猫のトイレを掃除したり、カリカリを山盛りにしたり
出発直前に猫缶を2つ皿に盛り付けしたり…
これから24時間以上、家を開ける時の儀式です(笑)
一人暮らしで猫を飼っていると悩むところなのさ。
まあ、基本的に猫が自由に出入り出来る家なので
餓死する心配は無用だし、ご近所さんにお願いする手もある。
さっさと出掛けないと心が揺らぐwww
土曜日の夜8時にトラックのエンジンを掛けた。
カーナビの目的地を南三陸町志津川に設定し
到着時間は午前2時過ぎと表示されている。
ああ、やっぱり6時間以上は掛かるのだな?
平井大橋から首都高中央環状線に乗り東北道に。
40歳を過ぎてから夜の運転が苦手になっている。
カーナビの音声から「この先100km以上道なりです」と聞くたびに
あぁ…とんでもない遠くを目指しているんだなぁ~
と自信を無くしたけど、その反面
そんな事ではボランティア出来ないぞ!と自分を励ましてもいた。
キッツcatさんのブログで読んだけど東北道の道路状況は
宮城・福島県内では荒れているそうだった。
一定のスピードを保持する大型トラックの後ろを走っていると
テールランプが上下に揺れたりブレーキランプがそれを教えてくれる。
道路のゆがみ、修復した路面の継ぎ目で下から突き上げるような衝撃、
トラックのサスペンションはそれを吸収してくれない。
100km走る毎に休憩をした。
菅生PAでガソリンを給油。AM00:55。既に350km走った。
若柳金成IC手前の長者原SAで仮眠しながら明るくなるのを待った。
考えてみれば昨夜夕飯を食べていない、朝食はカレー丼とそばのセット。
売店で牛タン弁当を昼食用として買った。
高速を降りてからは県道4号と国道398号を繋ぎ太平洋に向かう。
海岸線から離れた場所に漁船を見つけ、ガレキの山が増えてきた。
坂道を下ったら目の前には津波で壊滅した街が広がっている
言葉を失う風景です。
カーナビの案内する道路はガレキと海水に浸かって通行止め。
街中の建物は全てが破壊されている。
鉄骨の建物は骨組みだけが残っていて
鉄筋コンクリートの建物は躯体だけが残っている。
住民が一人も住んでいない街。
震災から2カ月になると言うのに何も変わらないの?
SAで仮眠をした時にふと「このまま帰るのもあり?」と心が揺れたけど
来て良かった。いや来るべきなんだ!
目の前に広がるこの凄まじい街の姿を心に焼き付けなければいけない!
道路脇に手書きのべニア板の案内板を見つけた。
←ベイサイドアリーナと書いてあった。
ボランティアセンターのある町内最大の避難所でもある。
坂を登った高台にその建物はあった。
手前の工場のフェンスには
「自衛隊のみなさん ありがとう」と書いた横断幕がある。
避難所へは夜から早朝に近づいてはいけません!と予備知識があったが
敷地内へ出入りする車が多いので入ってみた。
駐車場手前にあるプレハブの建物群は仮設の志津川病院。
一番奥のテントがボランティアセンターになっている。
駐車場には各地から来ているボランティアの車、
私もそこにトラックを静かに停めた。
朝6時。
駐車場の真ん中には自衛隊の車両が整然と並びすでに給水が行われている。
地元ナンバーの車が次々とやって来てはポリタンクに水を汲んでもらう。
津波被害をまぬがれた高台の家に住む人も電気や水道の無い生活。
仮設トイレが何台も並んでいるがその横には仮設の手洗い場。
トイレでは「小」では水を流すな!「大」の時だけ水を流せ!
トイレットペーパーはくずかごに捨てる。
手洗い場の使用済みの水は小さなプールに貯めてトイレの洗浄用に。
水の手に入らない生活そのものです。
給水活動をする自衛隊員が増えてお湯を沸かしている。
駐車場の上の方に新しい大きな体育館みたいな建物がある。
街に不釣り合いなほど大きくて立派な建物こそベイサイドアリーナ
この地域最大級の避難所となっている。
その建物から魔法瓶を持ってお湯をもらいに人が出てくる。
多分そちらでは自衛隊による朝食の炊き出しが始まっているのだろう。
自衛隊員と避難住民の会話が和やかです。
さて、8時頃になると人の動きも活発になり駐車場も車が増えている。
自治医科大学からは医療の応援チームが大勢来ている。
医師・看護師・薬剤師と名前が入ったベストを着ている。
志津川病院ではたった一人の医師が身重の妻を仙台に避難させて
被災者の治療にあたっていた姿はテレビで紹介されてました。
この勇気があり使命感に燃える姿は全国の医療従事者の心を動かし
今の体制を作り上げたと思います。
ベイサイドアリーナの敷地の一角に消防車が並んでいる。
そうです、消防署も津波に破壊されている。
広い敷地の奥にはトレーラーの荷台に重機が積まれ
続々と自衛隊のトレーラーヘッドがやって来ては
重機をガレキの撤去活動の為に運び出している。
そう、この志津川地区は犠牲者も多く自衛隊の遺体の捜索は
先週まで手作業で行われていたのです。
ようやく重機でのガレキの撤去作業が始まりました。
震災から2カ月、ガレキの街がそのままになっている事情はそこにある。
避難生活を続けている住民の生活の根幹を支えているのは自衛隊です。
「自衛隊のみなさん ありがとう」の横断幕の意味が理解できました。
涙枯れるまで泣いたら、生きている人の復興が始まるのだ!
