Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。日蓮正宗とは一切関係なく私個人の見解です。

ご供養をさせて頂くー日蓮正宗信徒としての務め、戸田先生の教え

2019年10月04日 16時49分58秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 日蓮正宗信徒として、ご供養は、大事な務めである。多寡に限りはないが、気持ちが大事だ。
 現在の創価学会のように、幾ら出したんだからその分返せ、なんて、慳貪でケチでみみっちい事を言ってはいけない。あくまでも、自分の手の内を明かさず、左の手の事は右の手に知らせず、これ位捧げたのだから、これ位戻って来ても良いではないか、という、対価を求めてはいけない。日蓮正宗に尽くし切った、二代会長の戸田城聖先生の御言葉。
「もともと、御僧侶に対する供養は、仏に対する真心を現わすものであり、御僧侶は、大聖人に代わって、これをお納めになるのであって、供養は、純真なものでなくてはならない。」(『戸田城聖全集』第一巻六十二頁)
「いまさらいうまでもないが、寺ができたら、寺を大事にしていくことが第一。第二には、座談会とお寺参りとをごっちゃにしないでほしい。お講などのある場合には、お寺に御供養をする。寺になにか事があった場合は、入り口に白い紙をおいて御供養をするのです。たくさんとはいわないが、心からするように。
 これを始めにいっておかないと、いまだにやってない寺がある。お布施をすることは、坊さんを喜ばすためにするのではない。それは、御供養をして、罪障を消していただくためにするのである。」(『戸田城聖全集』第四巻五〇二頁)
「このまえ、大講頭という職名がお山に決まりまして、私も全国大講頭の一人になったんですが、お山へお金をあげたら、収支決算書を出せという大講頭がおった。それで私はけんかしたのです。ふざけるな!というのです。お山へお金を供養して、坊さんがどのように使っても、使ったほうの罪で、出したほうの罪ではないですから。(中略)だから、それはいかんといった。」(『戸田城聖全集』第四巻四八五頁)
「それで、寺ができた以上には、今後は私のいうことを忘れずにいてほしいのは、信心を基調にして、折伏することと、お寺を大事にすることと、御本山に尽くすことはあたりまえのことなんだからね。それが自慢のようになっては、もう、信者としては資格がない。
いいか、もう一度いいます。折伏することと、お寺へ尽くすことと、御本山へのご奉公は、あたりまえのことなのです。それをしたからって、なにもえらいのではないのです。」(『戸田城聖全集』第四巻二三七頁)
 誠に正論と言わざるを得ません。戸田先生のお言葉が、耳朶に染み渡るようです。


キリスト教の限界、什一献金の呪縛

2019年10月04日 16時39分59秒 | 邪宗教キリスト教一神教・邪教占い・統一教会・神社神道・新興宗教・神様系・等々邪教
 キリスト教には、月に全収入の十分の一を神のものとして教会に差し出す什一献金という教えがある。イエス自身も「勿論、什一献金も大事だが」と言い、聖書にも十分の一を捧げる記述があちこちに見られる。
 これは、高額所得者よりも低所得者に厳しいものだ。一か月に一千万円の収入の人が百万円払うのと、十万円収入のある人が一万円差し出すのと、重みが違う。一千万の人は残り九百万円残るが、十万の人は九万円しか残らない。
 じわじわと貧乏な人たち程ジリ貧、苦しい家計となる。
 神の言いつけだからといって、こんな無法な話はない。日蓮正宗ですら、月に一度、会費として一世帯、月に千円。これは強制じゃなく、機関紙「大白法」「慧妙」の二部の新聞代も含まれる。月に一回程度、ご供養がお寺ではお気持ちで結構です、と千円二千円でも気持ちで払う位で、勿論自由で、払わない人もいるし、強制されてはいない。日蓮正宗はお金に汚くなく、スマートなのだ。
 キリスト教は、天国に死後行けるとばかり、天に宝を積むの甘言でえげつなく金を集め、その什一献金の呪縛たるや、如何ともし難い。
 正に守銭奴宗教の面目躍如だ。金集めのシステムが、キリスト教程徹底したものはない。
 ここにも、キリスト教の傲慢、限界が見えるのである。