わず、早くお迎え来ないかなー、なんて思ってしまいます。(^o^)


また書きますね。
取りあえず、なんとかやってます。
まだ余裕です。(^_^)v
(どこまで余裕でいられるか(^o^))


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自我は都合がいい

2015年05月12日 15時31分28秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自我は都合がいい◇

私という自我は、どこまでも都合良くできています。
その途方もない徹底ぶりは、あきれるばかりです。

例えば、法や真理に対するときの自我がそうです。
全体とか、根源とか、不二や、ひとつのもの、神もそうです。
それらを主張する方は、この現実や私という自我については幻や幻想であると仰るのに、全体や不二等についてはそれを真実であると仰います。

しかし、そんな都合のいい話があるでしょうか。
冷静によく考えてみてください。
現実や私という自我と、全体や不二等との間にどんな違いがあるというのでしょう。
現実や私という自我が幻だと仰るのなら、現実や私という自我が幻であるというその主張に根拠や証拠となり得るものがあるのか、しっかり確認して頂きたいと思います。
また、全体や不二等が真実であると仰るのなら、現実や私という自我とどのような違いがあり、それらが真実であると主張されるのか、その根拠をちゃんと確かめて頂きたいと思います。

現実や私という自我についてはそれが幻であると見破ったのに、全体や不二等については追求も確認もろくにせず、それを簡単に受け入れてしまうのは、あまりに都合がよすぎるとは思いませんか?
そこに何も違和感を感じませんか?

何も違和感を感じないのは、あなたの自我の都合がよすぎるからです。

あるいは、それはあなたが幼稚だからだと言ってもいい。

幼稚だから、まだ何かに甘えて依存したいのでしょう。

ちょっと言い過ぎましたか。
まあ、まあいいでしょう。(^o^)


少し話しは変わりますが、楽や幸せについても同じようなことが言えます。

私という自我は、苦楽や幸不幸を感じます。
この苦楽や幸不幸の営みは当たり前のことなのです。

しかし、自我は都合がいいものですから、楽や幸福を感じるとそれにしがみつこうとします。
それだけでなく、楽や幸福こそが真実であると思い込んでしまいます。
そして、苦や不幸な状態は本来の状態ではない等として、排除しようとします。

どこに、楽や幸福こそが真実であるという根拠があるというのでしょう。

いつまで、そうやってぼーっと、自我の都合のよさに付き合っているつもりなのですか。

シャキッと目を覚まして、冷静によく見てください。

私という自我の都合のよさに気づいてください。

そして、あなたが自我の都合のよさに流されて安易に繰り返しているその判断や、その主張の矛盾に気づいてください。


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悟りを求める心と自覚

2015年05月11日 22時46分14秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇悟りを求める心と自覚◇

悟りに至るとき、突如として悟りの方からやってくるパターンと、悟りに対して何らかの意図を持って歩んでいる過程でそれに至るというパターンがあります。
前者の場合は悟りが勝手にやってくるパターンなので本人の悟りへの意志が問題になることはありません。
しかし、後者の場合は、悟りに対する強固な意志がカギになっているケースもあり、悟りへの意志はしっかりとした強固なものである必要があります。

現実問題としては、そのような悟りを求める心は、悟りの道を歩む過程で、歩を進める原動力になることもある一方、障害となることも多々有ります。
今日はその周辺について書いてみたいと思います。

まず始めに強く申し上げておきたいことは、意図して悟りの道を歩む際には、悟りへの強固な意志が必要なんです。
これは間違いありません。
その理由は単純で、悟りへの意志が歩を進める姿勢や原動力の源になるからです。
特に、深い悟りになるほど、燃え上がるような強い発心を伴った悟りへの意志が必要になることが多いのではないかと思っています。

しかし、現実には、悟りを求める心が悟りの道を歩む際の障害になってしまうことが多いのも事実です。
その理由は主に二つあります。

一つ目の理由は簡単です。
それは、悟りを求める心に潜む欲です。
多くの方は、悟るに対して何らかの特別なイメージを持っていて、悟るとその特別な何かが得られるように思い込んでいます。

