29日の自民党総裁選で、新総裁に選出された岸田文雄氏(64)は通産官僚(当時、後に衆院議員)だった父の都合で、小学1〜3年時を米国で過ごし、帰国後は東京都千代田区立永田町小(現・麹町小)に転入した。同級生の石川二郎さん(64)によると、岸田氏は目立つタイプではなかったが、外国人が訪れた際に〝通訳〟を任されるなど、後に外相を務める能力の片鱗(へんりん)をのぞかせていた。

区立麹町中を経て、全国屈指の進学校、開成高に進学。教室前列の席に好んで座り、今も変わらぬ猫背姿で、真面目に勉強に励んでいた。「常に落ち着き、大人びていた。誠実な人柄で、信頼されていた」という理由で「ボクらのパパ」なるあだ名もついた。

野球部の同級生で、主将だった関根正裕さん(64)は「努力の人。不平不満を漏らしたことがない」と評する。合宿では練習場から宿舎までランニングで戻るのが日課だったが、サボる仲間を横目に、岸田氏は黙々と走り続け、宿舎で倒れ込むこともあった。

引退試合になった2年時の夏季大会。相手打者の打球が二塁手の岸田氏の足の間を抜け、走者が本塁にかえってコールド負けが決まった。今でも同級生が集まれば、このエラーが必ず話題に上るが、「岸田は不愉快な顔もせず、笑って聞いている」(関根さん)。

総裁選で「聞く力」をアピールした岸田氏。高校2、3年時に同じクラスだった京都大工学部教授の三ケ田均さん(63)は約20年前、科学関連予算の陳情で岸田氏を訪ねたときのことを思い出す。結果的に予算は獲得できなかったが、「これは政治の問題だといって、真剣に話を聞いてくれた。バランス感覚に優れているのは、昔から変わらない」と話す。

関根さんと三ケ田さんが口をそろえるのは、昨年の総裁選で敗北を経験し、顔つきが変わった岸田氏の姿だ。関根さんは「『次も挑戦したい』と言い続けていた。1年間、秘めたものがあったはず」。三ケ田さんは「首相になっても人の話を聞き、最大公約数をとる政治をやってくれると思う」とエールを送った。

岸田氏自身が「挫折」と認めるのは大学受験。3度挑戦した東大に受からず、早稲田大法学部に進んだ。ゼミの指導教官だった同大名誉教授の浦川道太郎氏(75)は「早稲田には東大を落ちた人もいれば、地方から早稲田を目指してきた人もいる。『東大だけが世界じゃない』ということが分かり、多様性が身に付いたと思う」と分析する。

岸田氏は現在、議員宿舎で長男の翔太郎さん(30)、次男(24)と同居し、風呂掃除や食器洗いなどの家事は分担してこなす。父親としては「放任主義」。平日は東京、土日は選挙区のある広島で支援者回りの日々を送っていた。ただ、年1回の家族旅行は欠かさず、「多忙でも家族の時間を大切にしようとしていた」(翔太郎さん)。

2度目の総裁選は、家族総出で挑んだ。昨年4月から秘書を務める翔太郎さんは、親子で出演した会員制交流サイト(SNS)の動画配信などを企画。妻の裕子さんも「地味」と指摘される岸田氏の胸元に、鮮やかな赤やピンクのネクタイをコーディネートし、演説会などに送り出した。決戦の日のネクタイは「勝負カラー」の青だった。