日蓮正宗信徒として、ご供養は、大事な務めである。多寡に限りはないが、気持ちが大事だ。
現在の創価学会のように、幾ら出したんだからその分返せ、なんて、慳貪でケチでみみっちい事を言ってはいけない。あくまでも、自分の手の内を明かさず、左の手の事は右の手に知らせず、これ位捧げたのだから、これ位戻って来ても良いではないか、という、対価を求めてはいけない。日蓮正宗に尽くし切った、二代会長の戸田城聖先生の御言葉。
「もともと、御僧侶に対する供養は、仏に対する真心を現わすものであり、御僧侶は、大聖人に代わって、これをお納めになるのであって、供養は、純真なものでなくてはならない。」(『戸田城聖全集』第一巻六十二頁)
「いまさらいうまでもないが、寺ができたら、寺を大事にしていくことが第一。第二には、座談会とお寺参りとをごっちゃにしないでほしい。お講などのある場合には、お寺に御供養をする。寺になにか事があった場合は、入り口に白い紙をおいて御供養をするのです。たくさんとはいわないが、心からするように。
これを始めにいっておかないと、いまだにやってない寺がある。お布施をすることは、坊さんを喜ばすためにするのではない。それは、御供養をして、罪障を消していただくためにするのである。」(『戸田城聖全集』第四巻五〇二頁)
「このまえ、大講頭という職名がお山に決まりまして、私も全国大講頭の一人になったんですが、お山へお金をあげたら、収支決算書を出せという大講頭がおった。それで私はけんかしたのです。ふざけるな!というのです。お山へお金を供養して、坊さんがどのように使っても、使ったほうの罪で、出したほうの罪ではないですから。(中略)だから、それはいかんといった。」(『戸田城聖全集』第四巻四八五頁)
「それで、寺ができた以上には、今後は私のいうことを忘れずにいてほしいのは、信心を基調にして、折伏することと、お寺を大事にすることと、御本山に尽くすことはあたりまえのことなんだからね。それが自慢のようになっては、もう、信者としては資格がない。
いいか、もう一度いいます。折伏することと、お寺へ尽くすことと、御本山へのご奉公は、あたりまえのことなのです。それをしたからって、なにもえらいのではないのです。」(『戸田城聖全集』第四巻二三七頁)
誠に正論と言わざるを得ません。戸田先生のお言葉が、耳朶に染み渡るようです。