例えば、幸せになれるとか、何をやっても上手くいくようになるとか、カリスマ性が得られるとか、何か特殊な能力が得られるとか、その他いろいろです。
自分はそんなバカな幻想は抱いてないと仰る方でも、まず間違い無く、それなりの幻想は必ず持っておられます(私(慧空)自身も、少しはありました、笑)。
このような欲や妄想のような期待感は、やはり悟りの道を歩む際の障害になります。
欲が強い場合は、それだけで悟りの歩みを完全に止めてしまいます。

この点について、悟りの道は、何かを得ていくものではなく、むしろ失っていくものなのです。
確かに、小悟等の浅い悟りでは幸福感が生じることがよくありますが、最終的な悟りになると、残念なくらい何もありません(幸福感さえもありません、(^o^))。
無用な幻想は捨てて頂きたいと思います。
その妄想があなたの歩みを妨げています。

もう一つの理由は、悟りを求める心に伴う意識の動き方です。
私たちの意識は、何かを求めると、必ず意識の向きが外に向かいます。
意識の向きが外向きになると、小悟等の浅い悟りはそれでも得られるときもあるのですが、大悟から先の深い悟りについては、まず得られないのです。
悟りを求める気持ちが強ければ強いほど、意識が悟りを探し求めるようにして、意識がより一層外向きになってしまうのです。

ですから、悟りを求める心をそのままにしておくと、いつまで経っても堂々巡りで埒(らち)が明かないということになりかねません。

ここで、自覚が有効に作用します。
悟りを求める心を自覚するのです。
悟りを強く求めている自分に気づいたら、「ああ自分は、本当に強く悟りを求めているんだな」と自覚するのです。

すると、外側に向いていた意識がすっと「私」に向き、それによって、悟りを求める強力な意識の視線が「私」に注がれるようになります。
また、自分の意識が外側に向いていることに気づいたら、その度に、意識の向きを「私」に振り向かせるようにします。
強い意識の視線が「私」に振り向けられる度に、私という自我を構成する囚われ(執着)が削られていきます。

そのように、自覚を上手に使い、悟りの道を歩んで頂きたいと思います。


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自らの姿に気づく

2015年05月10日 07時46分03秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇自らの姿に気づく◇

みなさんの意識は、絶えず何かを求め彷徨っています。
あるいは、何かの考えについて、それが絶対だと思い込み、それに必死に縋り付いています。

その自分の姿に気づいて頂きたい思います。
そのためには、外ではなく、「私」に意識を向け、「私」をしっかりと見て頂きたいと思います。
そして、自分がなぜ何かを求めて彷徨っているのかをしっかりと考えて見て頂きたいと思います。

どうして、あなたは何かを求め彷徨うのでしょう?

あるいは、どうしてその考えにしがみついているのでしょう?

考えてください。



  *  *  *  *



何かピンときませんか?

さらに考えてください。



  *  *  *  *



苦しいからではありませんか?

あるいは、苦しみから逃れようして、そうしているのではありません?

誤魔化さないで、自分自身をしっかりと見てください。

苦しんでいるあなたが、そこにありませんか?


もし、あなたが苦しみ気づいても、慌てないでください。

それで普通であり、当たり前のことです。

何も問題はありません。(^o^)


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自覚と自立

2015年05月09日 08時28分15秒 | 悟り
◇自覚と自立◇

私という存在である自我に対する表現の一つとして、依存の塊のようなものだということができます。
依存が感情や思考、衝動を引き起こしています。
また、依存が依存を呼び、依存の連鎖が起きています。

依存とは、何かの考えを握り締めることです。
考えに頼り、縋り付くことです。
考えを絶対と思い込み、信じることです。

自覚をやっていると、自分が依存している考えに気づくようになります。
そして、依存が減り、自立していきます。
自分の力で立ち、一人で歩み始めます。

あなたは、自立できていますか?


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あなたにとって大切なことは何ですか

2015年05月08日 14時26分06秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇あなたにとって大切なことは何ですか◇

あなたにとって大切なことは何ですか?

