私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

悟りを求める心と自覚

2015年05月11日 22時46分14秒 | 自覚ワーク等の紹介
◇悟りを求める心と自覚◇

悟りに至るとき、突如として悟りの方からやってくるパターンと、悟りに対して何らかの意図を持って歩んでいる過程でそれに至るというパターンがあります。
前者の場合は悟りが勝手にやってくるパターンなので本人の悟りへの意志が問題になることはありません。
しかし、後者の場合は、悟りに対する強固な意志がカギになっているケースもあり、悟りへの意志はしっかりとした強固なものである必要があります。

現実問題としては、そのような悟りを求める心は、悟りの道を歩む過程で、歩を進める原動力になることもある一方、障害となることも多々有ります。
今日はその周辺について書いてみたいと思います。

まず始めに強く申し上げておきたいことは、意図して悟りの道を歩む際には、悟りへの強固な意志が必要なんです。
これは間違いありません。
その理由は単純で、悟りへの意志が歩を進める姿勢や原動力の源になるからです。
特に、深い悟りになるほど、燃え上がるような強い発心を伴った悟りへの意志が必要になることが多いのではないかと思っています。

しかし、現実には、悟りを求める心が悟りの道を歩む際の障害になってしまうことが多いのも事実です。
その理由は主に二つあります。

一つ目の理由は簡単です。
それは、悟りを求める心に潜む欲です。
多くの方は、悟るに対して何らかの特別なイメージを持っていて、悟るとその特別な何かが得られるように思い込んでいます。

例えば、幸せになれるとか、何をやっても上手くいくようになるとか、カリスマ性が得られるとか、何か特殊な能力が得られるとか、その他いろいろです。
自分はそんなバカな幻想は抱いてないと仰る方でも、まず間違い無く、それなりの幻想は必ず持っておられます(私(慧空)自身も、少しはありました、笑)。
このような欲や妄想のような期待感は、やはり悟りの道を歩む際の障害になります。
欲が強い場合は、それだけで悟りの歩みを完全に止めてしまいます。

この点について、悟りの道は、何かを得ていくものではなく、むしろ失っていくものなのです。
確かに、小悟等の浅い悟りでは幸福感が生じることがよくありますが、最終的な悟りになると、残念なくらい何もありません(幸福感さえもありません、(^o^))。
無用な幻想は捨てて頂きたいと思います。
その妄想があなたの歩みを妨げています。

もう一つの理由は、悟りを求める心に伴う意識の動き方です。
私たちの意識は、何かを求めると、必ず意識の向きが外に向かいます。
意識の向きが外向きになると、小悟等の浅い悟りはそれでも得られるときもあるのですが、大悟から先の深い悟りについては、まず得られないのです。
悟りを求める気持ちが強ければ強いほど、意識が悟りを探し求めるようにして、意識がより一層外向きになってしまうのです。

ですから、悟りを求める心をそのままにしておくと、いつまで経っても堂々巡りで埒(らち)が明かないということになりかねません。

ここで、自覚が有効に作用します。
悟りを求める心を自覚するのです。
悟りを強く求めている自分に気づいたら、「ああ自分は、本当に強く悟りを求めているんだな」と自覚するのです。

すると、外側に向いていた意識がすっと「私」に向き、それによって、悟りを求める強力な意識の視線が「私」に注がれるようになります。
また、自分の意識が外側に向いていることに気づいたら、その度に、意識の向きを「私」に振り向かせるようにします。
強い意識の視線が「私」に振り向けられる度に、私という自我を構成する囚われ(執着)が削られていきます。

そのように、自覚を上手に使い、悟りの道を歩んで頂きたいと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。

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読んで頂いてありがとうございました。

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