私もそのほんの一部でもお手伝いが出来ると考えてみたら
ボランティアに来て良かったとつくづく思います。
つづく
出発直前に猫缶を2つ皿に盛り付けしたり…
これから24時間以上、家を開ける時の儀式です(笑)
一人暮らしで猫を飼っていると悩むところなのさ。
まあ、基本的に猫が自由に出入り出来る家なので
餓死する心配は無用だし、ご近所さんにお願いする手もある。
さっさと出掛けないと心が揺らぐwww
土曜日の夜8時にトラックのエンジンを掛けた。
カーナビの目的地を南三陸町志津川に設定し
到着時間は午前2時過ぎと表示されている。
ああ、やっぱり6時間以上は掛かるのだな?
平井大橋から首都高中央環状線に乗り東北道に。
40歳を過ぎてから夜の運転が苦手になっている。
カーナビの音声から「この先100km以上道なりです」と聞くたびに
あぁ…とんでもない遠くを目指しているんだなぁ~
と自信を無くしたけど、その反面
そんな事ではボランティア出来ないぞ!と自分を励ましてもいた。
キッツcatさんのブログで読んだけど東北道の道路状況は
宮城・福島県内では荒れているそうだった。
一定のスピードを保持する大型トラックの後ろを走っていると
テールランプが上下に揺れたりブレーキランプがそれを教えてくれる。
道路のゆがみ、修復した路面の継ぎ目で下から突き上げるような衝撃、
トラックのサスペンションはそれを吸収してくれない。
100km走る毎に休憩をした。
菅生PAでガソリンを給油。AM00:55。既に350km走った。
若柳金成IC手前の長者原SAで仮眠しながら明るくなるのを待った。
考えてみれば昨夜夕飯を食べていない、朝食はカレー丼とそばのセット。
売店で牛タン弁当を昼食用として買った。
高速を降りてからは県道4号と国道398号を繋ぎ太平洋に向かう。
海岸線から離れた場所に漁船を見つけ、ガレキの山が増えてきた。
坂道を下ったら目の前には津波で壊滅した街が広がっている
言葉を失う風景です。
カーナビの案内する道路はガレキと海水に浸かって通行止め。
街中の建物は全てが破壊されている。
鉄骨の建物は骨組みだけが残っていて
鉄筋コンクリートの建物は躯体だけが残っている。
住民が一人も住んでいない街。
震災から2カ月になると言うのに何も変わらないの?
SAで仮眠をした時にふと「このまま帰るのもあり?」と心が揺れたけど
来て良かった。いや来るべきなんだ!
目の前に広がるこの凄まじい街の姿を心に焼き付けなければいけない!
道路脇に手書きのべニア板の案内板を見つけた。
←ベイサイドアリーナと書いてあった。
ボランティアセンターのある町内最大の避難所でもある。
坂を登った高台にその建物はあった。
手前の工場のフェンスには
「自衛隊のみなさん ありがとう」と書いた横断幕がある。
避難所へは夜から早朝に近づいてはいけません!と予備知識があったが
敷地内へ出入りする車が多いので入ってみた。
駐車場手前にあるプレハブの建物群は仮設の志津川病院。
一番奥のテントがボランティアセンターになっている。
駐車場には各地から来ているボランティアの車、
私もそこにトラックを静かに停めた。
朝6時。
駐車場の真ん中には自衛隊の車両が整然と並びすでに給水が行われている。
地元ナンバーの車が次々とやって来てはポリタンクに水を汲んでもらう。
津波被害をまぬがれた高台の家に住む人も電気や水道の無い生活。
仮設トイレが何台も並んでいるがその横には仮設の手洗い場。
トイレでは「小」では水を流すな!「大」の時だけ水を流せ!
トイレットペーパーはくずかごに捨てる。
手洗い場の使用済みの水は小さなプールに貯めてトイレの洗浄用に。
水の手に入らない生活そのものです。
給水活動をする自衛隊員が増えてお湯を沸かしている。
駐車場の上の方に新しい大きな体育館みたいな建物がある。
街に不釣り合いなほど大きくて立派な建物こそベイサイドアリーナ
この地域最大級の避難所となっている。
その建物から魔法瓶を持ってお湯をもらいに人が出てくる。
多分そちらでは自衛隊による朝食の炊き出しが始まっているのだろう。
自衛隊員と避難住民の会話が和やかです。
さて、8時頃になると人の動きも活発になり駐車場も車が増えている。
自治医科大学からは医療の応援チームが大勢来ている。
医師・看護師・薬剤師と名前が入ったベストを着ている。
志津川病院ではたった一人の医師が身重の妻を仙台に避難させて
被災者の治療にあたっていた姿はテレビで紹介されてました。
この勇気があり使命感に燃える姿は全国の医療従事者の心を動かし
今の体制を作り上げたと思います。
ベイサイドアリーナの敷地の一角に消防車が並んでいる。
そうです、消防署も津波に破壊されている。
広い敷地の奥にはトレーラーの荷台に重機が積まれ
続々と自衛隊のトレーラーヘッドがやって来ては
重機をガレキの撤去活動の為に運び出している。
そう、この志津川地区は犠牲者も多く自衛隊の遺体の捜索は
先週まで手作業で行われていたのです。
ようやく重機でのガレキの撤去作業が始まりました。
震災から2カ月、ガレキの街がそのままになっている事情はそこにある。
避難生活を続けている住民の生活の根幹を支えているのは自衛隊です。
「自衛隊のみなさん ありがとう」の横断幕の意味が理解できました。
涙枯れるまで泣いたら、生きている人の復興が始まるのだ!
私もそのほんの一部でもお手伝いが出来ると考えてみたら
ボランティアに来て良かったとつくづく思います。
つづく