あなたは自分の大切なことに気づいていますか?

この問いかけに対し、みなさんそれなりのお答えを持っておられるのだろうと思います。
例えば、家族や、仕事や、人との関わりに関することや、夢や希望に関することを大切だとお答えになる方が多いのではないかと思います。

そのお答えでももちろん悪くはないのですが、あなたがもっと大切にしておられることがあるはずだと思います。
家族や仕事や夢などは、状況が変われば、それを大切に思う気持ちも無くなってしまったり、変わってしまうことがあります。

あなたにとって大切なことは、状況が変わっても無くなったりはしないはずです。

あなた自身に意識を向け、自分にとって大切なことは何なのか、一度よく考えてみて頂きたいと思います。
自分は何を大切にして、あるいは大切だと思って生きているのかを、徹底的に確認してみて頂きたいと思います。


  *   *   *   *


ヒントは、あなた自身の生き方や生きる姿勢にあります。

さらに、考えて頂きたいと思います。

何かピンときませんか?


  *   *   *   *


答えは、人それぞれだと思いますから、私がそれをここに書くのはどうかと思います。
また、私がそれを具体的にここに書くのは少し難しいです。

このままこの記事を終わってしまうことも考えたのですが、それだとちょっと物足りない感じがしたのと、ヒントも伝わりにくい感じがしました。
それで、私(慧空)にとって大切だったことを書いてみたいと思いました。

私も、家族や仕事はとても大事だったのです。
でも、そのもっと深いところに、もっと大切なものがありました。

それは、以下のいくつかの想いで表現される自分自身の生きる姿勢のようなものでした。
そのいくつかの想いとは、
「簡単には諦めたくない」、
「絶対に後悔したくない」、
「納得したい」、あるいは「納得できるまで徹底的に取り組みたい」などです。

私は、これらの想いを大切にし、それらと向き合っているうちに最終的な悟りに導かれたということもできるのだと思っています。


みなさんが、ご自分の内面にある大切なことから、あるいは私のこの文章から何を理解され、何を導かれるのかは人それぞれなんだろうと思います。

最後に余談として、私(慧空)が思っていることを少し書きますね(いつも私は、お節介に言い過ぎてしまいます、笑)。
一つは、カルマとの関係についてです。
自分にとって大切なことを大事にし、それと向き合って生きることは、カルマの解消や深い悟りと関係しているのだろうと思っています。

もう一つは、その人が人生で体験し、またつくり上げる人生の内容との関係についてです。
おそらく、自分にとって大切なことを大事にして、それと向き合って生きることと、人生で何をどう行動するかという具体的な人生の内容との間には、それ程本質的な関係はないのだろうと思っています。
つまり、大切なこととしっかりと向き合ってさえいれば、具体的な人生の内容は余り関係ないのだろうと思っています。

さらにもう一つは、人生で経験する困難や苦しみとの関係についてです。
自分にとって大切なことから逃げずにどこまでしっかりと向き合えているかについて、その姿勢が本当に試されるのは、おそらく多くの方の場合、困難や苦しみ、あるいは恐怖を伴う状況においてなのだろうと思っています。
ですから、苦しいときほど、より強くかつ逃げずに、自分にとって大切なことと向き合う必要があるのだろうと思っています。


もう一度お伺いします。

あなたにとって大切なことは何ですか?

苦しいときこそ、それを大事にし、向き合って頂きたいと思います。


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遠慮なくコメ書きや質問してください

2015年05月07日 18時34分35秒 | その他
◇遠慮なくコメ書きや質問してください◇

最近、ブログのコメント欄への書き込みが減ってしまって、寂しいなあとか、退屈だなあと思っています。
あと、メールで頂くご質問の数もグッと減ってしまいました。

このようにコメントやメールを頂くのが減ったのは、4月下旬に有料セッションや有料掲示板について発表してからだと思います。

さっきふっと思ったのです。
ひょっとして、みなさん無料でのご質問等を遠慮しておられるのかもしれないと。

遠慮は無用です。
気になられることがあれば、どうぞ気軽にコメ書きやご質問を頂きたいと思います。
私でよろしければ喜んでお答えさせていただきます。

掲示板もあります(リンクはこれです。)。

コメ書きやご質問、待ってまーーす\(^O^)/


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「私」について中途半端に納得しない

2015年05月07日 13時13分51秒 | 悟り
◇「私」について中途半端に納得しない◇

悟りと「私」の関係について、誤った情報が余りにも氾濫しています。
例えば、最も多い誤解は、「私」という自我を滅することが悟りであるというものです。
他の誤解として多いのは、「私」が幻であることに気づけばそれで終わりだというものです。

