吉田拓郎「落陽」を歌う。2023年11月20日 吉田拓郎の、「落陽」を歌いました。以上。よしなに。wainai
我慢して生きるほど人生は長くない、鈴木裕介著、を読む。ハーモニカ演奏付き 「我慢して生きるほど人生は長くない」を朗読しています。トンボ楽器の、複音オクターブ・ハーモニカで久しぶりに音楽を演奏しました。以上。よしなに。wainai
創価学会御用弁護士なのか?紀藤正樹氏のカルトセクトへの欺瞞と疑問 韓国系、統一教会問題となると、息巻いて、かなりの熱意を表して攻撃の手を緩めない紀藤正樹弁護士。しかし、これが、国内の、先日も名誉会長が亡くなった「創価学会」に関しては、一切の言及、批判批難の言葉すらない。むしろ、これらカルトセクトを生み出した、伝統宗教の暗に日蓮正宗を貶めるかの如くに、それら長い歴史ある宗教を無責任呼ばわりする。その欺瞞性を、この動画では、三証の内の文証から、この弁護士の詭弁を打ち破るべく、キリスト教系の牧師などにはいとも簡単になびき、日蓮正宗を始めとする既成仏教、特に正宗を貶めているのは実際上の事実であろう。この矛盾点を突いて、この動画を結ぶ。途中、電話が来て、丁度良い所で動画の終わりを告げた。 以上。よしなに。wainai
初めに、長文失礼致します。
私の両親は、良く喧嘩をした。私の幼い頃は、正に、口げんかの絶えない家庭だった。
私が保育園生位の時、又もや、夫婦喧嘩を両親はした。その後、父は母に「福島に帰る」の一言を告げて、私を伴い、ぷいと家を飛び出した。当時の我が家は神奈川県川崎市中原区のアパートの二階に住んでいた。
そうして、当時、南武線の、武蔵新城駅だか、武蔵中原駅だか、とにかく、駅前にゆき、その駅前にあるパチンコ屋に、私と父は入って行った。
父は、私にとっては初めてパチンコ屋に入ったが、父にとっても、パチンコ屋になんて行くなんて、父にとってもとても珍しい事だった。それ位、父は、自分がギャンブルというものに、何でもいいから行きたいと思う程、母との喧嘩で気が動転していたのかも知れない。
そこで、父は気が済むまで、パチンコ台と格闘していた。私は傍らにいて、父のそぶりを見つつ、父が、パチンコの玉が全然出ていない、下手くそさが幼少の私にも分かる程だった。結局、父は大負けして、景品など、もらえずにその場から去った。
一応、お金を使った後で、父と私は、そのパチンコ屋を出た。父は、ギャンブルに負けはしたが、何か、一つの、踏ん切りが着いたのか、綺麗さっぱりとした顔をして、私に言った。「ママのいる家に帰ろう!」。
私は意外だった。その頃から、私は、福島の父の親戚のいる家に何度か泊り、大変に、私自身、福島県の大ファンであったからだ。その憧れの地に又、私と父は行けるものだと、むしろ、父母のケンカを喜ぶ私がいた。家に居残る母の事など思いも寄せずに。
お父さんに、何故?と聞いても、父は何も答えなかった。父なりに、気分が今まで一度も通った事の無かった、パチンコ程度の娯楽で、気分が落ち着いたとしか思えなかった。
その後、父は二度と、パチンコ屋の店内などには、通ったりなどはしてはいない。その頃の父は、もう、身体障碍者であった。
ママのいる、アパートの二階に父は照れながら、ブスッとして、何食わぬ顔で、父は玄関を入り、そのまま、テレビを付けて、いつものようにして、家の中央に鎮座ましました。
母も出来たもので、何もなかったかのように、そのまま、父を迎えて、夜の食事を作り始めた。
その時くらいだったのか。父が家を飛び出すような真似をしたのは。否、しょっちゅう、父にとり、この福島の地は自身の故郷であり、何度か、神奈川にいる頃は、帰りたい、と言っては、母を困らせていたのだ。
