いつも、元気に迎えてくれるSさん。
95歳とは思えないほどフットワークがいいのですが、座りだこから悪化した褥瘡の処置をしに行っています。
いろんなこと、分からなくなったり、物忘れも激しくなったり、不思議なことをやっていたり・・・でも、いつも明るくていつも笑顔で過ごされています。
今日は、戦争の話をしてくれました。
Sさんは、徴兵されてまず配属されたのは満州だったそうです。
満州の田舎町にその小隊はいたそうですが、休みともなると歩いて1時間くらいかけ、大きな町に遊びに行ったそうです。
そのころは、満州が日本に統治されていて、大きな変動はなかったのでしょうね。
街に出ると、あちこちに日本人が住んでいて、彼らを見ると「兵隊さん。ご苦労様です!」と言って、ご馳走してくれて、みんなそれが楽しみだった様です。
当時、伍長だったSさんの部下が、ある日顔をひどく殴られて帰ってきました。
「おい、どうしたんだ?」聞いてもなかなか答えません。
兵舎の裏に連れて行って「誰にも言わんから、本当の事言ってみろ。」と言うと、やっと話し始めました。
町はずれの路地を兵隊が歩いていると、路地の影から「おい。」と呼ぶ声が聞こえます。
何かと振り返ると、憲兵がいきなりサッと敬礼をするのだそうです。
兵隊は、急に憲兵が現れて敬礼するもので、びっくりしてもたもたしていたら「貴様、自分が敬礼しているのに答礼しないとは何事か!!」と言って、いきなり殴られたというのです。
当時、一番下っ端の兵隊からみれば、憲兵はとても怖い存在だったそうで、はむかえる理由はなく、ただボコボコにされるがままだったそうです。
それは一人だけではなく、街に出るたび何人もの部下が同じ目にあってきたので、Sさんはその理不尽さに腹をすえかねて、ある日決心をしたそうです。
そして、その憲兵がいるところの前を、わざとゆっくり歩いて行くとやはり「おい」と呼ぶ声が・・
声と同時に振り返ったSさんは、憲兵が敬礼するよりも早く、サッと敬礼し挨拶をしました。
びっくりしたのは相手のほうで、あたふたする姿を見ると、憲兵もまた伍長であることが分かったそうです。
けれど、当時憲兵のほうが絶対的権限を与えられており、兵隊が物申すなどとんでもないことでした。
それでもSさんは「なぜ私の敬礼に答礼しないのですか!?私の部下に対して、答礼をしないと言って殴ったのではないですか?!」と詰め寄ったそうです。
本当なら、ここのままだと逆にSさんはとんでもないことになっていたかもしれないのですが、ちょうどその時、向こうから憲兵の上官が馬に乗ってやってきたそうです。
「何をしている?」と聞かれたSさんは、今までの経緯を話しました。
すると上官は「分かった。それは私の部下が悪かった。私からよく話しておくから、もう行きなさい。」と言ったそうです。
Sさんは、礼を言って逃げるようにその場を去って、公園の椅子を見つけてへたり込むように座った時には、全身冷汗が流れていたそうです。
Sさんは言います。
「憲兵に楯ついたらら、どんな罰が待っているかもわからなかったけれど、どうしても許せなかったんだ。だから、腹をくくっての抗議だった。」と。
「かっこいいですよ!!すっきりしますね。でも、憲兵の偉い人がいい人でよかったですねー。」
「はははは。本当だよ。怖かったよー!」
遠い遠い昔の話です。
でも、なんか臨場感があって、思わず聞き入ってしまいました。
Sさんは、その後軍曹となって南方のトラック島に配属されました。
南海の美しいサンゴ礁の島ですよね。一度は行ってみたいなんて思っていました。
けれど、当時は戦争中です。
当初はバナナやその他の果物など、現地人もいて結構あったようですが、戦争が長期化して、やがて敗戦の色濃くなってくると、食料も尽きみな栄養失調になっていったそうです。
「魚は採れるでしょう?」
