summer diary

日記らしきページ

何でもかんでも一緒にするのはどうかと思う

2018年05月12日 | Weblog

 最近のニュースはセクハラなどのニュースが多すぎる気がする。 不倫やセクハラがどうも持てはやされている気運があり、いろんな事情や事件性も含めてニュースになっている。 最新では衆議院議員の加藤議員の結婚披露宴での子供3人生んで欲しいなどの呼びかけにも過剰に反応した向きもあり、TOKIOの山口達也の未成年へのセクハラ?暴行?になるのか? ニュースなども含めてだけど、最近はこの手のニュースが多すぎる。 もちろん、福田事務次官の女性記者へのセクハラ発言は音声データーもアリ、犯罪に等しいと思える事件?だと思うけど。 さらに、群馬県みなかみ町の前田善成町長の団体職員に飲み会の席でキスを強要したとのニュースなど最近はあまりにも多くのセクハラ関連のニュースが連日のように報道されている。 しかも、ほぼすべてが公職についている人物や芸能人のセクハラだ。 女子高生のスカートの中をカメラで撮影して逮捕される公職の職員や警察官もいるのだ。 学校の先生さえも教え子にセクハラ、乱暴、さらには強姦にまで及ぶような事件も多い。 

最近はどうなっているのだろうか? スマホなどの普及もあり、SNSなどでは見知らぬ人とコンタクトを簡単に取ることも出来る世の中だ。 年齢に関係なく、だれとでもその気になれば出会えて、実際に合う事さえ容易なことだ。 何か事件に巻き込まれるとそれは明らかに男性の方に非があると言う結論に至る。 なんでだろう? 誘うことはごく自然なことだし、別にネットやスマホでなくても、実際に声を掛けてナンパするのは昔から行われてきたことだし、それが若人の普通の行動だろうと思う。 彼女が欲しいから街中で見かけた素敵な女性に声を掛けてきっかけを作ることは犯罪ではない。 これはスマホでも同じでしょ。 問題は実際に合いに行く事への自分自身への責任だ。 私は別に山口達也の擁護をするつもりは全くないけど、仮に山口が猥褻な行為を未成年にしたとして、じゃ、その未成年の女性はなんで山口が40過ぎのオッサンであることを承知の上で家に訪れたのかだ。 そのに問題があるのだ。 自分自身がどんな立場でその家に行ったのか? どうして二人きりになった時にそういう事になるという想像が出来なかったのか? それは実際にいとも簡単に想像できたはずだ。 小学生の低学年や幼稚園児でもない限り、それぐらいの認識が無いこと自体がおかしいし、高校生にもなって、どのような状況になったら危険な状態なのかも察知できないような幼稚な感覚自体が理解できかねる。 もちろん、山口の行為が許されないことは当然だろう。 しかし、自宅で一緒に酒を飲んでいるような状態で男が若い女性を前にしてその気にならない方が逆に不自然だろう。 そうした状況を作ること自体が問題であり、これは少なくとも女子高生(しかも、TV番組でも共演している仲だ。)にも問題があると言わざる得ない。 逆に言わせてもらえば、少なくとも、一方的な被害者ぶるのは止めて欲しいのだ。 何よりも、強制的に部屋へ引きずりこまれたわけでもないのだ。 自分から誘われて行っている以上は自分の責任でもあるのだ。 それはSNSで知り合った見ず知らずの人と会うことと同じだ。 そこで、事件に巻き込まれる(自らがその中に行ったのだ)ことになっても、それは自分自身の危険予知能力の無さでもある。 いとも簡単に出会い系サイトで知り合った人と実際に合い、そこで何か事件的な問題が起きたとしてもそれは本人の責任でしかないだろう。 そんなに善人ばかりの世の中ではないし、むしろ、そうしたサイトで出会おうとする者は少なくともあばやくば男女の関係を作りたいと思っているのが実情だろうからだ。  何しろ、男は子孫繁栄のために生きてきた生物的な歴史がある。 いつでもその行為が出来るように準備されているのだ。 いつ命を落とすかもしれない自然界の厳しい世界で、自分の子孫を残すことが最大の生まれてきた意味があるのだ。 別に人間だからと言って、それは不定できないのだ。 人間も動物なんだと言うことを忘れてはいけないだろう。 もちろん、これが全てとは言わないし、だからと言って、社会的な約束や法律や制度や規制、常識、当たり前だけど、人間としての尊厳を踏みにじるような行為が許される訳でもない。 

最近のこうした報道を見ていると、どうも違和感を覚える。 セクハラを容認しようなんて思っている訳ではない。 しかし、あまりにも些細な行動があたかも異常なほどの罪悪感を持って報道されることに少し危険な違和感を感じるのだ。 この先、男女の関係をどのようにしたいのか? 男性が女性を求めること自体が罪悪化するような世の中になったら、まっ、男も女も不幸などん底に落ちるような気がする。 


知多四国結願・・・興正寺

2018年05月12日 | Weblog

 今日も最高の天候になった。 風もほとんどない暖かい日だ。 夕方から天気は下り坂の予報になっているけど、今はまったくそんな気配は感じないほどの好天気。 午後からは汗ばむような気温になりそうだ。 昨日から妻は京都の親戚の家に妻の兄弟と一緒に泊りで行っている。 親戚の叔母が亡くなったので、通夜、葬儀に出席するために昨日の午後から車で出発した。 ここから高速道路を使用して京都までだと凡そ2時間30分ぐらいだろうか。 休憩を入れると3時間近く掛かるかもしれない。 