父にとり、自分の命と引き換えにしても余りある程の、故郷福島への引っ越しだった。その、懐かしい土地に帰れただけで、父は幸せであったろう。私ら母子にとっては、南国育ち、血統が元々、鹿児島奄美大島の祖父の血を受け継いでいるせいか、私共は、人一倍寒がりであり、この東北の地の寒さが、身に凍み、気に掛かりはしたが、全ては納得ずくの、私や父母の引っ越しの選択だったのだ。
これが、我が家の、恥ずかしながら、ケンカの歴史である。その後も、父母は良く喧嘩をしていたが、夫婦のケンカは犬も食わない、とも言う。私は一人、コワがっていたが、誰にもそのコワさを語る事も無く、早く喧嘩が治まって、一家和楽、仲良くなって欲しいと願い思っていた。
学歴の違い、ちょうど、母の父が、言わば、私の祖父の、家の宗旨、信仰が、真言宗と言う事もあり、女が出しゃばり、と言って、母は一度も出過ぎた事等した事は無かったが、(父にとっては、その時となっては、母方の姓を名乗り、入り婿として、母の元居た、東京町田市の母の持ち家に身を小さくする如くに住み込んだと言う、その頃はおばあちゃんも一緒に住んでいたが)女が威張っているように見え、それは母の学のある、有名進学校、東京都立戸山高校卒と、父の、高等小学校卒との圧倒的な学歴差、その、微妙な夫婦関係が、父には時に、詰まらなく、面白くなかったのかも知れない。父も母も、怒る時には、非常に険悪な態度で、怒りを夫婦間の相手にぶつけていた。
こんな夫婦は、今現代ならば、幼児虐待で訴えられてもおかしくなく、私も、今では全て自身の中で呆れながらも水に流しているが、精神的にその頃から不安定ではあったんだろう。それでも、両親が一緒にいつまでも居続けて欲しい、と、一心に、子供ながらに切実に願った。まあ、父が亡くなるまで、私はてて無し児、ともならずに済み、全ては、大団円の内に納まった方だろう。
この文章が、何だかループ化していて、終わりが見えなくなりそうなので、この辺でキーを叩くのを止めて、書き終わろうと思う。
とにかく、父母は、学歴、性格、育ち、住みたい場所、相性、それら夫婦の夢・願望、人生の目指す方向性目的、等々が、全く逆の、正反対の夫婦であった。それを、主に母が自身を自己軌道修正をして、父に無理やり合わせる、と言う形を取っていた。
それが、福島の地に引っ越しても、基本、変わらなかったが、父にとっては、すこぶる、上機嫌だったようだ。なんせ、今までは母の建てた家に居候宜しく、住んでいたのが、今度は逆に、自分が建てた家に、家族を住まわせられた。あべこべの現象が起こったのだから。
途中、私が生まれた、神奈川開成町の、父の社宅に住んだり、その後のこの稿でも述べた、アパート生活を挟むが。
これ位にして、本当に、父母のケンカ話は、打ち止めにしたい。「後始末」とタイトル、題名に書いて置きながら、何の始末にも負えない程の、体たらくであり、父母の恥さらしで、父母にも非常に申し訳ない。
一応、父のパチンコ屋への、おそらく父もその当時最新の、大人遊びの極みというものを、父なりに、一時でも味わってみたかった。結果、それが、夫婦の仲違いを防いでくれた。夫婦水入らずの関係に、何故か、街角のパチンコが役立った、という、一風変わったお話をここでしました。
皆様、ここまでの長文を読んで頂き、誠にありがとうございました。これにて失礼致します。
※追記
後年、この私と父しか知らない事実を、父が亡くなった後、母がまだ今よりもだいぶ若かった感じの頃に、私から、その模様を、母に告げた。
それに対して、母は特段、深い感慨に耽るでもなく、「それ位で済んだから、良かったけれどもね」「パチンコ位で、そんなに気分が済むのかしら。私はやった事がないから判らないけれど」と言っていた。
私にとっては、夫婦関係にヒビが入らず、無事に父が一人きりで、若しくは私を伴って、家を出て行かないで、本当に良かった、と今では胸をなでおろして、私自身の心のよすがとしている。
以上。よしなに。wainai