「最後のころは、島の周囲をぐるっとアメリカ軍の船に囲まれて、魚をとろうと下手に海に出れば、鉄砲玉が飛んできたんだよ。だから、夜中や明けがたそーっと魚をとり行くんだ。でも、大した魚じゃなかったよ。そなことは言ってらんないから必死に食べたけど。塩だけはいっぱいあったから塩焼き。ドラム缶いっぱいの海水を煮込むと4分の一くらの潮になったんだよ。」
あとは、トカゲや蝙蝠。
「トカゲは鶏肉みたいな味で、蝙蝠は脂があって結構おいしかったよ。でも、それすらもとれなくなって、みんなもう飢餓状態だった。じゃんけんをして負けた奴が、生えている雑草や木の実を食べるんだよ。それで、おなかが痛くなかったらみんなで食べるんだ。美味しいとかそんなこと言えないから。必死だった。」
「自分には48人の部下がいたんだ。でもそのうち20人が栄養失調で死んだ。それはひどい状態だった。戦死者ってよく言うだろ?兵隊はさ、鉄砲玉に当たって死ぬのは覚悟が出来てるんだ。でも、戦死者って言われる人の60%が本当は栄養失調で死んだんだよ。体中がむくんで、しぼんで3回繰り返すと死ぬんだよ。」
「栄養失調で死にそうな部下にさ、ご飯炊いて缶詰あけて食べさせようとするとさ、ある奴はもうすぐ自分が死ぬの分かっているから、それ見てボロボロ泣きながら『もったいない。』と言って、仲間の兵隊に食べさせて死んだよ。
ある奴は、やっぱりボロボロ泣きながらそれをかき込んで『もうこれで、思い残す事はありません。安心して地獄に落ちます』って死んでったよ。
日本は、そんな戦争をしたんだよ。」
Sさんの記憶が、どこまで正しいのかはわかりません。
けれど、きっとそれは本当にあったことなのだと思います。
胸がいっぱいになりました。
この老人の生きてきた道のりが、どれほど過酷なものだったのか・・・
動乱の日本を生き抜いたこの老人への、尊敬と感謝の想いで胸が熱くなりました。
そして、こういう話はちゃんと残したいと思います。
以前、NHK連続テレビ小説ものの半世紀を毎週話してくれたおばあちゃんがいて、今となってはなぜ書き留めておかなかったのかと悔やまれてなりません。
先人の経験を忘れないために、今日話はここに記します。
95歳とは思えないほどフットワークがいいのですが、座りだこから悪化した褥瘡の処置をしに行っています。
いろんなこと、分からなくなったり、物忘れも激しくなったり、不思議なことをやっていたり・・・でも、いつも明るくていつも笑顔で過ごされています。
今日は、戦争の話をしてくれました。
Sさんは、徴兵されてまず配属されたのは満州だったそうです。
満州の田舎町にその小隊はいたそうですが、休みともなると歩いて1時間くらいかけ、大きな町に遊びに行ったそうです。
そのころは、満州が日本に統治されていて、大きな変動はなかったのでしょうね。
街に出ると、あちこちに日本人が住んでいて、彼らを見ると「兵隊さん。ご苦労様です!」と言って、ご馳走してくれて、みんなそれが楽しみだった様です。
当時、伍長だったSさんの部下が、ある日顔をひどく殴られて帰ってきました。
「おい、どうしたんだ?」聞いてもなかなか答えません。
兵舎の裏に連れて行って「誰にも言わんから、本当の事言ってみろ。」と言うと、やっと話し始めました。
町はずれの路地を兵隊が歩いていると、路地の影から「おい。」と呼ぶ声が聞こえます。
何かと振り返ると、憲兵がいきなりサッと敬礼をするのだそうです。
兵隊は、急に憲兵が現れて敬礼するもので、びっくりしてもたもたしていたら「貴様、自分が敬礼しているのに答礼しないとは何事か!!」と言って、いきなり殴られたというのです。
当時、一番下っ端の兵隊からみれば、憲兵はとても怖い存在だったそうで、はむかえる理由はなく、ただボコボコにされるがままだったそうです。
それは一人だけではなく、街に出るたび何人もの部下が同じ目にあってきたので、Sさんはその理不尽さに腹をすえかねて、ある日決心をしたそうです。
そして、その憲兵がいるところの前を、わざとゆっくり歩いて行くとやはり「おい」と呼ぶ声が・・
声と同時に振り返ったSさんは、憲兵が敬礼するよりも早く、サッと敬礼し挨拶をしました。