息子も朝から仕事で出かけてったし、今は私一人で家に居る。 朝から洗濯物を2回洗濯して干し終わり、片付けなどを終えたところだ。 せっかくの天気なので今日は自転車で出かけるつもりでいる。 昨日はグロムで八事山 興正寺へ結願の参拝をして、御朱印を頂きに行って来た。 ここからグロムで50分程度で到着できた。 有料の駐車場があるので停める心算だったけど、ゲートでチケットの発券が出来ず、(バイクは反応しないみたいだ)入り口の広い場所に停止させた。 特に通行に支障が出るような場所でもなく、このお寺自体が相当な大きさでもあり、問題ないだろう。 実際に停めていても特に何も問われることもなく、参拝を終えることが出来た。

境内に入って行き、どこから参拝したらいい物やら・・・。 とりあえず、本尊だろうと思われる所を最初に参拝。 その横に納経所があったので、中へ入ると御朱印を貰える所だった。 女性の方に御朱印を頂きたいと言うと、奉納帳を出してどこに押しましょうか?と問われたので、奉納帳の最初にページに奥之院の御朱印、もう一つは最終ページに本尊の大日如来の御朱印を押してもらうことにした。 210年の記念御朱印も押して貰えたのは良かった。 しかも、この御朱印は納経帳には無いお寺なので、全て手書きで頂くことができたのだ。 しかも、手書きでも1か所100円の御朱印代だった。 2冊で4か所だから400円である。 これにはちょっと驚いた。 通常は手書きの御朱印は100円では頂けないことが通例だ。 もちろん、次回からは御朱印のみを頂くことになるので、ある意味では当然かもしれないけど。 何しろ、これまで御朱印を頂きに廻っているお寺とはその規模が違い、敷地の広さは相当なものだ。 境内にはエスカレーターまで完備されていて、足腰が悪い人にも配慮されているのは驚きだ。 本堂、普照殿と参拝して御朱印を頂いてから諸堂図を頂き奥之院までの道順を確かめて、私はエレベーターを使用せずに階段を上り、能満堂で参拝、墓地の中を通り過ぎて大日堂、弘法堂、奥之院では不動護摩堂、東山本堂の順で参拝して再び中門に戻り、バイクの停めてある場所へと戻った。 

これは中門から五重塔が見える所から撮りました。

能満堂から五重塔を眺める所から撮りました。

 

園照堂の前には水が滝のように流れていて、すがすがしい感じです。

 

法羅陀浄苑から登ってくる階段です。

この日は参拝者も少なく、ゆっくりと歩きながら参拝することが出来ました。 心が落ち着くとても良いお寺だと思います。 次回からは知多四国遍路が一巡した時には必ずこのお寺にも参拝して御朱印を頂きに来ることにしようと思っています。 家からも一時間程度で来ることが出来るので、次回も春の陽気が良い時に来たいと思います。 もう一つ結願のお寺が覚王山の日泰寺である。 このお寺にも足を運んでみたいと思っているので、近いうちに行こうと思っています。 やはり、こうして一巡毎にその証として参拝するのが良いだろうと思います。 もちろん、それは絶対ではないし、自分が気に入っているお寺を何度も参拝する事も良いと思いますし、仮に私もそうですが、島へはなかなか行けないので全てのお寺を廻ることが出来なくても、自分の節目として結願するのも良いと思います。 今回も二冊持って行きましたが、今年新調した納経帳はまだ日間賀、篠島のお寺には参拝していません。 それでも、絶対に行くことにしているので、今回はその前に結願の意味で御朱印を頂くことにしました。 まっ、御朱印はある意味では自己満足と言ってしまえばそうなので、特に御朱印を頂かなくてもお寺に参拝して心を清めること、願いを込めることもあるでしょうが、それ以上に本来、煩悩を無くし、少しでも釈迦に近づけるようにお参りをして、弘法大師と同じようにお遍路をすることで生きることの意味や今ある姿を見つめることで自分を見失うことなく、誠実に生きることが大切だと思うのだ。 何のためにお遍路をしているのだろうか? と自分に問い質す時に、私は当初はバイクで行く目的地に過ぎなかったのだ。 今は何度もお参りを重ねているうちに参拝することで心を清め、自分を見詰め、出来る限り邪念を自分の中から無くし、人だけではなく、周りにある物の全てと共存して生き、あるがままの自分を愛することが出来るようになることが最も大切な精神を生むことが出来る根源だと思うのだ。 自分に嘘をつくことはもちろんだけど、誰かに嘘を付いていたり、誰かを恨んでいたり、何かに不満を持っていたり、いつも満たされない気持ちなどを抱いていたりする間は本当に自分を好きになれないのだ。 自分を好きになれない(愛することが出来ない)以上、他人を愛することも出来ない。 なぜなら、全ての物は自分自身だからだ。 この世の存在は自分の目に見る物、触れる物、聴くもの、感じる物であるからだ。 

さて、以前から一度は参拝したいと思っていた興正寺にも行ったし、これからもお遍路はこの身体が動く限り続けることにしたい。 これからもグロムは私のお遍路の大切なパートナーである。 このバイクはお遍路をするには最適な私の足になってくれている。 今後も大切にしていきたい。 次回6順目は梅雨明け後になるだろう。或いは、真夏はちょっと無理なので9月を過ぎたぐらいになるかもしれないな。 それまでは気になっているお寺や神社にグロムで出かけようと思っている。