「私」が滅せらるというようなことは、決してありません。
「私」とは意識そのものであり、この世界そのものです。
世界がある限り、決して「私」が滅せられることなどないのです。

あなたは、「私」が幻であることに気づいているのかもしれません。
でもあなたは本当に、自分の悟りの行程がそれで終わったと確信できていますか?
一切の迷いはないと言い切れますか?
あなたの内面に、まだ何かもやもやとしたものがありませんか?
そのもやもやを誤魔化していませんか?

「私」について中途半端に納得せずに、また誤魔化さずに、もう一度しっかりと「私」を見てください。
見極めてください。

内面にあるもやもやを安易に誤魔化さないで、それに向き合って頂きたいと思います。
それに徹底的に取り組んで頂きたいと思います。


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<余談です>
・人気ブログランキングのカテゴリを、スピリチュアルから哲学・思想に変えました。
 スピリチュアルのカテゴリは、占いやヒーリング等の方が主なので、微妙な違和感を感じておりました。
・5月24日の講話セッションは、現在のところ5名の方からお申し込みを頂いております。
 お陰様で参加者ゼロは免れそうです。(^o^)
 当日は家内も会場に来たいなんて言っておりまして、皆さんが驚かれないように予めここに書いてみました。

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苦から逃げない、私から逃げない

2015年05月04日 22時37分05秒 | 悟り
◇苦から逃げない、私から逃げない◇

普通の人はもちろん、悟りの道を歩む人の殆どの人も、苦に対して逃げ腰です。
苦から逃げようと目を背けてばかりです。

それだから、意識は定まらず、ふらふらと彷徨ったままだし、直ぐに何かの考えに縋り付き、それに頼ろうとします。
考えを握り締めると、それにより分別や感情、衝動が引き起こされ、ますます意識は右往左往と騒ぎ出します。
そして、自らの考えを外側に向けて主張します。

しかし、そうやって右往左往している本人たちが自分の姿に気づくことはありません。
意識が外側に向いてしまったままでは、気づきようもないのです。

それに気づくためには、意識を中心である「私」に向ける必要があるのですが、多くの方は、苦から逃れようとするあまり、意識が外側に向いてしまうのです。

苦と向き合う覚悟がないのです。

どんな苦も受けて立ってやろうという気概がないのです。

苦から逃げない、私から逃げない。

そう覚悟を決めて頂きたいと思います。

覚悟さえ決まれば、自覚も必要ないくらいです。
あとは自ずと解け、定まっていきます。


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無明を悟る

2015年05月03日 09時07分54秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇無明を悟る◇

無明について、多くの方は、まだ悟りが得られず迷っていることというような理解をしておられるようです。
そのような方は、悟ることを光明を得る等の表現をされます。

しかし私は、無明について全く違った考えを持っています。
私は、無明とはこの世界の、あるいは「私」という存在の本質的な姿を表していると思っています。

つまり私は、光よりも闇が本質だと理解している訳です。

この光と闇に関する考察は、大変興味深いものであり、かつ本質的な視線を含んでいます。
みなさんもぜひ、考えてみて頂きたいと思います。

光とは楽や快あるいは充であり、闇は苦や恐れですから、表現を変えると、楽と苦のどちらが本質かということです。

おそらく、多くの方は、光が本質だと考えられると思います。
ごく一部に、光も闇もどちらも本質ではないと考える方がおられるんだと思います。

これ以上は、私がいくら言ってもダメでしょうから、ご自分で考え、追求して頂きたいと思います。


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