びっくりしたのは相手のほうで、あたふたする姿を見ると、憲兵もまた伍長であることが分かったそうです。
けれど、当時憲兵のほうが絶対的権限を与えられており、兵隊が物申すなどとんでもないことでした。
それでもSさんは「なぜ私の敬礼に答礼しないのですか!?私の部下に対して、答礼をしないと言って殴ったのではないですか?!」と詰め寄ったそうです。
本当なら、ここのままだと逆にSさんはとんでもないことになっていたかもしれないのですが、ちょうどその時、向こうから憲兵の上官が馬に乗ってやってきたそうです。
「何をしている?」と聞かれたSさんは、今までの経緯を話しました。
すると上官は「分かった。それは私の部下が悪かった。私からよく話しておくから、もう行きなさい。」と言ったそうです。
Sさんは、礼を言って逃げるようにその場を去って、公園の椅子を見つけてへたり込むように座った時には、全身冷汗が流れていたそうです。
Sさんは言います。
「憲兵に楯ついたらら、どんな罰が待っているかもわからなかったけれど、どうしても許せなかったんだ。だから、腹をくくっての抗議だった。」と。
「かっこいいですよ!!すっきりしますね。でも、憲兵の偉い人がいい人でよかったですねー。」
「はははは。本当だよ。怖かったよー!」
遠い遠い昔の話です。
でも、なんか臨場感があって、思わず聞き入ってしまいました。
Sさんは、その後軍曹となって南方のトラック島に配属されました。
南海の美しいサンゴ礁の島ですよね。一度は行ってみたいなんて思っていました。
けれど、当時は戦争中です。
当初はバナナやその他の果物など、現地人もいて結構あったようですが、戦争が長期化して、やがて敗戦の色濃くなってくると、食料も尽きみな栄養失調になっていったそうです。
「魚は採れるでしょう?」
「最後のころは、島の周囲をぐるっとアメリカ軍の船に囲まれて、魚をとろうと下手に海に出れば、鉄砲玉が飛んできたんだよ。だから、夜中や明けがたそーっと魚をとり行くんだ。でも、大した魚じゃなかったよ。そなことは言ってらんないから必死に食べたけど。塩だけはいっぱいあったから塩焼き。ドラム缶いっぱいの海水を煮込むと4分の一くらの潮になったんだよ。」
あとは、トカゲや蝙蝠。
「トカゲは鶏肉みたいな味で、蝙蝠は脂があって結構おいしかったよ。でも、それすらもとれなくなって、みんなもう飢餓状態だった。じゃんけんをして負けた奴が、生えている雑草や木の実を食べるんだよ。それで、おなかが痛くなかったらみんなで食べるんだ。美味しいとかそんなこと言えないから。必死だった。」
「自分には48人の部下がいたんだ。でもそのうち20人が栄養失調で死んだ。それはひどい状態だった。戦死者ってよく言うだろ?兵隊はさ、鉄砲玉に当たって死ぬのは覚悟が出来てるんだ。でも、戦死者って言われる人の60%が本当は栄養失調で死んだんだよ。体中がむくんで、しぼんで3回繰り返すと死ぬんだよ。」
「栄養失調で死にそうな部下にさ、ご飯炊いて缶詰あけて食べさせようとするとさ、ある奴はもうすぐ自分が死ぬの分かっているから、それ見てボロボロ泣きながら『もったいない。』と言って、仲間の兵隊に食べさせて死んだよ。
ある奴は、やっぱりボロボロ泣きながらそれをかき込んで『もうこれで、思い残す事はありません。安心して地獄に落ちます』って死んでったよ。
日本は、そんな戦争をしたんだよ。」
Sさんの記憶が、どこまで正しいのかはわかりません。
けれど、きっとそれは本当にあったことなのだと思います。
胸がいっぱいになりました。
この老人の生きてきた道のりが、どれほど過酷なものだったのか・・・
動乱の日本を生き抜いたこの老人への、尊敬と感謝の想いで胸が熱くなりました。
そして、こういう話はちゃんと残したいと思います。
以前、NHK連続テレビ小説ものの半世紀を毎週話してくれたおばあちゃんがいて、今となってはなぜ書き留めておかなかったのかと悔やまれてなりません。
先人の経験を忘れないために、今日話はここに記します。